【歴史】七重八重
【問い】 太田道灌の、山吹の歌の逸話があったとされる、山吹の里。
通説で東京都新宿区高田南町1丁目とされるが、その住所は存在しない。
豊島区とも、戸塚の金川ともゆわれる。
場所を推測してみて。
【回答】 Geminiさん
太田道灌の「山吹の里伝説」における場所の推測について、ご提示いただいた手がかりを基に歴史的背景と地理的変遷を整理しました。
1. 新宿区「高田南町1丁目」の正体
ご指摘の通り、現在の新宿区に「高田南町」という住所は存在しませんが、これは昭和41年(1966年)の住居表示実施に伴う地名変更が原因です。
・ かつての住所: 豊島区高田南町1〜3丁目(昭和7年〜41年)
・ 現在の住所: 概ね 豊島区高田1丁目 付近(一部が目白・雑司が谷へ)
「新宿区高田南町」と語られることがあるのは、このエリアが神田川を挟んで新宿区(旧戸塚町・西大久保など)と隣接しており、古くから新宿側の「戸塚」や「山吹町」と一体の伝承地として語られてきたためです。現在、最も象徴的な「山吹の里の碑」は、都電荒川線の面影橋停留所近く(豊島区高田1-18-1)に立っています。
2. 「戸塚の金川(かながわ)」の場所
江戸時代の地誌『江戸名所図会』には、「太田道灌、戸塚の金川辺に放鷹す(鷹狩りをする)」との記述があります。
・ 場所の推測: この「金川」は現在の神田川を指します。
・ かつて神田川は「上戸塚川」や「神田上水」などと呼ばれていましたが、この付
近(新宿区西早稲田から豊島区高田にかけて)を流れる川のほとり、つまり現在
の面影橋から甘泉園公園(新宿区西早稲田)にかけての一帯が「戸塚の金川」と
呼ばれたエリアです。
・ この一帯はかつて山吹が自生する名所だったため、道灌が鷹狩りの最中に雨に見
舞われた舞台として有力視されました。
3. 「豊島区」と「新宿区」の混在
この伝説の舞台が両区にまたがって語られるのは、以下の理由によります。
・ 新宿区側: 「山吹町」という地名が残っているほか、道灌が紅葉山(江戸城
内)から移したとされる「紅葉山太田神社」など、道灌ゆかりの寺社が多い。
・ 豊島区側: 前述の「山吹の里の碑」や「山吹の里公園」があり、歴史的な「高
田の里」の伝承を保持している。
4. その他の有力候補地
「山吹の里」は一箇所ではなく、道灌の勢力圏内の各地に伝承地が存在します。
・ 埼玉県越生(おごせ)町: 「山吹の里歴史公園」があり、道灌の父・道真が隠
居していた地であることから、ここを舞台とする説も非常に根強いです。
・ 横浜市金沢区(六浦): 質問にある「金川」が「金沢」と混同されることもあ
りますが、ここにも道灌が和歌を学んだとする伝承が残っています。
・ 荒川区(町屋・日暮里): 日暮里駅前には山吹を手にした少女と道灌の銅像が
あります。
結論としての場所推測
通説で語られる「新宿区高田南町」を歴史・地理的に解釈すると、**「神田川(金川)を挟んだ、現在の豊島区高田1丁目と新宿区西早稲田・山吹町にまたがる一帯」**を指していると推測するのが最も合理的です。
かつてこの境界付近に、貧しいながらも風流を解する娘が住む一軒家があった……という情景が、江戸時代の人々によってこの神田川沿いの風景に投影されたのでしょう。
雨に降られた太田道灌が蓑を借りようと農家を訪ねた、若い女が何も言わず山吹の花を一枝差し出した、道灌は不思議に思うも帰宅する。
後に、後拾遺集の兼明親王の歌
”七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき”
と言う歌を知り、蓑ひとつ無いという意味だと悟った。
というお話なのだけれども、
”山吹色のお菓子を払ってよ”
という意味だったりしないのだろうか




