第7話「二回目の人生と思って」
そうだ。なにも間違っていない。愛情では命は救えない。愛情では何も守れない。自分の日常でさえ。アデルハイトの胸に後悔が渦巻く。
エリンを見送ってまた独りになったら、灯りを消して二階へあがった。寝室の窓から見える景色はひどく寂れていて、貧民窟に住まう人々の廃れた日々が映るだけ。どこで拾ってきたかも分からない数滴残った酒瓶と共に眠り、朝になればゴミを漁ってカビたパンに命を預ける。そんな薄暗い日々。
「なんだっていうんだ……私が何をしたんだ?」
愛されようとすることの何が悪いのか。人々のために尽くそうとすることの何が悪いのか。弟子たちは成長し、世界は救われた。みずから姿を隠したとはいえ、その一端を担ったのに何故こうも胸を締め付けられる想いをしなくてはならないのか。自分がしてきた事の何が間違っているんだと叫びたくなった。
薄っぺらな寒さも凌げないカーテンを強く握りしめて、ただアデルハイトは泣きそうになるのを堪えて、そのうち諦めた。まだ生きているんだからいいじゃないか。これから新しい生き方をする機会じゃないか、と。
ベッドに飛び込んでシーツに包まり、寒い部屋の中で身を小さく丸める。
「生きてるだけでえらいって、誰か言ってくれよ」
父親の虐待。何も映っていない虚ろと憤怒の瞳と常に入れ替わる慈愛と罪悪に満ちた瞳。全身のあらゆる傷が疼く。記憶がフラッシュバックする。世の中の残酷さを詰め込んだようなあの憤怒が、最期にみた弟子たちと重なった。
ごそごそと動いて足を伸ばして、リラックスする。
「そうだよ。私が間違っているはずがない。でなければ生き返るはずなんてないんだから……。そうだろ、父さん。あなたはいつだって私を殴ったが、それでも私の事を『間違ってる』とは一度たりとも言わなかったんだから」
認めたくない非力。認めたくない現実。父親は当然怖ろしい存在ではあったが、同時に我が子の正しさを認めているからこそ自身と対比していた事を知っている。それが気に入らなくて、堪えられなくて、殴る事で自尊心を保っていた事も。
寝返りを打って、目の前にある姿見に映る自分を眺めた。
「……ん? ちょっと待てよ。いやいや待て待て、嘘だろう?」
慌てて起き上がって鏡の前に立つ。もう一度自分を確認する。紛れもない魂と肉体。アデルハイト・ヴァイセンベルクその人で間違いない。
ただひとつ違う事があるとしたら、それは以前よりも大きな魔力を持っている事。────そう、それが大きな問題を示していた。
「ハハハ、こんな事あり得るのか?」
瞳の色が片方に紅く美しい宝石を思わせる変色が起きた。痛みはなく、視界が霞んだりもしていない。病によるものではなく、その輝きをアデルハイトは知っている。慌て気味に手で覆って、そっと離せば澄んだ青藍が取り戻された。
「そんなバカな。まさか賢者の石と融合してるのか?」
公的にはなっていないものの、アデルハイトは紛れもない大賢者だ。これまでの知識と経験から思考は激流のように素早く、結論は岩山のように重たく動かしがたいものを導き出す。
「(ロクな使い道もない上に何やっても破壊できないほど頑丈だから後生大事に持ってたのに……。私の願いに呼応してしまったんだな)」
死にたくなかった。殺されたくなかった。まだ生きていたかった。無意識の願いを賢者の石は聞き入れた。アデルハイトの肉体に宿った魔力を基盤に五年の時間跳躍と共に、肉体を再構成。その際に起きた僅かな不具合。それが子供の姿に立ち戻ってしまって、全盛期と比べれば僅かに魔法の出力が落ちている事。
「(大きな障害ではない。何故賢者の石が呼応したかまでは分からないが、ひとまずこの事は誰にも言わない方が良いだろう。擬装魔法も必要かな)」
歩く賢者の石。もしエンリケたちに情報が洩れれば、生きたまま霊薬の材料にされかねない。魔法使いとしても今はせいぜい名乗れて大魔導師クラスの強さしか発揮できない。それもエンリケに及ばない程度の。
だったら今は静かに口を閉ざす。もっと強くなって、全盛期のそれと変わらないようになるまで。そして必ず、英雄たちを引きずり下ろす。彼らは必ず、賢者の石という根源へ辿り着いてしまうから。
「考える事が増えてしまったな」
がっくり肩を落とす。悩みの種だった賢者の石が、なおさら厄介な事になってしまった。とはいえ今出来る事は何もないのでベッドに戻った。
天井を仰ぎ見て、あっという間の出来事がまるで嘘のようで全てが真実であると頭で理解して、恐ろしさと不安、それから僅かな希望と期待が湧く。
「ま、悪くない。二回目の人生と思って楽しませてもらおうじゃないか」
前途多難と言わざるを得ない。そんな状況でも、昔に比べればずっと気持ちが楽だ。裏切られるだけ裏切られ、自分の手には何もないと思っていても、傍には確かにいたのだ。アデルハイトを心から慕う者たちが。
気持ちが落ち着いて来ると、また眠気がやってくる。今度は目を瞑って深く息を吸い込んでからゆっくり吐き出して、そのまま静かに眠った。