第16話「魔力の器」
背中からするりと水の中に入れるように八鬼姫の手は沈んでいく。その瞬間からも、問題ないとはいえ慎重に慎重を重ねてゆっくりと。そして────掴む。心臓に纏わりつく魔力の器。触れた瞬間、八鬼姫の腕にも痛みが奔った。
しかし、それ以上に激痛を伴うルシルの事を思えばかゆい程度の痛みに過ぎない。施術を受ける者の痛みは、それこそ死の苦しみとも言えるのだ。
「う、ああ……あぁあぁぁぁぁぁっ……!!」
「耐えよ、てめえなら出来る! アデルハイト、そっちは!?」
「ぐう……も、問題ない……問題ないとも……!」
強く抱きつかれるまではいい。だが、ルシルが痛みに耐えようとしがみつけば、器から魔力が全身を駆け巡って、本来ならば発揮されないほどの力によってアデルハイトを傷つけた。服など簡単に引き裂いて、爪が背中に食い込む。がりがりと掻かれた傷から血が流れ、背中を真っ赤に染めた。
「後で治療してやるから我慢せえ。悪いな、もう少しの辛抱じゃ」
絶叫は外へ響かないが、部屋はルシルの叫びで耳が痛くなるほど満ちた。しかし、一分の経てば八鬼姫が魔力の器から手を放して痛みは余韻を残すのみとなる。引き抜かれた八鬼姫の腕は、真っ黒に焼け焦げていた。
「八鬼姫……お前、大丈夫なのか?」
「ん? おお、見苦しいもんを見せちまったな」
黒焦げの手が蒼い炎に包まれると瞬く間に元の姿を取り戻す。
「俺様は魔核を完全に砕かれない限り無限に回復する。問題ねえさ。それよりルシルだ。魔力の器自体は無傷じゃが、肉体に強引に流れた魔力はかなりの痛みを伴ったはずじゃ。気を失ってはいまいか?」
とんとん、と背中を叩かれたルシルは青ざめた顔で滝のように汗を流しながら、ぜえぜえと息を切らしているのに、ゆっくり頷いて気丈に笑みを浮かべた。
「た、大した事……ないです……この程度は」
「かっかっか! 大した事ないようには見えんが問題はなさそうじゃな!」
ばしっと背中を叩くとルシルがびくっと跳ねてアデルハイトにしがみつき、油断していたところへ背中の傷への追撃でアデルハイトの方が痛そうにした。
「わあ! ご、ごめんなさい背中の傷が!」
「大丈夫だ……どうせ後もういっかい待ってるから……」
八鬼姫はたいそう可笑しそうに見つめ、よっこいせと立ちあがった。
「じゃあまずは背中の傷を治すところからじゃのう。シェリア、その間にてめえも準備しておけ。ルシルは服を着たら、部屋を出ろ。央佳が待ってる」
「わかりました。ではまた後で会いましょう、皆さん」
しっかり汗を掻いて、ひどく疲れはしたものの、肉体的な損傷については一切ない。眠りに就く前に湯浴みだけはする事になり、ルシルは先に部屋を出ていく。襖がすーっと静かに閉まったら八鬼姫はアデルハイトの治療を始めた。
「ちと熱いぞ」
背中の傷がぼうっと燃える。蒼い炎が傷を焼く。アデルハイトが苦悶の表情を浮かべたが、うめき声ひとつあげずに耐え抜いた。
「ほほお、やるのう。てめえは流石に潜ってきた修羅場が違うか」
「……殺されたときの事を思えば大した事じゃない」
「くっ……ぷふっ……なんとも嫌な堪え方よのう。実に愉快」
「この女狐、魔族とはいえ少しくらいは人の心くらい持ってないのか?」
悪態を吐かれても八鬼姫はけらけら笑うだけだ。
「さあて治療は済んだ。ではシェリア、こっちへ」
「う、うん……。やっぱりちょっと恥ずかしいかも」
「くっくっ、気にするでない。ここには男子など一人もおらぬゆえな」
じろっと胸を見てから、う~ん、と八鬼姫は目を細めた。
「……ちいせえな。ようし、首をあげよ」
「ちょっと待って、おかしい! ルシルさんのときと違う!」
「俺様よりずっと小さいもん触って何が楽しいんじゃ」
「失礼だろ! もういっそ触ってくれた方がマシだよ! ほら触ってよ!」
「落ち着かないか、シェリア……。もうそれではお前が変態にしか見えん」
「ちくしょう! このひと最低だよ、アデル!」
八鬼姫はツンとした態度のまま、まるで意にも介さない。不服げに目に涙を浮かべるシェリアを相手にもせずに指先を首に触れた。
「はっはっは、愉快じゃのう。小娘は気が強くて虐め甲斐がある」
魔力を同調させたら、指を胸元に沈めて様子を見る。
「どうじゃ、痛かったりせんか。感覚が何もなければ始めるが」
「え……と……なんだろ、むしろ気持ちいいような……」
「あ? そんなわけあるかい、同調しても感覚が消える程度……む?」
八鬼姫が体の中に突っ込んだ指に魔力がまとわりついてくるのが分かる。まるで誘われるように、示されたその先にあるのは魔力の器だ。────求められている。そう直感した。
「……ほお。アデルハイト、こいつ死に掛けた事あるか?」
「え? ああ、ジルベルトと戦ったときに命を落とす寸前まで」
納得、と八鬼姫は深くゆっくり頷く。
「なるほど。この小娘の魔力の器は特殊がすぎる。最初からかなりの量を溜められたはずじゃが……生成する魔力の量が追い付いておらん。肉体を守るための魔力が勝手に消耗しておる」
「あの、それってどうなるの? ボクは強くなれないって事?」
のんびり屋だな、と八鬼姫は呆れてフッと息を漏らす。
「────阿呆。てめえは今、緩やかに死んでいってるんだよ」




