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賢者の瞳は朱色に輝く  作者: 智慧砂猫
第二章

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第18話「分からない事ばかりだ」

 町は消えた。建物も人間も動物も植物も、全て塵となって消えた。水は一滴さえ残さず蒸発した。残ったのは町ひとつを消し飛ばした痕跡のみ。大騎士ジルベルトの痕跡さえも、何も残っていなかった。────生き残った女を除いて。


「ふむ……。分からないな」


 そこに立っていたであろう男の姿を思い出しながら、ネヴァンはただ無表情で、しかし感情的には複雑な気分で地を見下ろす。


「(なぜ女を逃がしたのだろう。どうせ死ぬのに逃がす意味なんてあるのか。さっぱり理解できない。戦うだけ無駄。それでも奴は時間稼ぎのように戦った。無価値で、無意味で、なんとも無様な死だ)」


 人の感情の多くをネヴァンは分からない。分かろうとはしている。ただ、どうあっても学べないのだ。多くのものが欠落しているという自覚はあるのに、それをどう満たせばいいか分からない。


『賢者の石はどんなものでも願いが叶うんです。たとえ感情の分からないあなたでも魅力的に映りませんか。その埋まらない穴も塞がるかもしれませんよ』


 退屈で退屈でたまらない日々。人々が何を思い、何を感じて生きているのか分からない。右を見ても左を見ても不平不満を漏らす者ばかりで、ではそれらの差別をなくしてやろうと敷いた法律にさえも彼らは愚痴をこぼして悪態を吐く。


 実に下らない。それ以外に感想が抱けない。どう下らないのかと言われても、説明ができない。とにかく鬱陶しい。耳障り。嬉しいだとか、悲しいだとか、怒りすら湧かない。そもどういう感情なのか。胸の中にあるのは僅かな不快感だけ。ただただ気に入らない事があると全身を虫が這うかのような気持ち悪さに悩まされる。どう理解すればいいのか、賢者の石があれば解決できるとネヴァンは信じた。欲しいものが手に入ると言うのなら、感情を手に入れてみたい、と。


「あぁ、陛下。やっぱり御無事でしたか」


「……グロー、来るのが五分と遅かったな。見ものだった」


「また変な事を仰いますね。あなたが死なないかとヒヤヒヤしてたのに」


 ネヴァンに忠誠を誓う騎士の中で、側近を務める男。中年くらいの歳で、髭を剃る暇もないくらいに振り回されがちなベテラン騎士だ。ぼさぼさの頭と無精ひげはトレードマークであると本人は言う。


「あのねえ、陛下。俺はあなたに傷ついて欲しくないんです。勝手な行動は慎んでもらえやしませんかね……。そもそも仮にも一国の主であるあなたが」


「お前の説教は聞きたくない」


 ぷくっと頬を膨らませてそっぽを向く。こんなときだけは子供っぽくて表情豊かなんだよな、とグローは溜息を吐いた。


「じゃあ帰りましょう。あんま長居してっと見つかりますから……ん? 陛下、その手に持ってるのはなんです?」


「剣だ」


 見りゃ分かると言い返したくなるのをグッと呑み込む。


「随分と上等なものに見えますが、そりゃまさか」


「剣帝の持っていたものだ。覇者の武具(レガリア)ではないが、二振りとない一級品だろう。放出した魔力を高められるらしい」


 使い勝手は最高の品。だが剣を眺めるネヴァンには興味の色がない。


「グロー、ジルベルトは始末したがキャンディスを逃がしてしまった」


「逃がしたぁ!? あの冷血のネヴァンが!?」


「失礼な……。私とて生きた人間だ、多少の感情はある」


 むくれた顔をして剣を地面に深く突き刺す。


「逃がしたんだ、ジルベルトが。己の命を捨ててまで、瀕死の重傷であるキャンディスを。どうしてなのだろう、とずっと考えている。意味がないのに」


「ンな事、俺は知りゃあしませんよ。ですが、まあそりゃあ、いわゆる絆って奴でしょう。仲間に対する愛情、的な」


 ジッと剣を見つめたまま、ネヴァンは不思議そうに尋ねた。


「絆……愛情とは、たとえばどういうものなのだ」


「そうですねえ。失いたくない大切な者を守りたいとか、そういう気持ちかと。あなたには、そんな奴なんていないでしょうがね」


 主人であるはずのネヴァンに軽口を叩けるのはグローだけだ。


「ああ、いない。お前くらいだろう。……いや、しかしお前を失って悲しいのかと問われると分からない。涙を零す事もないかもしれない。それはやはり大切ではないという事だろうか? ふむう、ますます深みにはまった気がする」


「今はそれでいいんじゃないですか、陛下。俺も大事にしてもらいたいとは思ってません。ですが、そうですねえ。俺は大切に考えていますよ、陛下の事は」


 愛のない皇帝。さても本心は分からない。愛がないのは彼女の周りなのか、それとも皇帝本人なのか。グローだけがなんとなく理解していた。


「帰りましょう。これ以上、この何もなくなった荒野に留まってもそれこそ意味がない。このまま魔塔に行きたい気持ちも分かりますが、個人的な理由でいたずらに二個師団も使い捨てるでは皇帝としての立場が危ぶまれます」


「……お前はいつも国を想うのだな。あの連中は大切か?」


 どう答えるのが正解かも分からない。長年の供をしてきたグローでさえ、無表情の上に察しがつかない頓狂な質問が飛んでくるからだ。しかし、分かっている。これまで通り自分らしい答えでも構わない。


「大切ですよ。親は違えどルーツは同じ北の民。であれば大切にしないわけがない。家族みたいなものですから」


「では帰ろう。私は民になど興味はないが、お前の意思は尊重したい」


 羽織を翻して歩き出すネヴァンの背中を追いかけようとして、ふと剣に目が行った。地面に突き立てられた剣は上物だ。ネヴァンの唯一の趣味とも言える武具の収集にはうってつけの品を置いて行こうとしているのが不思議だった。


「ちょっとちょっと、陛下。こいつ置いていくんですか?」


「ああ、それか。……うむ、そうする。理解できない行動があったとしても、最期まで戦った者への私なりの敬意だ。それが戦士のすべき弔いであろう」


 当然だとばかりに振り返りもせず歩いていく。グローは仕方なさそうに頭をがりがりと掻いて、やれやれとまた溜息を吐いた。


「まったく仕方ないな、うちのお嬢は」


 いつか誰かが気付かせてくれるだろうか。愛を知らない哀れな皇帝が感情とは何たるかを知る時が来るのだろうか。グローはどのような結末になるとしても、最期の時まで忠誠を誓おうと決めて隣に立った。


「なんだ。その腑抜けた顔は?」


「さあ、なんででしょうね。俺にもよく分かりません」

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