プロローグ『転生召喚』
――俺がその気になればお前ら全員、いつでも皆殺しにできるんだぜ。
それくらいの余裕が心にあれば。
それくらいの力が俺にあったなら。
人との関わりに怯えることも無くなるんだろうか。
――最悪の場合になったら全てを消してリセットしてしまえばいい。
そんな奇跡が起こせるのなら。
そんなことを実行できる覚悟があるのなら。
俺でも手を伸ばす勇気が持てるんだろうか。
――だけどきっと、それらが実現したとしても、俺は変わらない。
諦めることの何が悪い。
見栄を張ることの何が悪い。
恐れることの何が悪い。
逃げることの何が悪い。
自分以外の全てを拒絶して……何が悪い。
――だから俺は、今日も下を向いて生きていく。
*****
「魔王様! 城門を突破されました! 人間達は勇者を筆頭に、城内へ進軍しようとしています!」
「……ううむ。やはり勇者は脅威であったか」
魔王ラースは部下からの報告を聞いて思わず呻いた。
勇者が神の加護を受け、特別な能力を有しているのは知っている。
しかし、まさかたった一人の少女が軍勢に加わっただけでここまで戦況が変わるとは予想もしていなかった。
そして城内にまで攻め入られては……もう勝ち目はないだろう。
「だからと言ってこのまま諦めるわけにも行くまい」
魔王は現状を理解したうえで椅子から立ち上がった。そして壁に立て掛けてあった漆黒の大剣を掴み、部屋の出口へと足を運ぶ。
そんな時、彼の足を止める存在が現れた。
「父上……俺は賭けに出るつもりです」
「ディアボロス……!」
王室に入ってきたのはなんと魔王の息子だった。
彼は全身に闇色の鎧を纏っており、如何にも暗黒騎士らしい姿をしている。
恐らく今まで外で戦っていたのだろう。鎧の隙間から赤い血が滴り落ちている。そんな彼が一体どんな賭けに出ようと言うのか。
その答えはディアボロスの右手にあった。
「貴様……まさか『転生召喚』を行うつもりか!」
「そのとおりです。父上、もうこれしか手はありません」
「……その儀式を行うということがどういうことなのか、分かって言っているのだろうな?」
「勿論です、父上。しかし王族の血を絶やさせることだけは何としても阻止しなくてはなりません」
魔王は己の息子が所持している黒い魔本を忌々しそうに睨みつける。
それは王族に代々伝わる秘宝、『転生召喚』の術式を記した禁忌の書。すなわち、術者の命を引き換えに異世界の戦士を呼び出すという召喚装置であった。
「どうしても……“ソレ”の生贄になるというのか」
「俺達じゃ勇者は止められない。まだ十六年しか生きていない妹には我々以上の守護騎士が必要なんです」
「……」
ディアボロスの意見は正しい。
いくら娘の魔力が強大だとしても所詮は子供。戦士としてはあまりにも若すぎるのだ。恐らく、一人では満足に戦うことも逃げることもできないだろう。
だが並みの兵士を付けたところで娘を守りきることなど満足にできまい。最低でも自分か息子と同等の力を持った者でなければ、その役目は務まらない。
それは理解している。しかし、理解するのと納得するのとでは話が違う。どうせなら息子にも生きていて欲しいのだ。
故に魔王はその考えに頷くことができないでいた。
父親としての愛情が、息子の提案を受け入れることを躊躇わせた。
「俺はもう行きます。……残された時間も、僅かなようですので」
ディアボロスの顔は兜に覆われていて見えない。しかし力強い視線は感じられる。
それは決して諦念によるものではなく、あくまでも王族としての責務を果たそうという強い意思によるものだ。
もしかするとディアボロスの受けた傷は思った以上に酷いのかもしれない。今の彼には有無を言わせない気迫が宿っていた。
「……すまない。魔術を不得手とする我では『転生召喚』の身代わりにはなってやれんのだ」
「ええ、分かっています。父上は最前線で剣を振るう狂戦士ですからね。この役目は……暗黒騎士である俺こそが適任だ」
「……娘は隠し部屋に閉じ込めている。召喚するならその近くで行うが良い」
息子の覚悟は本物だ。それを理解したからこそ、魔王は『転生召喚』を止めるなどという無粋な真似をするわけにはいかなかった。
……例え納得できない話だとしても、命を賭した者の覚悟を踏みにじる行為だけは決してやってはならないのだ。
親として。そして一人の武人として。
魔王はディアボロスの意志を尊重することを選んだ。
もうこの魔王城は家族の家ではなく、人間達が土足で踏み込んだ戦場に過ぎない。
ならば狂戦士である自分のすることはただ一つ。
魔王はディアボロスを追い越し、城の下り階段に向かっていく。
「……さらばだ」
自分とは別の道を駆けていく息子に対し、魔王は別れの言葉をぽつりと漏らした。
まだまだ言いたいことはあるが、時間が無いのも確かだ。
決して勇者に勝てるとは思ってはいないが、足止めに徹するだけならばいくらかマシな活躍ができるだろう。
魔王はディアボロスの『転生召喚』を確実に成功させる為に、勇者を塞き止める“壁”として剣を振るうつもりだった。
城の最下層ではもう人間達が部下達と戦闘を繰り広げている。魔王は飛び込むようにその中へ突入していった。
「ゆぅううううううううううううううううううううしゃぁあああああああああああああああああああああああああああ!!」
燃えるような赤い瞳を光らせて、狂気を帯びた魔王は叫ぶ。
そしてその声に呼応するように現れた金髪の少女に対して、彼は一切の躊躇いもなく漆黒の剣を振り下ろした。
*****
「父上……さよなら」
ディアボロスは王室の奥に隠された秘密の通路を通り、城の最上階へと向かっていた。
その先にあるのは行き止まり。石造りの通路はぶ厚い壁によって進路を遮られていた。
しかし、それこそ隠し部屋の魔力が生きている証でもある。
彼はその場で魔本を開き、『転生召喚』の儀式を始めた。
「……父上は俺達を守る為に己の身を賭した。だから、俺もお前を守る為に命を懸けるよ」
この先にいるであろう大切な妹を思い浮かべ、ディアボロスは己の存在全てを魔本に捧げる。
召喚の儀は極めて簡単だ。ただ魔本を開き、そこに描かれた円の中に術者の血を垂らせばいい。後はただ身を任せるだけで儀式は完了する。
『転生召喚』とはただの召喚術とは次元の異なる魔術だ。
それは異世界から戦士としての資質が高い人間を呼び出し、その者に術者がこれまで培ってきた知識と技術と経験の全てを継承させる禁忌の術なのである。
そして術者は己の存在ごと消滅し、魂はただの魔力となって召喚された者の中に溶け込んでしまう。その結果、本来の転生の輪廻から外れ、二度と生まれ変わることはできない。
それでもディアボロスは儀式をやめない。
全ては妹の未来を守る為に。
彼は己の存在の全てを賭けて、魔本の中に自らの血を注ぎ込んだ。
「目覚めろ、あの勇者にも負けない屈強の戦士よ! 応えろ、我が力を受け継ぐ者よ! 我が魂を喰らいて、己の闇を解放し、新たな暗黒騎士となれ!」
たった一度きりしか使えない魔本は端の方から燃えていく。
そしてディアボロスの足下から幾多の魔法陣が展開され、代わりに彼の体が光となって消滅していった。
「アリス……達者でな」
ディアボロスは最期まで妹の無事を祈り、やがてその姿を完全に消した。
*****
「嫌だよ! 私を一人にしないでよぉ!」
相手の魔力を敏感に感じ取れる彼女は暗い部屋の中で泣き叫ぶ。
たった今、大事な家族の魔力が消えてしまった。
そしてそれほど間を空けずに、もう一人の家族の魔力も消失した。
たった二人しかいない大事な家族が、どちらも自分を残して消えてしまったのだ。
それだけではない。次々と見知った者達の魔力までもが消えていく。
誰もが彼女を残していなくなる。
やがて彼女は孤独になった。
「嫌ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
それは絶望という名の激情。
魔王の娘であり、暗黒騎士の妹である彼女の魔力は精神の不安定さから暴走状態になりつつあった。
雷霆のように空を裂き、銀色の閃光が彼女の周りで何度も弾けては消えていく。
彼女の心は真っ黒だった。
ただし、憎しみではない。怒りでもない。
純粋な悲しみという感情が、光の届かぬ海底の如く彼女の心を黒く染め上げてしまったのだ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
力の制御を失った彼女の体から、爆発するように魔力の奔流が溢れ出す。
それは魔王城を瓦解させるには十分な衝撃となって、全てを無へとリセットさせた。