第五話:家族に感謝
ああ……なんて静かな時間だろう。
温かな風が頬を撫で、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。
絵筆の音と、リオの小さな笑い声。まるで、春そのものがこの部屋に満ちていた。
(……ああ、なんか眠くなってきた……)
目蓋が重い。
リオの歌うような鼻歌が、ゆりかごみたいに耳に響いて……。
――はい、寝てました。
どう見ても寝すぎです。おはようございます、俺。
気がついたときには、真っ白な天蓋のベッドの上。
眩しいほど柔らかな光がカーテンの隙間から差し込み、絹のシーツがひんやりと頬に触れる。
どれくらい寝てたんだ……? 一時間? 二時間? いや、体感で五年くらい寝た気分なんだけど。
「おはよう、アレク。目を覚ましたみたいだね。ちなみに1日寝てたよ。」
低く落ち着いた声。
その声を聞いた瞬間、思わず上体を起こした。
「おはようございます、父上。あの、リオは……?」
椅子に腰かけていたのは、父であるエルフェリア公爵。
彼は本を閉じ、穏やかな笑みを浮かべた。
「リオなら今、ルイナ……母上と一緒に刺繍をしていると思うよ。」
「そうですか……僕、いつの間にか眠ってしまったみたいで、途中から記憶が……」
そこまで言ったところで、盛大にあくびが出た。
貴族としてあるまじき行為? 知らん。五歳児なんだから許される。
「リオがね、慌てて私のところに駆け込んできたんだよ。“にいさまが動かないの!”ってね。」
「……」
「寝てるだけだと伝えたら、安心して泣いちゃってね。涙で袖が濡れてしまうくらいだったよ。」
「……すみません。リオにも心配かけちゃったな。」
(そりゃそうだよな。三日昏睡してた兄が、やっと起きたと思ったらまた爆睡。怖いに決まってる。)
「気にしないでいいさ。それより、よく眠れたかい?」
「はい。体も軽くて、どこも痛いところはありません。気分もすこぶるいいです。」
「それはよかった。」
そう言って父上は柔らかく笑った。
光の差す部屋で微笑むその姿は、まるで絵画のようだ。
長い白銀の髪が陽光を受けて淡く輝き、伏せたまつげが影を落とす。
穏やかな紫の瞳には、どこか神秘的な深さがあり、まるで人を見透かすようでもあり、包み込むようでもあった。
――正直、男でも惚れるレベル。
(いや、待って。今一瞬マジで惚れたかもしれん。)
「それで、今日の予定なんだけどね。」
ハッ。危ねぇ、現実に戻ってこい俺。
「アレク、そろそろ魔法訓練をしてみないかい? アレクももう五歳、リオも四歳だろう。早いうちに魔法に慣れておいた方がいいと思ってね。」
「魔法訓練……ですか?」
(やった!ようやく魔法のチュートリアルきた!!)
「ちなみに、相手は誰が?」
ここ重要。ここ重要だぞ。できれば、シド。できればシドをお願いします!!!
「アストレア侯爵家の次男――シド・ノワール・アストレアだ。」
きたぁぁあああああ!!!!!
ありがとう父上!愛してます!崇めます!今なら靴でも舐められるレベルです!!
「…シドじゃ駄目だったかい? うん百年ぶりに生まれた“全属性持ち”の天才だよ?」
「いえいえいえいえ!!むしろ最高です父上!!!」
勢いよく返事をしてしまい、ちょっと恥ずかしい。
でも嬉しすぎて仕方ない。
「アレク、あまり大声を出してはいけないよ。君は病み上がりなのだから。ね?」
優しく頭を撫でながら、軽くウインクする父上。
くそっ、イケメンすぎる。俺も将来こうなりたい。
「じゃあ、向こうには話を通しておくよ。早ければ二日後には来るだろう。」
そう言って父上は本を持ち、静かに部屋を後にした。
「さて……俺はどうするか。」
書庫で魔導書を読み漁るか、それともモルス・アルラウネの様子を見に行くか……。
悩んだ末に、出た答えは一つ。
「リオに会いに行こう。」
屋敷の中は静まり返っていた。
大理石の床に小さく靴音が響く。
壁には精緻な絵画と金の装飾が並び、天井のシャンデリアがきらめいている。
(ほんっと、貴族の家って広いよな……。ここ一周するのに何分かかるんだろ。)
中庭では白い薔薇が満開で、噴水のそばでは白鳥が羽を休めていた。
まるでヨーロッパの宮殿そのものだ。
(行ったことないけど。)
「坊ちゃま。お加減はいかがですかな?」
声をかけてきたのは、一人の老紳士。
完璧な燕尾服にモノクル、白髭は一本の乱れもない。
背筋は真っ直ぐ、まるで軍人のような気品。
「うん。もう元気だよ。ありがとう、カルヴァン。リオと母上はどこにいる?」
「南の書庫におられます。もしよろしければ、このカルヴァン、お供いたしますが?」
「もちろん。頼むよ。」
「では、失礼して。」
二人で廊下を歩く。
広い廊下に靴音がリズムのように響く。
「そういえば、旦那様から聞きましたが、坊ちゃまは魔法の修行を始められるとか。」
「うん。シド・ノワール・アストレア様と一緒に。」
「フォッフォッフォ。あのお方なら間違いありません。私の弟がアストレア家に仕えておりますが、彼は天
才中の天才ですぞ。」
「へぇ……。僕と三つしか違わないのに、全属性使えるなんて、本当にすごいな。」
「なぁに、坊ちゃまもすぐ追いつかれましょう。才能ある方はすぐに伸びますゆえ。」
「そうかな……そうだといいな。」
そんな他愛ない会話を交わしているうちに、目的地に着いた。
カルヴァンが扉を三度軽くノックする。
「奥様、お嬢様。入ってもよろしいですか?」
数秒の静寂の後、ギギィ……と扉が開く。
最初に飛び出してきたのは、白銀色の髪をふわりと揺らす小さな天使だった。
「にいさま!」
「おはよう、リオ。今日も綺麗だね。」
思わず微笑みながら頭を撫でる。
リオは嬉しそうに目を細めた。
「おはようございます、にいさま! にいさまも、きょうもとてもすてきです!」
尊っ……!! この子、どうしてそんなに人の心臓を撃ち抜くんだ!?もう、罪な子!!
デレデレになっていると、部屋の奥から母上――ルイナが現れた。
薄水色のドレスの裾が揺れ、花の香りがふわりと漂う。
「おはよう、アレク。体は大丈夫?」
「ええ、もうすっかり元気です、母上。」
「よかったわ……。そうだ、リオがあなたに渡したいものがあるそうよ。」
「か、母様、それは……っ!」
リオが顔を赤くしてうつむく。
その仕草がまた天使すぎて、心が浄化される。
「に、にいさま、これ……。」
おずおずと差し出されたのは、白いハンカチ。
端には丁寧にアジサイの刺繍が施されていた。
淡い紫と青が重なり、光の加減で微かに揺らめく。
「これ……もらってもいいのかい?」
「……はい。」
リオは小さく頷く。
「ありがとう、リオ。大切にするよ。」
そう言うと、リオの顔にふわっと笑みが咲いた。
花よりも美しい笑顔だった。
「よかったわね、リオ。アレクのために一生懸命縫っていたのよ。とても可愛らしかったわ。」
母上の優しい声が響く。
陽の光が三人の間を照らし、まるで時間がゆっくりと流れているようだった。
――この瞬間が、永遠に続けばいいのに。




