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賢者の瞳は朱色に輝く  作者: 智慧砂猫
第三章

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第43話「千年、十分生きた」

 時間がない、急げ急げとメルカルトがエースバルトを連れてその場から姿を消す。しばらくしてから、エステファニアを覆い隠していた氷が粉のように砕け散り、覆いかぶさっていたアンニッキが安堵の息を吐く。


「は……まったく、とんでもない奴がいたもんだ」


 ごほっ、ごほっ、と大きく咳き込む。口を塞いだ手にはどろりと大量の血が吐き出される。心臓を貫かれても生きられているのは、あくまで自分の氷を使って代替品を作っているからで、魔力が切れれば溶けて終わりだ。そして、魔力も底を突きかけている。そして目の前には、死なせてはならない命がある。


「悪いな、ディアミド。君に救ってもらった命だが、ここで使おう」


 意識を失って動かない、呼吸の浅い今にも命の尽きそうなエステファニアの体に触れる。これからやる事が正しいのか分からない。メルカルトとエースバルトは驚異的な強さを誇った。エステファニアでは戦力にもならない。未来で起こりうる戦いを考えれば生き残るべきは自分だ。


────しかし、それはただの私情に勝るものではない。


「治癒の女神よ。魂の祈り手よ。美しき泉、厳かな森。痛みに安らぎを、苦しさに安寧を。我が命と引き換えに。────生きろよ、エステファニア」


 魔力が尽きていく。自分の中に残っていた全てを託して、聖女の傷を癒す。生命力を与える。心臓の代替品を成していた氷が緩やかに溶ける。抑えられていた痛みと苦しみが同時にやってきて、必死に耐えた。


「……良かった。君だけは助けられそうだ」


 目の前でひとつの命を失わずに済んだ。それだけで気分はいい。ようやく穏やかな息をし始めたエステファニアを前に安堵して、全身の力が抜ける。座り込んで空を見上げたら、曇り空に晴れ間が差す。


「ごめんな、カイラ」


 首から提げていたロケットペンダントを手にパチッと蓋を開ける。愛する娘の写真。カイラは人生を変えてくれた大切な娘だ。荒んだ心を穏やかにしてくれたレオとの間に生まれた子は、あまり笑わず快活な性格でもなかったアンニッキを優しく微笑むようにした。まさに天使と形容したくなるほど愛おしかった。


 最期にもう一度会いたかったな、とペンダントを閉じて、ゆっくり目を瞑る。ほんの小さな願いで、それは叶わなくてもよかった。もう十分生きた。目の前で妹を失った日から、アンニッキの時間は長く止まっていた。また誰かを失って傷付くくらいなら、先に逝った方がずっとマシかもしれない。そんなふうに考えて。


「ああ……悪くない人生だった」


 幸せだったかと聞かれると、どうだろう。確かにレオやカイラと出会えた人生は素晴らしいものだ。しかし、そこに至るまでの失意の時間が長すぎた。


 では不幸だったのか。そう聞かれると、どうだろう。確かに千年間も辛く苦しい思いは積み重ねてきたけれど、レオやカイラに出会えた。アデルハイトやディアミド、他にももっと大勢の仲間たちが出来て、こんなにうれしい事は他にない。


 だから、悪くない人生だ。喜びがあった。怒りがあった。哀しみがあった。楽しさがあった。他にどんなものが必要だったと言うのだろう。


 ゆっくり意識を手放していく。もう、何を求める事もない。戦い抜いて、守り抜いて、もう疲れた。後は託そう。誰よりも信じられる人たちに。


「おやすみ」


 そう呟いて、アンニッキは息を引き取った。千年という長き時間の中、ひとつの後悔もなく、やれる事は全てやったと満足した笑みを浮かべて。


 冷たい風がお疲れ様と声を掛けるように優しく吹いた。


「……ん、んん……あれ、アンニッキ様……?」


 意識を取り戻したエステファニアが重たい体を起こす。治療を受けたとはいえ、異常なまでに蓄積された疲労が抜ける事はなかった。アンニッキはどうなったのだろう。目の前で胸を貫かれていたのが最後に見た景色だ。しかし、自分の傷は治癒されているので、うまく逃げられたのかと思って顔をあげたとき、まだ荒野と化した聖都の真ん中で眠っていた事に気付く。


「え。なんで私は助かって……」


 周囲を見渡そうとして、すぐ隣にいて座り込んでいるアンニッキを見つけてエステファニアは一瞬だけ明るい顔を浮かべて『治療をしてくれたのですね』と安堵する。生きていると思ったからだ。だが、アンニッキの体はゆっくり仰向けに倒れていく。無抵抗に、ごつっ、と鈍い音を立てて強く頭を打ってもぴくりともしない。


「アンニッキ様?……アンニッキ様、どうされたのですか!?」


 すぐに抱きかかえて、完全に色を失った瞳を見て絶句する。


「そんな……そんな、どうして私などを助けたのです! 代わりに命を落とすなんて、あなたには大切な家族がいたでしょう!?」


 聖女は孤独だ。アデルハイトがいなければ、両親がいない神殿で暮らすただの孤児でしかなかった。聖都の人々は家族のようなものでも、聖女と信徒という立場は決して心で繋がれた気分にはなれず、いつも距離があった。


 それでもよかった。自分が誰かの役に立ってさえいれば気が済んだから。


「わ、私……私が生き残るなんて嫌、目を覚ましてアンニッキ……。あなたの家族に、私はどんな顔をして会えばいいのよ!?」


 これは違う。役に立つどころか、傷つけてしまう。あってはならない。自分は聖女なのだから、誰かの犠牲になるために生まれてきたのだから。ディアミドを失うだけでなく、アンニッキさえ助けられないなど、なんのための聖女なのかと叫びそうになった。


 からん、と音がしてふと目をやった。アンニッキの手の中からするりと落ちたペンダントが地面に寂しそうに転がり、エステファニアは拾って開いた。中にあったカイラの写真を見て、ぞわっとした。自分のせいでアンニッキが死んだ、と。


「嫌……嫌、こんなの……助けて、誰か……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」


 誰にも届かない謝罪が、虚空に響き続ける。絶望に打ちひしがれ、やっと泣き止んだのは、プルスカたちが安全を確かめて戻ってきた頃だった。

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