第35話「強襲、エースバルト」
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二時間前────聖都。生憎の曇り空で観光日和とはいかなかったが、それでも穏やかに聖歌が聞こえてくるのは平和で耳心地が良い。
「ん~、最高の日だね。実に素晴らしい。こうして遊びに来る分には過ごしやすい国だよなぁ。レオ、君も一杯どうだい、聖歌を聞きながらワインでも」
「君は相変わらずお酒が好きだね、アンニッキ」
アンニッキにサンドイッチを持ってきた優男はレオ・ケンドール。アンニッキの夫であり、カイラの父親。久しぶりの旅行先が聖都と聞いて不安はあったが、正式にエステファニア本人から謝罪が届いてホッとした。
もう何かに隠れる日々を過ごさなくていいのは快適だ。家族揃っての旅行は楽しみにしていたので、アンニッキの傍にいられるのがレオは嬉しかった。
「もうボトルを三本も空けたのかい?」
「んなははは。これくらいじゃちっとも酔えやしないよ。それより君も座りなよ、レオ。この邸宅のバルコニーからの景色は最高だ。流石は聖女様の持ち家って感じ。殆ど神殿で暮らしてるそうだから、実質空き家とは言ってたけど」
聖女は常に忙しい。わざわざ家に帰って眠っている暇もない。朝起きた瞬間から聖女としての役目が待っているので、神殿こそが住まいだ。どうせ使わないからあるものは全て自由にしてくれていいと言われてアンニッキは即座に荷物を運び込んだ。いっそここに住めないかな、とさえ思っている。
「何もかも揃っていてカイラも満足そうだよ。明日は皆に持って帰るお土産を選ぶんだって、ちょっと興奮気味だった。今はすっかり部屋で眠ってる」
「あらま、本当に。じゃあ神殿にでも行く? 聖女様も喜ぶと思うよ」
和解の記念に夕食でもどうかと誘われていたが、宗教的な印象の強い場では興味のないカイラが居心地悪いだろうからと断っていた。しかしせっかくなら顔を出しておきたいというのも、せっかく招待を貰った身として気持ちはあった。
「そうしようか。カイラには悪いけれど、書置きだけしておくよ」
「私は先に行くかな。断った手前、早く伝えた方がいいだろうから」
「わかった。じゃあ、後で神殿で会おうね」
レオを待たず、のんびり散歩がてらに神殿を目指す。小さな聖都のど真ん中に位置する神殿はいつも多くの出入りがあり、傷ついた者や病気の者が訪れて聖女の祝福を受けにやってくる。それゆえに信仰心で出来上がった町は、エステファニアが聖都を防衛するうえで最も強力な味方となった。
「あら、アンニッキ様。こちらから迎えにあがりましたのに」
「エステファニア? なんで外にいるんだい?」
「これから食事の準備をするのに買い出しを。たまに私が担当するんですよ」
「そりゃあ良いな。人気者なわけだ」
「ふふ、皆様のおかげで今の私がありますから。それより、来てくださったのでしたら食べていかれるのですよね。ご家族はどうなさったんですか?」
「レオは後から来るよ。カイラは疲れて、今は眠ってるから」
そういう事、とエステファニアがぽんと手を叩く。
「でしたら料理は用意しますから持って帰ってあげて下さい。せっかく来たのに振る舞えないのは心苦しいですし、聖都を気に入ってもらいたいので」
「アハハ。ありがとう、君も随分丸くなったものだねぇ」
帝国という脅威が失われてから、エステファニアの表情は柔らかくなった。脅威に晒されるどころか、アデルハイトが同盟締結に漕ぎつけた事もあって、聖都は以前よりも商人や観光客などがやってきて賑やかだ。以前ほど信仰心にばかり囚われた考え方も持たなくなり、往来はいつも違う景色を見ている気分になれた。
「全てお師匠様のおかげです。最初からあの方と共に手を取っていればと思うばかりです。しかも、今はピンピンしてますけど一度は死んでますからね。嫌な気分でしたよ。お師匠様がどんな気分だったのか、思い返してもゾッとします」
「反省してるなら良いんじゃないかな。本人も許してるしね」
帝国に捕らえられ、エステファニアは首を斬られて殺された。何度思い返しても気持ちが悪い。聖力や高い魔力を持つ相手に精神操作などの呪法は効かない。そのため動かすのであれば、死体にしてからが最も効率が良い。そうしてエステファニアの命は絶たれた。民の命を救う事を代価にして。
「確かに君は一度、アデルを殺したかもしれない。でも、それと同時に君は見ず知らずの他人であろうとも命を擲って助けられる人間だ。これからもそうであってくれたまえ。でなければ、アデルが君を救った意味が────」
突然、ゴゴゴゴゴ、と大きく大地が揺れ動く。何が起きたのか分からずパニックになる神殿前の広場でアンニッキとエステファニアは冷静に、ある一点を確かめるように視線を流す。聖都の遥か北の方角から途轍もない巨大な魔力の波動が広がり、同時に高速で何かが接近してくるのが分かった。
「エステファニア、今日ばかりは許してくれと神に祈ってくれたまえ!」
「えっ? あっ、はい!」
急いで神殿の屋根に上って北を見る。ジッと目を細めて感覚を鋭く────そして、見た。烈火の如き激しさを纏う何か。アンニッキはそれがまるで最高位魔法のメテオのように見えた。だが違う。あれは……生物だ。
「エステファニア、結界に聖力を! あれは並大抵の威力じゃない!」
「何か分かりませんが了解です! 私の力で防げるのであれば……!」
もう一度、アンニッキは飛んでくる物体に視線をやった。まだ来るまで時間はあると踏んだが、見誤った。それは突然、加速して聖都へ突っ込んできた。エステファニアが聖力を注ぐのに勘付いたのか、壁が強固になるより先に。
神殿がバラバラに吹き飛び、聖都全域へ瓦礫が雨のように降り注がれる。広場は爆弾が落ちたのかと思うほど無惨に地面を抉り取り、その中央に落下してきた物体は徐に立ちあがった。全身が白い鎧のように覆われた怪物。太く頑強な腕と足。鋭く尖った爪。分厚く筋肉質な尻尾。ふう、と息を吐けば口から僅かに火が噴かれる。龍だ。龍の魔族が、聖都へ飛んできた。
「なんだァ? ここは随分小せぇな……気のせいだったか?」
消し飛ばした広場には、逃げ惑う人々など形さえ残っていない。在るのはアンニッキとエステファニアの二人だけ。
「おう、生きてる奴がいたか。やるじゃねえか、ちょっと聞いてもいいか」
「なんだい、デカブツくん。私たちに聞く事なんてあるのか?」
「……ハ。デカい魔力の正体はてめえか! 聞くまでもなかったな!」
怪物は喜んで尻尾を大きく振りあげて地面が罅割れるほど強く叩きつけた。
「なぁるほど、この尋常じゃない覇気は魔将だな?」
「よく知ってるな、お互いに名乗ろうぜ。殺し合うのはそれからだ!」
アンニッキが帽子を掴んで位置を僅かに深くかぶり込む。
「アンニッキ・エテラヴオリ。神秘の魔女、そう呼ばれてる」
「俺はエースバルト! 龍皇エースバルト・イスクル!」
両手の関節をばきばきと鳴らしながら、エースバルトは歓喜に吼えた。
「さあ、殺し合おう! 怒りを忘れるほどに!」




