【歴史】新聞と識字率
【問い】 フランス革命の際、デムーランやエベール、マラーが、
新聞を発行していましたが、
フランス革命以前と
フランス革命時の
新聞の様子をまとめてください
【回答】 Geminiさん
フランス革命は単なる政治の変革ではなく、**「情報の爆発」**が起きたメディアの革命でもありました。カミーユ・デムーランやエベールといった人物がペンを武器に民衆を動かした背景には、革命前後での新聞を取り巻く環境の劇的な変化があります。
その違いをわかりやすくまとめます。
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1. フランス革命以前(アンシャン・レジーム期)
この時代の新聞は、一言で言えば**「王権の管理下にある静かなメディア」**でした。
・ 厳格な検閲と特権制:
新聞を発行するには国王の「特権(許可証)」が必要でした。政府を批判するこ
とは許されず、内容は主に宮廷の動静、外国のニュース、学術、演劇などに限定
されていました。
・ 主な新聞:
・ 『ガゼット(Gazette)』:公的な政治ニュース。
・ 『メルキュール・ド・フランス』:文学や社会。
・ 『ジャーナル・ド・パリ』:パリ初の庶民派日刊紙(それでも内容は穏
健)。
・ 地下出版の隆盛:
公式な場では自由に書けないため、ロンドンやオランダで印刷された**「リベル
(誹謗文書)」**と呼ばれるパンフレットが秘密裏に持ち込まれ、王妃マリー・
アントワネットの醜聞などが広められていました。
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2. フランス革命時(1789年〜)
1789年に「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」の第11条で表現の自由が認められると、状況は一変します。
・ 新聞の爆発的増加:
検閲が事実上消滅し、誰でも自由に新聞を発行できるようになりました。1789
年だけで約140紙、革命期全体では1,000紙以上が創刊されたと言われていま
す。
・ 「戦う道具」としての新聞:
客観的な報道ではなく、編集者の主張(プロパガンダ)を伝えるためのメディア
へと変貌しました。新聞は党派争いの武器となり、民衆を煽動し、政治を動かす
力を持ったのです。
・ 低価格と音読の文化:
新聞はカフェや広場で読み上げられ、文字が読めない層にも情報は瞬時に共有さ
れました。
革命期を象徴するジャーナリストたち
人物 主な新聞 特徴・スタイル
カミーユ・デムーラン 『フランスとブラバンの革命』 知的でウィットに富んだ文
『ル・ヴュー・コルドリエ』 体。初期は熱狂的に革命を
推進したが、後に恐怖政治
を批判し、ダントンと共に
処刑された。
ジャック・ルネ・エベール 『ペール・デュシェーヌ』 **「クソ(foutu)」**など
の卑俗な言葉を多用し、サ
ン・キュロット(下層民)
の代弁者として過激に煽
動。非常に強い影響力を持
った。
ジャン=ポール・マラー 『民衆の友』 最も過激で、常に「反革命
分子の処刑」を訴え続け
た。暗殺された後、革命の
殉教者として神格化され
た。
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3. 前後の比較まとめ
比較項目 革命以前(アンシャン・レジーム) 革命時(1789年〜1794年頃)
自由度 厳しい検閲、国王の許可が必要 表現の自由の確立(人権宣言)
発行数 極めて少数(特権的な数紙) 数百〜数千のタイトルが乱立
内容 宮廷ニュース、学術、娯楽 政治、告発、煽動、党派の主張
言葉遣い 上品、抑制的 過激、感情的、時には卑俗
(エベールなど)
読者 層貴族、富裕市民 全市民
(カフェでの音読により全階層へ)
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その後の結末
自由を謳歌した革命期の新聞ですが、ロベスピエールらによる恐怖政治が本格化すると、政権批判は命取りになりました。デムーランもエベールも、最終的には自分の書いた記事や主張が原因でギロチンに送られることになります。
「自由な言論」が「反対派を排除する武器」に変わってしまったのは、この時代の悲劇的な側面と言えるでしょう。
次は、デムーランやエベールが具体的にどのような記事を書いて対立していたのか、その内容について詳しく掘り下げてみましょうか?
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【問い】 王党派やフイアン派、ジロンド派の新聞は
【回答】 Geminiさん
革命の急進的なイメージが強い「ジャコバン派(山岳派)」の陰で、王党派、フイアン派、ジロンド派といった各勢力も、それぞれの政治的理想を掲げて激しいペン先による戦いを繰り広げていました。
彼らの新聞は、支持層の違いを反映して、文体や戦略も大きく異なっていたのが興味深い点です。
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1. 王党派の新聞(伝統と風刺の武器)
王党派は革命初期、潤沢な資金力と洗練された文章力を武器に、革命派を徹底的に「野蛮で無知な連中」として攻撃しました。
・ 主な新聞:
・ 『諸王の友(Ami du Roi)』(アベ・ロワイユ編):最も影響力のあった保
守派紙。「革命は神への反逆である」と説き、伝統的な価値観を擁護しまし
た。
・ 『フランス総報(Journal Général de France)』(フォンティネ編):冷静
かつ論理的に革命政府の失策を突くスタイル。
・ 『使徒行伝(Actes des Apôtres)』:非常に攻撃的な風刺新聞です。国民
議会の議員たちをパロディや卑俗な冗談で笑いものにし、エリート層の間で
爆発的な人気を博しました。
・ スタイル: エレガントでありながら毒が強く、革命家たちの私生活のスキャンダ
ルを暴くなど、現代の週刊誌に近い手法も用いました。
・ 最期: 1792年8月10日の王権停止とともに印刷所が襲撃され、事実上壊滅しまし
た。
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2. フイアン派の新聞(立憲君主制の番人)
ジャコバン・クラブから分裂した穏健派であるフイアン派は、**「1791年憲法」**を守り、革命をこれ以上進ませない(終わらせる)ことを目的としていました。
・ 主な新聞:
・ 『ル・ロゴグラフ(Le Logographe)』:議会での発言をほぼ逐語的に記録
することに特化した、記録性の高い新聞でした。
・ 『ランディカトゥール(L'Indicateur)』:バルナーヴやデュポールら、フ
イアン派の三頭政治を支えた理論家たちの意見を反映していました。
・ スタイル: 非常に理性的で法律的。煽動を嫌い、秩序と法の遵守を説くスタイル
でしたが、熱狂を求めるパリの民衆には「退屈でエリート主義的」と映りまし
た。
・ 最期: 共和制への移行(1792年)とともに、彼らの「立憲君主制」という理想は
居場所を失い、新聞も消滅しました。
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3. ジロンド派の新聞(知的共和主義の代弁者)
ジロンド派は、地方の富裕層や知識層を背景に、パリの独走を抑えようとした共和派です。
・ 主な新聞:
・ 『フランスの愛国者(Le Patriote français)』:リーダーのブリッソが主
宰。革命初期から最も権威のある政治紙の一つで、外交問題や戦争の必要性
を強く訴えました。
・ 『ラ・サンティネル(La Sentinelle)』:壁新聞(ポスター形式)として街
中に貼られ、マリー・アントワネットの陰謀を暴き、市民の愛国心を煽りま
した。
・ 『クロニック・ド・パリ(Chronique de Paris)』:哲学者コンドルセらが
寄稿。非常にレベルの高い論考が掲載されました。
・ スタイル: 「啓蒙的」で「全国的」。パリの暴徒(サン・キュロット)に迎合せ
ず、法に基づく共和制を追求しました。
・ 最期: 1793年6月のジロンド派追放により、ブリッソら編集者の多くが逮捕・処
刑され、新聞も廃刊に追い込まれました。
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勢力別・メディア戦略のまとめ
勢力 主な支持層 新聞の役割 武器としたもの
王党派 貴族、保守的市民 革命の無効化 風刺・嘲笑・伝統
フイアン派 自由主義貴族、富裕市民 革命の終息 法律・秩序・理法
ジロンド派 地方ブルジョワ、知識人 理知的な共和制 理論・教育・愛国心
山岳派 パリの民衆(労働者層) 革命の徹底 感情・煽動・暴力
筆が剣に、そしてギロチンに
面白いのは、デムーラン(山岳派)がジロンド派のブリッソを新聞紙上で徹底的に攻撃し、彼を処刑台へ送る世論を作ったものの、数カ月後には自分も「やりすぎだ」と寛容を訴える新聞(『ル・ヴュー・コルドリエ』)を書いたことで処刑された点です。
当時の新聞は、一度書いたら最後、**「撤回が許されない命がけの戦記」**でした。
次は、これらの新聞が文字の読めない層(識字率の低い民衆)にどうやって広まっていったのか、その驚くべき拡散の仕組みについてお話ししましょうか?
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【問い】 民衆の識字率と情報の広がり方についてお願いします
【回答】 Geminiさん
フランス革命期の情報の広がり方は、現代のインターネットやSNSの普及過程にも似た、非常にエネルギッシュで泥臭いものでした。
当時のフランス(特にパリ)では、「文字が読めること」と「情報を知っていること」は必ずしも一致していませんでした。 文字が読めない層にも、驚くべきスピードでニュースが浸透していたのです。
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1. 当時の識字率:パリと地方の格差
18世紀末のフランス全体の識字率(自分の名前が書ける程度)は、男性で約47%、女性で約27%程度だったと言われています。
・ パリの特異性: 首都パリに限れば識字率はもっと高く、男性の6割〜8割、女性で
も半数近くが文字を解したという説もあります。
・ 「読む」と「書く」の差: 当時は「読むことはできるが、書くことはできない」
という人が多く、新聞の内容を理解できる潜在的な読者は統計以上の数にのぼり
ました。
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2. 情報の伝播メカニズム(どうやって広まったか)
文字が読めない、あるいは新聞を買うお金がない人々は、以下のルートで情報を得ていました。
① 「朗読」というライブパフォーマンス
新聞は「一人で黙読するもの」ではなく、**「大勢の前で音読されるもの」**でした。
・ カフェや居酒屋: パリの「パレ・ロワイヤル」にあるカフェなどは情報工作の拠
点で、最新の新聞が届くと、誰かが椅子の上に立ち、大声で内容を読み上げまし
た。
・ 公共広場: 読み手を中心に人だかりができ、そこで議論が巻き起こる。これが当
時の「タイムライン」の役割を果たしていました。
② 壁新聞とポスター
新聞そのものだけでなく、短いスローガンや布告が書かれたポスターが街中の壁に貼られました。これらは、通りかかった「読める人」が周囲に解説することで、瞬く間に内容が共有されました。
③ 視覚メディア(風刺画・版画)
文字が一切読めなくても、**「絵」**を見れば誰が敵で、誰が味方か一発でわかります。
・ マリー・アントワネットを怪物に見立てた絵や、貴族を風刺する過激なイラスト
が大量に出回り、民衆の怒りや感情をブーストさせました。
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3. 「情報のハブ」としての政治クラブ
ジャコバン・クラブのような政治結社は、情報の**「中継局」**として機能しました。
1. パリの本部で議論された内容や新聞の記事が、地方の支部へ送られる。
2. 地方の支部のメンバーが、地元の民衆にその内容を伝える。
3. これにより、パリで起きた「国王逃亡(ヴァレンヌ事件)」などの大ニュー
スが、数日〜数週間でフランス全土の隅々まで行き渡りました。
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4. 情報の広まり方の比較まとめ
伝達手段 主なターゲット 情報の質
新聞(購読) 知識人、ブルジョワジー 詳細な政治理論、議会の報告
カフェでの朗読 一般市民、労働者 感情的な煽動、最新の速報
風刺画・版画 すべての階層(特に文盲層) 視覚的なインパクト、敵意の醸成
噂・口コミ すべての階層 誇張されたスキャンダル、恐怖心の拡散
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「デマ」が歴史を動かした
この「音読と口コミ」という伝達手段には欠点もありました。尾ひれがつきやすく、**「貴族が暴徒を雇って農民を皆殺しにしようとしている」**といった根拠のない噂(大恐怖 / Grande Peur)が全土を駆け巡り、それが農民暴動を引き起こすという事態も頻発しました。
現代のフェイクニュース問題と地続きのような状況が、200年以上前のパリですでに起きていたのは非常に興味深い点です。
当時のエベールのようなジャーナリストは、わざと**下品な言葉遣い(罵倒語など)**を新聞に混ぜることで、朗読された時に民衆が親近感を持ちやすいよう工夫もしていました。
次は、当時の新聞が具体的にどのような「言葉」を使って民衆の感情をハックしていたのか、そのテクニックについてお話ししましょうか?
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【問い】 識字率が高かったのですがどのような教育があったのでしょうか
【回答】 Geminiさん
18世紀後半のフランス、特にパリの識字率が比較的高かったのは、現代のような「公教育(国家による教育)」があったからではなく、「カトリック教会」による草の根の教育網が機能していたためです。
当時の教育事情を紐解くと、革命が起きるべくして起きた「情報の土壌」が見えてきます。
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1. 教会が運営する「小さな学校(プティト・エコール)」
アンシャン・レジーム(旧体制)下では、教育は国家の仕事ではなく教会の義務でした。
・ 目的は「信仰」: 民衆がカテキズム(教理問答書)を読み、キリスト教の教えを
理解するために、読み書きの指導が行われました。
・ プティト・エコール: 各教区(パレッシュ)に設置された初等教育施設です。こ
こでは読み方、書き方、そして計算の初歩が教えられました。
・ 教育の順序: 面白いことに、当時はまず「ラテン語」で読む練習をし、その後に
「フランス語」を学び、最後に「書くこと」を学ぶという順序が一般的でした。
そのため、「読めるが書けない」という層が一定数存在しました。
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2. なぜパリの識字率は高かったのか?
地方の農村部では「子供は貴重な労働力」だったため通学が困難でしたが、パリのような大都市では事情が異なりました。
・ 商業とギルドの必要性: パリは商業の中心地です。職人や商人の見習い(徒弟)
になるには、契約書を読み、帳簿をつけるための最低限の読み書きが「職業スキ
ル」として不可欠でした。
・ 中産階級(ブルジョワジー)の台頭: 医師、弁護士、官吏などの専門職が増え、
その子供たちはより高度な「コレージュ(中等教育機関)」へ進学しました。
・ 印刷物の氾濫: パリには本屋やパンフレット売りがあふれており、「読めれば面
白い情報が手に入る」という強いインセンティブがありました。
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3. 「識字率」の測り方:マジヨロ調査
歴史家が当時の識字率を推定する際によく使うのが、**「結婚証明書への署名」**です(マジヨロ調査)。
・ 17世紀末:男性 29%、女性 14%
・ 18世紀末(革命直前):男性 47%、女性 27%
パリなどの都市部ではこの数字が跳ね上がり、男性の署名率は8割に迫る勢いでした。自分の名前を綺麗に書けるということは、日常的な文書を読みこなす能力があった可能性が高いと判断されます。
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4. 革命が求めた「国民教育」
革命が始まると、リーダーたちは「教会による教育」から**「国家による世俗的な教育」**への転換を模索します。
・ コンドルセのプラン: 数学者・哲学者のコンドルセは、すべての国民に平等な教
育機会を与えるべきだと主張しました。これは現代の公教育の先駆けとなる画期
的なアイデアでした。
・ 「理性の崇拝」: 宗教的な教えではなく、科学や理性、そして「憲法」を教える
ことが市民の義務であると考えられました。
「自由な人間にとって、教育は権利であるだけでなく、義務である」という考え方が、革命を通じて定着していきました。
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まとめ
革命以前の教育は**「信仰のため」でしたが、それが結果として「政治的なビラを読みこなす力」**を民衆に与えてしまいました。教会が教えた読み書きの能力が、皮肉にも教会や王権を批判する武器になったと言えます。
こうした教育背景を知ると、カミーユ・デムーランのような知識人が書いた難解な政治論評が、なぜあそこまで熱狂的に受け入れられたのかが納得できるのではないでしょうか。
ちなみに、当時の子供たちがどのような教科書(あるいは教本)を使っていたのか、その具体的な内容に興味はありますか?




