第3話「手を貸すくらいなら」
この世には怖ろしい存在がいる。ずっと昔、ヴィンセンティアから聞いた事があった。決して触れてはならない厄災そのもの。たったひとりで人間界も魔界も崩壊させられる怪物。ただ壊さないだけ。ミトラはハッキリと、八鬼姫に見た。
結局、怖ろしくてそれ以上は何も返せなかった。
「アデル……。あいつはやばい、本気で殺されるかと思った……」
「ああ、分かるよ。一瞬だけだが、魔力が私にも分からなくなった」
あまりに大きな実力差が生まれると魔力を認識できなくなる。最初に出会ったとき、八鬼姫の魔力はそれほど危険視するものではなかった。阿修羅の師であるので、ひと目で分かるだけの強さは確かに見た。だが────。
「(今の殺気は尋常じゃない。賢者の石と融合していて、魔力の器も修復された私でさえ分からないなんて……。どれほど生きればこうなる?)」
ハッとした。アデルハイトが視認した先に、二本の蒼い炎が揺らめくような尾。強烈な魔力の塊がそれだ。微かに感じるかどうかの魔力は、ふわっと消えた。
「おい、ぼさっとしとるんでないわいのう。さっさと来い」
「あ、ああ……すまない」
案内された大広間には、それぞれ人数分の席が用意され、座布団が並んだ。
「てめえらは座るのは苦手じゃろうとは思うが、こっちにはテーブルで食べるっつう文化がねえから諦めてくれ。その代わり、俺様がてめえらのためにメシを作らせてもらった。まあ座れ。この中に好き嫌いがあるものはおらんよな?」
幸いにも全員が頷いて答えたので八鬼姫はホッとして上座に腰を下ろす。後は適当に座れと促して、全員が座ったら「では、いただきます」と両手を合わせてから箸を手に取った。それを皮切りに皆も真似て、食事が始まった。
「ねえねえアデル……。このおさかな、すごく美味しい」
「はらわたのあたりが少し苦いが、確かに身は柔らかくて塩がよく利いてる。というか、皆、これの使い方上手いな。ちょっと使い辛い」
見様見真似で八鬼姫の真似をすれば、意外と器用なルシルやシェリアはサッと使いこなしたが、アデルハイトとリリオラは中々上手くいかなかった。
「んも~っ! 何よ、これ。手で食べていい?」
「阿呆。使い方くらい練習せんか」
「むう……めんどくさいけど、アイドルがそんな事言えないわよね……」
「なっはっは、なんとも素直な子でよろしい」
リリオラの態度に八鬼姫はなんとも穏やかな目を送る。
汁椀を両手に持ったルシルが、二人のやり取りを眺めながら茶色い汁を恐る恐る飲み、味わい深さに目をきらきらと輝かせて尋ねた。
「や、八鬼姫殿。これはどういうスープなのです? なんとも口の中に広がる豊かな香りと、この独特の味わい……。濃いのに飽きないです!」
「なんじゃ、味噌汁がそんなに気に入ったんか?……ふむ、そうじゃのう」
ぽん、と手を叩いて八鬼姫は上機嫌に言った。
「では帰りに味噌を包ませよう。あれは扶桑自慢の逸品ゆえ、俺様も好きじゃ。レシピも用意させといてやる。大陸でも材料は手に入るはずじゃ」
「あ、ありがとうございます……! 八鬼姫殿は大陸にも来られるのですか」
首を横にやんわり振って、八鬼姫は肩をすくめる。
「大陸は好かぬ。連中の心の声は四六時中、嫉妬や欲望に塗れていて気に食わん。ここの連中は違うなどとは言えぬが、まあ大陸の連中よりマシじゃな」
鬼人族は元々、赤と青の部族に分かれており、それぞれ少数だったため互いに助け合って生きていくのが当たり前だった。阿修羅が部族の首長であった左舷、右舷を配下に置いて以降、ふたつの部族は最初こそいがみ合いもしたが、次第にわだかまりは消えて今のような形に至っているので、八鬼姫の耳に不快な声が届く事はずっと減った。それゆえに気に入って滞在しているのだ。
「……ん、ところで八鬼姫。私たちは事情があって扶桑に来たんだが」
アデルハイトが本題に入ろうかと話すと、八鬼姫が手で制して黙らせた。
「俺様は関わる気はねえ。それはてめえらの仕事だ」
「それはどういう……」
「この大地はてめえらのモノだ。てめえらで守れ」
静かに酒を飲みながら、八鬼姫はハッキリと断った。
「てめえらが死ねば、俺様はこの世界に用はない。元ある魔界へ帰るだけの事」
「だが、それではお前が過ごしたこの土地の人々も死ぬかもしれないんだぞ」
「知った事じゃあねえわいのう」
そっと、冷酷に、堂々と八鬼姫は告げる。
「命は平等。奪い合い、どちらかが死ぬ。それはただ獣が縄張りを取り合うのと何も変わらぬ。知能があればそうではないとでも?」
「それは……」
重たく暗い空気が渦巻く。八鬼姫は人間ではない。かといって魔族ではあってもメルカルトたちに与するつもりは一切ない。邪魔はせず行く末を見守る立場。これが自分たちの魔界を侵すものであれば排除したが、そうでなければわざわざ戦いに加わる理由はなかった。
「しかし、まあ、旧き友たちの願いは聞き届けてやらねばならぬ。────ラハヤとヴィンセンティアはもう死んだのであろう。であれば次は俺様が手を貸してやらねばなるまい。稽古くらいはつけてやろうじゃねえか」