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賢者の瞳は朱色に輝く  作者: 智慧砂猫
第三章

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第52話「在り方」


 ノルン通りは妖精も混ざると言われる程の賑やかさで、居並ぶ屋台の数々よりも笑顔に溢れた人々の姿が名物だと称賛を受ける。かつてアデルハイトも一度だけ足を運んだ事があるが、そのときは軍人だったので、巡回がてらに暇つぶしに食べ歩きをして業務に戻ったのを覚えている。楽しくはあったが、心の底から笑えるほどではない。通り過ぎていく人の波に流されながら、時折横切っていく親子の姿に、なんとなく胸が痛くて楽しめなくなってしまった。


────それ以来、アデルハイトはノルン通りを避けていた。


「ぬほほ……こんなにも美味そうな匂いに囲まれておるとはのう! なあ、ルシル、ぬしから貰った駄賃は好きに使っても良いのかえ!」


「好きに使って。あなたたち二人に楽しんでもらうために連れて来たんだもの。むしろそうしてくれないと、渡した意味がないわ」


 許可をもらうとアデルハイトの手を引いて阿修羅が駆けだす。


「わっ、おい! いきなり引っ張ると転ぶだろ!」


「ぬはは! 良いではないか、良いではないか~!」


 多少は諫めるような言い方をしていても、アデルは嬉しかった。友人に引っ張られるなどという経験は、今までになかったから。


「おう、親父殿! 焼き鳥串、塩で二本じゃ!」


「あいよ! 熱いから気を付けてな!」


 銅貨二枚を渡して、受け取った串をアデルハイトと分け合う。余分な脂がなく、火はしっかり通っているのに柔らかい。ひと口サイズで幾つか細長い串に刺さっていて食べやすく、蕩ける鶏肉の味が口いっぱいに広がった。


「うん。美味いな、塩が脂に溶けてより味が引き立つ感じだ」


「なんじゃあ、喰うたことないのか?」


「昔はあまり外を出歩かなかったし、わりと菜食に近かったんだよ」


「ほお。んならばもっとたくさん喰わねばな!」


 屋台の傍にあったゴミ箱に串をぽいっと投げ入れ、阿修羅はルシルからもらった硬貨の詰まった布袋の口を握りしめて他の屋台を探す。


「二人共、あっちの屋台なんかどうかな。美味しいりんご飴があるよ」


「おぉ! ルシルめ、良い屋台を見つけおるではないか!」


「あはは、このあたりは遊び慣れてるの。暇があればワイアットと来てたから」


「……チッ、惚気たかっただけかい」


「ふふ、そう言わないで。惚気たいときもあるのよ」


 むくれる阿修羅を優しく撫でて困ったように笑い、ルシルは言った。


「ただ自慢したいだけじゃなくてね。他の人がどうかまでは知らないけれど、私はもっとたくさんの人に知っておいてほしいの。私の好きな人がどう過ごしていたのか。どう生きてきたか。どんなものが好きか……。私だけが知っているべきなのは、私をどう愛してくれているか。そう考えてるの」


 阿修羅はふん、と鼻を鳴らして歩きながら。


「わちきには分からん。実の親もいなけりゃ恋人もおらんのでのう」


「あ……ごめんなさい、あなたも親が……」


 気まずくしてしまったか、と思ったが、阿修羅は決してそんな素振りは見せない。────否、そもそもからして存在が違う。同じ人の形はしていても、魔族のような血の在り方は阿修羅を悲しませなかっただけだ。ただ、無情だった。


「もうとっくに殺した。わちきを子供と侮って殺そうとしおったからの」


「……え? こ、殺したの、自分の親を?」


 瞬間、喧騒が何も聞こえなくなるほど驚愕した。まるで世界で繋がっているのは、その場にいる三人だけのように。だが阿修羅はあっけらかんと────。


「色々あるんじゃ、愛されぬのにも。そもそも赤と青の部族しかおらぬのに、わちきのような肌の白き者が生まれる事は厄災とされておるゆえ仕方ないのう。それでも何百年かに一人は生まれるらしいぞ。めんどくさいものよなぁ」


 たまさか、生まれてきた歴代の白き鬼人たちの中でも阿修羅はズバ抜けて強かった。だから死ななかっただけ。だから生きているだけ。だから君臨しているだけ。阿修羅にとっては、きわめて自然な話に過ぎないのだ。


「それよりリンゴ飴はどうする、皆買うのかの?」


「私は欲しいな。ルシル、お前は」


「えっ、あっ、か、買うわ! 買います!」


「ぬふふ、では三個買ってくる! 待っておれよ~!」


 たたたっ、と駆けて行く。阿修羅が笑顔でやり取りする姿を見て、ルシルは『なぜ残酷な事に平気な顔ができるのだろう?』と不思議に感じる。あれが鬼人という種族の生まれ持った現実ならば、なんと哀れなのだろうか、と。


「気に病むなよ、ルシル。私たち大陸の人間だって、誰も彼もが当たり前のように幸せには生きていられないんだから。阿修羅はそれでも過酷な環境で優しさを持てた方だ。貧民街に住む連中よりずっと立派なものさ」


「貧民街……。あなたは、そこに暮らしてたの?」


 広大な王都の中でも後ろ暗い、まるでそこには最初から何もなかったかのように放置された貧しき者たちの巣窟。奪い合い、殺し合う。それが当たり前。貧困がそうさせているのだから自分は悪くない。仕方ないと言い聞かせる。


 薄汚い。アデルハイトが抱いた感情はそれだった。貧困だけが悪いのではなく、貧困から抜け出そうとせず諦めた者たちの掃き溜め。そんな場所で暮らしていた事をしみじみと思い出しながら、ゆっくり頷いて────。


「私は叔父に虐待を受けていたから、貧民街みたいな場所なら隠れ場所には丁度良かったんだ。誰も近寄らないし、あの場所にいる奴らは軍人を恐れてる。殺せば貧民街はたちまち魔女狩りのような現場になるだろ?」


「それは……ええ、だから逆に安全な場所だったのね」


 いつかは変えていかなければならない、王国の瑕。ぽっかり開いた穴。多くの人々にとっては地獄でも、アデルハイトには天国のような場所だった。しかし、そこで目の当たりにした人間の悲惨さと残酷さは、生まれついての弱肉強食で生きてきた阿修羅とは比べ物にもならないどす黒さをしていた。悪と知っていながら目を背け、自分以外の全てを敵として排除しようとする人々の瞳に宿った邪悪は、もう二度と変わる事はないのだろうと分かるほどに。


「私は阿修羅を否定しない。もちろん、全てを肯定していいわけではないが、どんな環境にも人の在り方というものがある。教えてくれる親がいないだけじゃなく、阿修羅は親が殺そうとしてきたんだから、私には責められないよ」


 ふいに初めて阿修羅が現れたときの事を思い出して、頬に飛び散った血と握った手の感触が蘇る。目の前で死んだ者の名を空に投げるように振り返り、寂しくなった。


「世界は残酷で、私たちは美しい部分ばかりを見ようとしすぎてる。扱えもしないくせに手を伸ばして自分勝手に捨て続けてる。せめて、そのくらいの現実はしっかり捉えておきたいんだ。ちょっとでも正しくなれるように」


「……そうね。私もそう在りたい。少しでも間違いがなくなるように」

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