幸せな私たちとバグ持ちの人の話。
暗くなった道、私の家の近くの小さな路地で彼とキスをしてから、私は自分の家に入った。
今日も普通で、楽しい日だった。いつものように学校に行って、放課後彼とデートして、帰る。おかえりと声をかける母にうん、と適当な返事を返して、二階の自分の部屋への階段をのぼる。
何もない日常を、幸せだと思える自分が、案外好きだったりする。私は、彼の唇と舌の感触を思い出しながら、部屋のドアを開けた。電気のスイッチを押す。
ベッドの上に、見慣れないティディベアが座っていた。
丸くて黒い目の中に、電気の光が反射して、白い点を作っている。この可愛らしいのに恐ろしい感覚。前にもあった。覚えていない。覚えている。思い出してはいけない。こっちを見ないで。
見ないで。
私は思わず、顔を手で覆って視界を隠した。でも、あの目が、脳にこびりついて離れない。
そしてまた、思い出してしまった。意識が、遠のいていく…。
* * *
「あららぁ、今度の引き金はクマでしたか…」
透き通った女の子の声で、私は目を覚ました。
学校の体育館、に似ている、でも天井が無くて、青い空が見えている空間に、私はまた来てしまった。
「大丈夫ですか?」
その女の子――元の場所では辻杏奈という名前で通っているクラスメイト――が、ぺたんと座り込んでいる私の顔を覗き込んで言った。
私の目から涙が落ちる。
「何で…また…」
「原因不明ですね、また対処します」
女の子は、難しそうな顔をして言った。
ここに初めて来たときのことを、普段は忘れているのに、ここにくると思い出す。
最初の引き金は、メトロノームだった。テンポ144、揺れているそれを見ているうちに、なんだかとんでもない感覚になって、耐え切れずに気を失った、んだと思う。
そして、ここにいた。
そのとき私は驚いた。頭じゃない、感覚で、この場所が『元いた世界の外側にある空間』だとわかったのだ。私たちが暮らしている世界はいわば箱の中で、外側の生き物が存在している。それは、哲学なんかで『考えられて』はいるのかもしれないが、『感覚で理解されて』はいない。恐ろしかった。命はいつか終わる、そんな当たり前で分かりたくないことのように、この世界のことを解ってしまう自分が、異質なものだと感じて、気持ち悪かった。
そして頭を抱えた私に、この子は近づいてきた。
『どうも、辻です、あっちでは。ここではレイって呼ばれますね。イレイサーのレイです』
そんな、ふざけたことをいいながら。
「ここに来ると、死にたくなるの」
呟くように、私は言った。
「どうしてです?」
「だって、私は、何のためにあそこにいるのかわからなくなるから」
最初にレイに会ったとき、彼女は混乱する私に、事情を整理しながら教えてくれた。
私たちが住んでいる世界は、いわばゲームの中のようなものであるということ。そして私のように、そのことを理解してしまう『コンピュータープレイヤー』がいること。その理解を外では『バグ』と呼んでいること。そしてそれらのバグを修正する、自分たちのような『バグ修正プログラム』が、日常の中にいるということ…。
そして、『コンピュータープレイヤー』がいるということは、『プレイヤー』もいるということだ。
それをすべて、私の脳は感覚的に理解して、納得した。
「どうして。あなたはあのルートのキーパーソンですよ」
「何がキーパーソンなの!結局私は、田口遼哉にいいようにされてるってことでしょ!?」
叫んだ。
いつだったか気付いた。このゲームを私の周りでプレイしている外の人間は、私の恋人である遼哉だと。
要するに、私は遼哉にとって、言うならば二次元恋愛ゲームのキャラクター的立ち位置だということだ。そう考えると、あんなに愛しかったキスもセックスも、気持ち悪くてしょうがない。私がなんなのかわからなくなる。私はなんなんだ?
「でもさあ、あんたは愛して愛されて、幸せなんだろ?」
レイの後ろから歩いてきた、ひとりの男の子が言った。
彼もバグ修正プログラムである。ソルと呼ばれている。きっとペンソルのソルだろう。
「そんなの、本物じゃないでしょ」
「ふーん、本物?本物って、何を基準に言ってるの?」
何を基準に。答えられなくてソルの顔を見つめる。
「だってそうでしょう。君の彼を愛しく想う気持ちだって、プレイヤーである彼が君を選んだことによって発生しているただのプログラムだよ。大体君たちの世界の、何が本物なの?ていうか愛って何?」
冷めたように言われる。なんなのか、考えてもわからない。
だってそうだ。彼を想う気持ちは確かにある。埋め込まれたものだとしても。ただのプログラムだとしても。ここにある。ここに確かにあるはずなのにそれを否定されたら、私はどうしたらいい?どうしたらいいのだろう。頭がおかしくなりそうで、私は地面にうずくまった。
「大体君たちの『意志』だって、プレイヤーの次の行動のためのものであって…ていうかあんなイージーモード選択者のために、滑稽だよね君」
「ソル、いい加減にして」
レイが止めに入る。睨みつけるその目が怖い。怖いけれど、それは私に向けられていない。
「…レイ、君はこの世界のやつらに感情移入しすぎだよ。痛い目みるんじゃない」
ソルの言葉を素通りして、レイは、うずくまる私を両手で包んだ。
「大丈夫、あなたは、そこにいていいのだから」
レイの言葉と同時に、また意識が遠のいていく。
ああそうだ、彼女はイレイサー、消しゴムだ。どうしようも出来ない気持ちを消して、私をあの世界に戻してくれる。
あの愛しい世界に。
* * *
「恵梨!起きなさい!」
母親の声で目が覚める。
昨日の夜、帰ってすぐ寝てしまったらしい。ベッドから起き上がる。
夜に彼に電話をしようと思っていたのに、なんだか悔しい気持ちになる。ポケットに入れっぱなしになっていた携帯を見ると、メールが1通、遼哉からだった。
『寝ちゃった?笑
まあ今日の分も明日の楽しみにとっとこーっと
おやすみ』
ああ、もったいないことをした。でも今日は、放課後彼の家に行くことになっている。
私はひとつため息をついて、彼の感覚を思い出す。
とりあえず、昨日入れなかったからお風呂に入ろうと思い、洋服棚から替えの下着を取り出す。今日は赤にしよう。喜んでくれるかな。
一階に降り、お風呂のドアを開けたとき、今日は数学が当たっていたことを思い出した。誰かやってそうな人、そうだ、辻さんあたりに写させてもらおう。
窓からの光が反射して、シャワーの水を輝かせる。今日は晴れだ。
何もない日常を、幸せだと思える自分が、結構愛おしかったりする。あぁ、今日もきっといい日なんだろう。早く彼に会いたい。
読んでくださってありがとうございました!




