ストーカー ①
ぱっと、振り返る。
通りすがりのサラリーマンが、いきなり振り返った私に驚いたようになって、少々挙動不審になりながらも私の横を歩き去る。
そこは、いつもの日常風景だ。
いつもの朝の光景だ。
通勤途中、通学途中の学生や会社員。犬の散歩をしているおじいさん。
気のせいか。
きっと、気のせいだ。
◆
あのこっくりさんをやった次の日。
その次の日のHRで、あっさり、あの四人の目が覚めたことを知らされた。よかったねえとどういうわけか私に言ってくる花蓮に(この女はたまに、全部知っているのかと思う。そんなわけはないのだが)、知らないよと返して、一限の準備をする。一限は確か、科学だ。
外面では何事もない、興味もない。赤井? 誰それ? な風を装って、内心、かなり安心していた。
よかった。
今回も、影宮くんを信じて正解だったのだ。影宮くんに任せて、正しかった。
別に、彼女ら四人にさほどの興味はない。ただ、影宮くんに言われて、お前のせいだ、みたいなことを言われて、それが本当に私のせいだというなら、寝覚めが悪いから。……いったい、私は誰に言い訳をしているのか。外面を取り繕うのはすでに癖になってしまっているが、まずいな。これでは、このままでは、私は心中さえも誰かの目を気にしなくてはならなくなる。
一瞬。
視線を感じた。
まるで舐るような。
それでいて、見分するような。
ばっと顔を上げる。
…………気のせい。
それはきっと、気のせいなのだ。
◆
「それってもしかして、ストーカーってやつ?」
「――――ストーカー?」
その単語が何たる意味を持っていたかを忘れてしまって、私は思わず、聞き返す。花蓮はその隙に私の弁当からだし巻き卵を取り除くと、あーんと口に放り込んでしまった。
机を向かい合わせての、昼ごはん。そんな中花蓮から聞かされた言葉は私が思っていたものとはまったくの予想外で(気のせいと言われるのを、おそらくどこかで期待していた)、ぽろり、一口ハンバーグが箸からこぼれ落ちる。
だってさー、と口をもごもご動かしながら、花蓮。
「最近、やけに視線を感じるんでしょ? でも、振り返っても誰もいない。それが四六時中続いてる。移動教室でも廊下でも通学路でも本屋でも自室でもお風呂に入ってる時でさえ。それ、完璧にストーカーだよ」
「…………その発想はなかった」
「その発想しかなかったよ。逆に夜々は何だと思ったんだよ……」
私はてっきり、またオカルト的な何かが、私を巻き込みに来たのかと。だとしたらこれは完璧に影宮くん案件かなと。でももしそういうのじゃなけりゃ自分で何とかしてみようかなと。そう思って、まず手始めに花蓮に話してみたのだが……。
なるほど、ストーカーね。納得だ。確かにあれは、考えてみればストーカーっぽい。というかストーカーってだけでも気色悪いのだが、私はどうやら感覚が麻痺してしまったらしい。怪異じゃなくてよかったと思ってる。
「早めに、親とか警察とかに相談しといたら? 最近のストーカーってのは怖いよー? 最終的には殺されちゃったりしちゃってさー」
「…………」
「ねずみの死体とか贈られたり」
生首を贈られるよりはマシだな、と思った。そんなこと言えるわけもないので、かわりにジュース買ってくる、と席を立つ。
「コーヒー牛乳よろしくー」と聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。
◆
「ストーカー、か」
まさか自分がその毒牙にかかるとは思わなかった。フルーツジュースのボタンをぱちりと弾いて、嘆息する。そういうのは、もっと可愛い子を狙うものだと思っていたのに――――どうして自分なんだ。
がたん。フルーツジュースが下に落ちて、それを拾い上げる。渡り廊下に近いこの自販機はどういうわけだかいつも人が少ない。私はどちらかというと人の多い場所は苦手なのでありがたいが……それはともかく。
改めて、冷静に考えてみると、ストーカーもそれなりに気持ち悪いと気づいた。それはいつも悩まされる怪異よりは何倍もマシ(だって相手は人間だ)だけれど、しかしだからって、ストーカーはない。ストーカーは。
…………親に相談。ないな。
それは真っ先に切り捨てる。私の両親は共働きで、二人とも朝早くに仕事に出ては夜遅く帰ってくる。家にはすでに、寝るためだけに帰っているようなものだ。
そんな両親だから、もう、何年話していないか。彼らとどうやって話すのか、とうに私は忘れてしまっている。それに超多忙なあの人たちが、こんなことに無駄な時間を使うとも思えない。
警察に相談。も、ない。
これはただ単純に、私が嫌なのだ。警察と言えどもともとは赤の他人だし、どうにも人を信用しがたい性分の私としては、見ず知らずの人と話すと考えるだけで足がすくむ。格好つけてはみたものの、ただの人見知りである。
「どうするかなあ……」
「何がですか」
声がした。
おかしい。
ここには私一人しかいなかったはずである。ましてやここは渡り廊下自販機通り。私は一年近くここを使用してきて、人が来たのは一度きりも見たことがない。それくらい人が来ないのだから何かあるのだろうとは思っていたけれど、嫌でも、そんなまさか。
ぎ、とぎこちなく、首を動かす。
ぎぎぎ、と。
しかし想定したのとは何の関係もなかった。
なんてことはない。
そこにいたのは影宮くんだったのだから。
「……びっくりした。驚かせないでよ、影宮くん」
「はあ、すいません。一応声かけたんですけどね」
言いながら彼は、ぺこりとヨーグルト牛乳の紙パックをへこませた。
それを見ながら、ああそうだ、とセーラー服のポケットをあさる。
「はい、これ」
「なんですかこれ」
「お礼」
「お礼?」
珍しく、困惑したような表情で影宮くんは差し出された猫のキーホルダーを見下ろす。何でもいいから早く受けとれ、と思いながら、私はそれを学ランの胸ポケットに落とした。
「こないだの、こっくりさんの。いつもいつも、本当にありがとう」
「はあ。そういうことなら、貰っておきます」
相変わらず、反応は薄い。珍しく変わった表情も、ただの一瞬で戻ってしまった。
私と影宮くんは、クリーム色の校舎にもたれるように座って、じゅーと手の中のものを吸い込んだ。
……さて、どうしようか。
まさかここで影宮くんに会うとは思っていなかったから、どうしたらいいのかまったくわからない。伊達に口下手ではないから、何を喋ったらいいのか。私たちが話すことと言ったら、もっぱらオカルト的な――――。
「いや、可笑しいだろどう考えたって!」
「?」
「ごめん、こっちの話……」
不思議そうな影宮くんに詫びて、ずるずるとフルーツジュースを啜る。
ていうか、何でそういう話しかしてないんだ、よい仲の男女が! いや私のせいなのはわかってる、私が悪いんだ、知ってる。けれどせめて、せめて他に何かないものか。
「影宮、くん」
「はい」
「…………ごめん、やっぱり何でもない」
「はあ」
……何かって何だ。思えば私は影宮くんのことを何も知らない。ああ、なし崩し的に付き合ってしまったからなあ。知っているのは影宮くんの連絡先とクラスと、バスケ部に所属していることくらいだ。
趣味や誕生日はもちろん、何が好きで、何が嫌いなのかさえ知らない。
いや待てよそもそも、私は影宮くんのこと、ちゃんと好きなのか? 影宮くんは私をどう思っているんだ? そこら辺は考えていなかった。
彼氏いない歴=年齢にはわからん。私は彼にキスできるだろうか。いやキスどころか、これから先しっかりお付き合いするとしたらその先もってことに…………。
「――先輩顔真っ赤ですよ。熱でもあんですか」
「いや大丈夫。ちょっといらんこと想像しただけだから」
「はあ」
影宮くんはそう相槌を打つと、先ほど私があげたキーホルダーを、自身の財布に取りつけ始めた。そこにつけるのか。
「……いやなんか私たち、本当に付き合ってるのかなーと、思っただけだよ」
「はあ。…………え、あれ本気だったんですか」
「え、冗談だと思われてましたか」
けっこうショックなんだけど。やだ恥ずかしい。
「や、まあ俺は別にどっちでも……どうでもいいんですけど」
言い直す意味はないと思う。それは。
「じゃあ、デートでもします? 今度」
「いや、それはまだ私にはハードルが高い」
「はあ。じゃあどうしろと」
「ええと」
と、言いよどんだ瞬間。
ぴり、と。
またもや、いつも通りの視線。
それに私が反応するより早く。
影宮くんが、勢いよく振り返った。
何もない場所を。
何もない空間を、目を極限までかっ開いて、凝視している。
「か、げみやくん?」
声を、掛ける。
影宮くんは少し間をおいて。
「何でもありません」
と、言ったのだった。