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第一話 黄昏と幽霊

二×××年四月二十日午後六時二十三分

右に影を連れながら、俺は立ち止まった。目の前には俺よりはるかに幼いだろう女の子。おそらく十歳くらい。ニコニコしながら俺に近付き、手を伸ばして来る。

その手が、オレに触れることはなかった。




「日本には月が無いが、他国では問題なく観測されている。千年ほど前までは、日本でも観測されていたんだが、ある日突然、何の前触れもなく月ば消滅した。この原因は天文学的にまだ解明されていないが、みんなも聞いたことがあるだろう昔話では…」


退屈だ。六時間目に聞くだけの理科の授業なんて苦痛でしか無い。でも数学の授業でも嫌だ。覚えられない公式を使うのは苦行だ。結局何でも嫌なんだ。それにしても、無い月の話をしてどうする。月の満ち欠けとか、しじまか表とか、そんなことを教えても実際に見ることはできない。無駄な知識だ。


「ふあ〜ぁ…」


左隣の親友が耐え切れずに欠伸をしやがった。気持ちは分からんでも無いが、やめてくれ。そんなあからさまにやったら…


「おい緑間(みどりま)、授業聞いてんのか?ほらシャキッとして!」


先生が近付いてきて、緑間とオレの間に立つ。両手をバチンと叩いて緑間の眠気を吹っ飛ばす。すると今度はこっちに顔を向け、視線は俺の手元に移った。


「何もノート書いて無いじゃないか赤城(あかしろ)!お前それでどうやってテスト勉強するんだ!」


ほら、隣のバカがでかい欠伸なんてするからこっちにまで火の粉が飛んできたじゃないか。面倒くさいが、オレは姿勢の伸ばして堂々と答える。


「大丈夫です先生。俺たちには坂出(さかいで)のノートがあります。彼のノートを見るだけで知識問題はそれなりに取れます。」


スポーツ万能成績優秀。リーダーシップもあり、かといって真面目君過ぎずにちゃんとふざける。そして高身長で顔が大◯翔◯。これが坂出駿(さかいでしゅん)である。ちなみに全学年共通のファンクラブがある。


「坂出を頼るな!お前らもう中二なんだから、頼むから自分でやってくれ!」


は〜い、と生返事をしてことなきを得る。先生の願いは虚しく散る。だってオレはこれからも坂出を頼る。


そう、オレは勉強ができない。そしてスポーツは普通。たまに女子に失礼なこと言ってボコられるが、それでも良好な友人関係を持てる感じの愉快な奴。それがオレ、赤城朝日(あかしろあさひ)

そしてさっき吹っ飛ばされた眠気が再び舞い戻ってきて舟を漕いでいるのが緑間葉一(みどりまよういち)。こいつも俺と似たようなもんだが、英語だけ成績が良い。つまり裏切り者だ。

オレと葉一と坂出は小学校からの仲。よく三人でつるんでいる。


さて、そろそろ終了のチャイムが鳴る。だが帰れるわけではない。この後は部活がある。今は四月の下旬。新入生歓迎会の練習も大詰めで、みっちり二時間は拘束されるだろう。帰れるのは六時半頃か。なかなかに億劫だ。



掃除が終わってから部活までの間、オレは教室に残っていた。早く部活に行けば良いのだが、どうも最近やる気が出ない。ダラダラと暇を持て余していると、同じく暇を持て余す葉一が近付いてきた。


「なあ、最近出るらしいぜ」


「何が?」


「幽霊」


「いや、急になんの話だよ?」


突然話しかけていたかと思えば、オカルトのような話題を振られた。


「死んだ家族とか友達とか、そういう幽霊が黄昏時に目の前に現れるらしい。親戚でそういう体験した人がいるって、言ってる奴がいたんだ。その人は怖がって逃げたそうだけど」


なんだ、ただの噂か。所詮この手の話はこんなもんか。


「会ったらどうなんの?」


「神隠しに遭う」


間髪入れずに言われた物騒な言葉に、思わず「えっ」と声が漏れる。実際に誰か体験したわけじゃない。そう、ただの噂話だ。


「念の為に今度の社会科見学でマジのガチで効くお守り買うわ」


「月祭神宮の?あれ有名だよな。てか黄昏時って何」


「知らん。夕方?」


「知らんのかい」


何なんだよとぶつくさ言いながら、その後も葉一と話して、またまたぶつくさ言いながら部活に向かった。




学校を出た頃には、もう太陽はだいぶ西に傾いて、今にも落ちそうだった。これが黄昏時か。ただの夕方と何が違うのだろうと考えて、ぼんやりと帰路についていた。


噂話は、案外馬鹿にできない。フラグ回収はすぐにやって来た。


「え?」


角を曲がったら、目の前に女の子がいた。十歳くらいの女の子だ。


オレは狼狽える。あり得ない。だってこの子は九年前に、車に轢かれて死んでいる。なぜ知っているか。それは、この子がオレの、姉だからだ。

一緒に横断歩道を渡っていた。右から信号無視した車が走って来て、目の前で姉は撥ねられた。

オレは無傷だった。直前で姉と繋いでいた手を離し、一歩後ろに下がったからだ。なぜそうしたのかは分からないが、体が勝手に動いていた。


オレは、さっきの会話を思い出した。


『死んだ家族とか友達とか、そういう幽霊が黄昏時に目の前に現れるらしい』


「朝日」


声が、聞こえた。実体だと錯覚してしまうほど、クリアな声。間違いなく姉のそれだ。もう随分と昔に忘れてしまった声。だけど、懐かしさには浸れない。体の自由が効かなくなった。心臓が変なふうに脈打って、冷や汗が止まらなくなる。周囲の音が聞こえない。捕えられた。そう思った。


ニコニコしながら姉の幽霊は近付いて来る。だめだ。逃げられない。動かない。


手を伸ばされた。触れられる…はずだった。


気付いたら一歩、俺は後ずさっていた。


ハッと我に帰る。そしてまず深呼吸。大丈夫、息は吸える。少し冷静になった頭で考える。葉一との会話で、幽霊に会ったら神隠しに遭うと言っていた。それが本当なら、オレはもう行方不明者だ。だけど、まだ触れてはいない。今全力で逃げれば、絶対に助かる。オレが感知しているから、それは絶対だ。


…感知?感知ってなんだ?根拠のない自信のはずだ。


自分の思考に違和感を感じていると、また幽霊が近付いて来る。そして口を開こうとする。

きっと名前を呼ばれると、動かなくなってしまうんだ。やばい。そう思って逃げようとした瞬間、誰かが、オレと幽霊の間に割って入り、右手を突き出して叫んだ。


「荒ぶる魂、荒ぶる神よ。鎮まり給え、眠り給え。畏畏申す!」


その瞬間、オレを庇った人の、右の拳の中から、強烈な光が溢れ出す。オレはその眩しさに、思わず目を閉じた。




「大丈夫?もう目開けて良いよ」


恐る恐る目を開けると、見知らぬ女の人がオレの顔を覗き込んでいた。驚いて仰け反ると、くらっときて、尻餅をついてしまった。女の人の後ろを見ると、もう幽霊はいなかった。


「怖かったよね。もう祓ったから、あの幽霊が出て来ることはないよ」


「ゆうれい…さっきのはやっぱり、幽霊?あの、姉なんです。死んだ姉で…」


オレがパニックになって話し始めると、女の人はオレの頭にそっと手を置いて、諭すように言った。


「落ち着いて。見えてしまったなら、知って貰わないといけないけれど、さっきのは本物の、あなたのお姉さんの幽霊。そして、幽霊に支配されて、その手を取ってしまったら、連れて行かれてしまう」


「連れて行かれるって、どこに…」


「あの世よ」


あの世…神隠し、という単語より、はるかに恐ろしい単語に、背筋の毛がゾワりと逆立つ。


「でも、なんでそんな事…それに、今まで幽霊なんて見えたこと無かった。なんで急に」


「霊力が高い人には、幽霊は常に見えるわ。普通の人が見るには、幽霊自体が姿を現してくれないといけない」


女の人が手を差し出す。オレがその手を取ると、立ち上がらせてくれた。


「私たちは、簡単に言うと祓い屋。幽霊を祓って、魂が連れて行かれるのを防いでいます」


女の人はそう言うと、右手の人差し指を顔の前に立てた。


「私からも、質問いいかな?…どうして、動けたの?名前を呼ばれたら、動けなくなってしまう。それは私たち祓い屋も同じ。勿論、呼ばれなかったら簡単に逃げられるんだけど、君は呼ばれていた。私は間に合わないはずだった。どうして?」


「えっと…オレも、動けないと思ってたんです。でも、体が勝手に…よくあるんです。無意識に危ないことを避けるって」


女の人がハッと息を呑んだのが聞こえた。するとゴソゴソと鞄を漁って、一枚の名刺を取り出した。


「これ、私の連絡先。幽霊関係で気になる事、困ってる事があったら、連絡してね。急ぎのときは…君の学校の優等生くんにでも頼ってみたら?それじゃあまた」


オレに名刺を受け取らせて、女の人はくるりと後ろを向いて歩き出した。その姿をぼーっと見ていると、急に立ち止まって振り返った。


「そこに書いてあるから分かると思うけど、私、筑紫(つくし)アキエって言います。よろしくね!」


そう言うと今度こそ、去って行ってしまった。




月の運命が、動いた日。

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