キツネの嫁入り
真っ白なウエディングドレスに身を包み、細い目を更に細くして幸せそうな笑顔で、キツネは私に手を振った。
「最近の狐の嫁入りは和服じゃないんだね」
彼女に手を返しながら歩み寄り、いつも通りの冗談を言った。
宮島葵は目が細く、嘘吐きで、飄々として、みんなから好かれていた彼女は、学生の頃から「キツネ」と親しみをこめて呼ばれていた。
「少しは、褒めるってことを覚えたほうが良いよ、コンは」
私は名前が紺野で、目が細く、いつも本音を言わない事から狐に似ていると言われ、「コン」と呼ばれている。
私たちは学生時代から仲がよく、二人合わせて「コンギツネ」と、有名な「ゴンギツネ」に似たあだ名で呼ばれ、学校で何か悪戯が起きると「コンギツネの仕業だ」と言われた。
「ゴンギツネ」のように悪戯が好きなキツネは、よく下らない悪戯を考えては嫌がる私を連れまわした。
悪戯がばれると、担任の渡辺先生によく怒られた。キツネは、悪戯を全部私のせいにした。渡辺先生に怒られるのだけは苦手だ。とキツネは言っていた。
渡辺先生はかっこよくて優しい人気者の先生で、悪いことをした時にはしっかり叱ってくれる、良い先生だった。
学生時代は、キツネの悪戯の罰として、トイレ掃除を何回させられたかわからない。
トイレの神様も、そろそろ私をべっぴんさんにしてくれていいと思う。
「学生時代トイレ掃除ばっかりしてたから、べっぴんさんでしょ?」
キツネは、私の服の袖を引っ張り、ばっちり化粧をした顔で上目遣いをして、私に愛嬌を振りまいた。
いや、一回もトイレ掃除来てないし、掃除したの私だし。なに勝手に自分の手柄にしてるの。
「化けるのが上手になったんだね!」
嫌味がたっぷり詰まった笑顔で言い返してやった。
「コンは昔と変わらず化けるのが下手だね、顔が狐のまま」
「キツネも変身が解けてきてるよ、狐みたいな顔だ」
ぐぬぬ、ぐるる、と呻き威嚇しあった。
「ま、今日はめでたい日だし、褒めといてあげるよ」
威嚇するのをやめ、キツネに背中を向けた。
綺麗だよ。
恥ずかしさから、それだけ言うとキツネから離れるように歩いた。
キツネはどんな顔をしていただろう。それを確認する勇気は、私にはなかった。
彼女の恋をしている顔を見るのは辛かった。
……こんなやり取りをするのも今日でおしまいだ。
学生の頃の話だ。
放課後に、二人で次の悪戯について作戦を立てながら雑談をしていた。
恋ってしたことある?
キツネに聞いてみると吃驚され、コンもついに春がきたか、とからかわれた。
「私は恋はしないだろうな……報われなかったら嫌だもん」
教室に差し込むオレンジの光が、キツネの顔を照らし、まつ毛に光が反射していた。
泣いてるのかと心配になり、顔を覗き込むと、厭らしい笑みに変わっていて「で、誰に恋しちゃったの?」とはしゃいだ。
扉が開く音がして振り返ると渡辺先生がいた。
「なんだコンギツネまだいたのか」
私たちの近くまで歩いてくると、頭をポンと触った。
「あんまり悪戯すんなよ」
はーい、とキツネと私は声を合わせた。
「先生聞いてよ、コンが恋してるみたいなんだよね、相談にのってあげてよ」
「何だコン、お前恋してるのか!青春だな!」
何も言い返せないまま質問攻めにあった。人をネタに盛り上がるのやめてくれる? てか、してないから!
私の顔は真っ赤になっていたことだろう。それを見てキツネはニヤニヤと笑っていた。
散々人で遊んだあとに、「早く帰れよ」と先生は教室を出ようとした。
「ねえ、先生は恋、してる?」
キツネは少し恥ずかしそうに聞いた。
「バカ」
先生は振り返らずに手を振って、教室から出て行った。
俯いたキツネの髪の毛から少し見える耳は、太陽に照らされて真っ赤に染まっていた。
それから数日後に、渡辺先生と生徒が付き合っていると言う噂が流れた。
結局、誰と付き合っていたのか、嘘か本当かは分からずじまいだったが、噂を聞きつけたキツネの真っ青になった顔は今でも忘れられない。
人の噂もなんとやらで、しばらくすると全く耳にしなくなった。
噂を知ったあの日から、キツネは悪戯をしなくなり、私がトイレ掃除をすることは少なくなった。
本当はトイレ掃除なんて一生したくなかったが、渡辺先生に頼まれて、仕方なく掃除をした。
掃除をしてる間、渡辺先生はずっと近くにいて雑談をしながら手を動かした。たまに先生も手伝ったりしてくれた。
「キツネは元気か?」
雑談中によく、悪戯をしなくなったキツネを心配するように尋ねてきた。先生という生き物は、問題児ほど可愛いらしい。
悪戯はしなくても、仲は良いままで、一緒に出かけたり、学校帰りに寄り道したりしている。
「元気ですよ、いつも通り」
先生は「そうか」と安心したように笑った。
次の日、久しぶりに放課後残っているキツネを見かけた。
少し緊張した顔をして、黒板消しをドアに挟んでいた。悪戯をするなら声くらいかけてくれれば良いのに、と少しむくれ、怒られるなら今日は一人で怒られれば良い、と先に帰る事にした。
昇降口を出るとき、教室に向かう渡辺先生を見かけた。
「これは確実に怒られるな」
うひひ、と怒られている狐を想像して嘲笑いながら帰った。吐く息は淡白くなっていた。
次の日、外に出ると、手がかじかみ、息が白くなるほど寒くなった。
お気に入りのマフラーを首に巻いて、少し気分がよかった私は、いつもと違う通学路で登校することにした。
人通りも少ない閑散とした道には、まだ踏み荒らされていない霜が降りていて、子供のようにシャリシャリと踏みながら歩いた。
変質者が出ると有名で、人が全く寄り付かない公園の横を通ったとき、公園の向かいの道に、朝っぱらか寒さに負けず熱々な、指を絡め歩いているカップルを、視力2.0の私の目が捕らえた。
絡み合った手とは逆の手には、二人ともしっかり手袋が嵌められていた。
朝っぱらからのバカップル以上に驚いたことに、二人は、私のよく知る人間だった。
女の子の方は、同じ学校に通っている同級生で、性格も明るく人気者だった。
男性は、本当によく知っている、私の通っている学校の職員で、かっこよくて優しい人気者の先生だった。
見てはいけないものを見てしまった。視力2.0の眼を呪った。踏み荒らした霜が、私に張り付くように全身を包みこみ、体が固まったようだった。
……私は、裏切られたのだ。
シャリシャリ、とどこからか音がした。周りには人などいなかったが、その音は頭から離れなかった。いや、頭の中で鳴っていたのだ。
霜だらけになった私を、誰かが踏み荒らしてるのだ。
固まった体を引きずり学校に行くと、真っ青な顔をしている私を見て、キツネが心配そうに話しかけてくれた。
「大丈夫? 体調が悪いなら早退したほうがいいよ?」
キツネは左手の手袋を外し、私のおでこに、冷えた冷たい手をあてた。
「熱は無いようだけど……先生に言ってこようか?」
「大丈夫だから」
そう答えると、タイミングよく先生が教室に入ってきて、授業が始まった。
放課後、渡辺先生にトイレ掃除を頼まれたが、そんな気も起きないし体が上手く動かないので、別れを告げ、昇降口へ向かった。
渡辺先生が何か言っている気がしたが、私の耳にはもう何も届かなかった。
その日から、私はトイレ掃除をすることはなくなった。
式場でキツネと分かれてから、新郎に出くわした。
当初から新郎に用があったため、ここで用事を終わらすことにした。
「ご結婚おめでとうございます」
黒のタキシードを着た新郎に頭を下げた。
やしそうな雰囲気で顔も良い。でも、笑顔の下には悪魔が潜んでいるのだ。
「まさか、渡辺先生が結婚するとは思ってもいませんでした」
「僕もだよ」
「昔の恋人に会うのは気まずいですか?」
困った顔ので先生は乾いた笑いを吐いた。
「突然、理由も言わずふられたからね、気まずさはあるかな」
私と先生は、学生の頃に付き合っていた。
まさに噂が流れた時と同時期に、焦った私たちは、外で会うことをやめて、トイレ掃除と偽り、堂々と二人で居られる時間を作ったのだ。
「キツネはまだ知らないんですか?」
「知らないほうが良い事もある、言わないでいてくれ」
「もちろん、キツネの涙は見たくないですからね」
「ありがとう」
先生の為じゃない。それは二人ともたぶん分かっていたから、口にはしなかった。
話し出すのを少し戸惑った。これを言ったら終わってしまうから。
「……突然ふった訳じゃないですよ、私、知っていたんです、先生が二股していたこと」
え? と言って固まる先生に続けて話した。
「見てしまったんです、キツネと手を繋いで歩いてるところを、生徒との噂が流れたってのに迂闊過ぎですよ」
先生は、それは、とか、ごめん、とか言ってあたふたしていた。
「良いんです。もう、結局私のしたことに意味なんてなかったんですから……次にキツネを悲しませるようなことをしたら許しませんよ」
あたふたしている先生を置いて、私は出口へ向かった。
私は、キツネが先生に惚れていることを知っていた。
悪戯をするのは、先生と話す切っ掛けを作るためだと、側に居ればすぐに分かった。
嫌々手伝っている振りをして、悪戯を手伝い、先生とキツネを二人きりにさせないようにしていた。
そして、何かの間違えで、先生とキツネが付き合ったりしないように、私が先生と付き合うことにしたのだ。先生に付き合ってる人がいると分かれば、きっと諦めるはずだ。そう思い、自ら先生と生徒が付き合っていると噂を流した。
噂の効果は抜群で、キツネは悪戯をしなくなった。噂を聞きつけた真っ白になったキツネを見たときには、嬉しささえ覚えた。
先生と付き合ってる必要もなくなったが、安心はできないため、一様付き合いを続け、合う回数を減らして、自然消滅させることにした。
それが間違えだったのか、キツネは諦めてなどいなく、機会を窺っていただけだったのだ。
キツネに誘われなかった、黒板消しの悪戯の時に告白したに違いない。いじけて帰らなければ、止めるチャンスはあったはずなのに、後悔してもしきれない。
手を繋いで歩いてる姿を見たときに、私は諦めたのだ。キツネの幸せを壊せるはずがない。
その日のうちに、先生に別れを告げて、二人から距離をとることにした。
二人が別れるまでは――と。
――私は、キツネのことが好きだった。
出口に着くと、真っ青に晴れ渡っている空が見えた。
空に雲ひとつ無かったが、地面にポタリと雫が落ちた。
私の顔も濡れている事に気がついた。
空は晴れているのに、ここだけ雨が降っているようだ。
「狐の嫁入りだ」
私の恋は、今、やっと終わったのだ。