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賢者の瞳は朱色に輝く  作者: 智慧砂猫
第三章

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第32話「繋がった絆」

 王室近衛隊は、決して王族や貴族たちだけの味方ではない。ときには軍よりも遥かに人助けのために仕事をしている。というのも、それだけ地位の在る人々が安心して暮らせるからこそ、町に出る時間があるのだ。


 だから近衛隊には人の役に立つために志願する者が殆どだ。そのためか、近衛隊の中には魔法に達者で、特に治療魔法を覚える者が多かった。


 アーヴィングもそのひとりで、アラナが助からないと判断しても諦めきれなかった。「まだ助かるかもしれないのに」と呟いた声が、隣にいるアラナに聞こえないわけがない。大事な部下の声を捨て置けるほど大人ではなかった。


「いいだろう、アーヴィング。これはあまり使えないからいつものように────ヒース・ジネットを始末しろ。責任は私が取る」


 アラナが目を見開いた瞬間、目は黒く染まり、瞳が赤くなった。目が合ったヒースは瞬間的な恐怖からマルセラの首を折ろうとする。どうせ捕まるなら復讐してやるという理不尽な考えで。


 しかし、指先がぴくりとも動かない。体が石になったように。


「うっ……!? な、なんで動けな────」


 アーヴィングの剣が容赦なく突き出され、頭蓋をするりと貫通する。そのまま物言わぬ体になり、完全に意識を失った後で剣は引き抜かれた。


「よくやった、アーヴィング」


 ぐらりと視界が揺れてアラナは膝を突く。息は荒くなり、心臓が痛んだ。


「副隊長! ご無事ですか!? すみません、俺のわがままで……!」


「構うな。しばらくすれば収まるから、君は早くマルセラさんを看てやれ」


「わかりました。埋め合わせはまた今度させてください」


 ぐったりしたままのマルセラを抱き上げ、ベッドに寝かせる。鼓動は聞こえる。僅かだが息もしている。だが全身はあざだらけで骨は何カ所も折れ、生きているのが不思議なほどの状態だった。


「(これは重症、いや重篤と言うべきだ。内臓もかなりのダメージを受けている。駄目だ、俺程度の魔法では延命が関の山……それも三十分が限度だ)」


 最悪な状況で自分に腹が立った。人の命を救いたいがために近衛隊に入ったにも関わらず、好転に持っていけない。未熟。あまりに未熟。こんな大怪我を、死を目の前にした人間をどうやって救えばいいのか。


「甘えるんじゃない、アーヴィング。応急処置で十分だ、閣下には既に信号を送った。アデルハイト卿なら彼女を助けられる」


「……ええ、そう願います」


 マルセラの呼吸は荒く、苦しそうに冷や汗を掻いている。信号を送っても、学園からはそれなりに距離がある。そんなにすぐ到着できるか? とアーヴィングは胸中で不安に圧し潰されそうになった。


 だが、次の瞬間に部屋の中を青白い輝きと共に魔法陣が生成され、ポータルが道を開く。信号を送ってから約二分足らず、アデルハイトは先んじてシェリア、ユリシスと共に現場に駆けつけてくれたのだ。


「悪い、ポータルを開くのが遅れてしまった。状況はどうなってる?」


 心強い仲間の登場にアーヴィングはホッとしてアデルハイトに敬礼する。


「マルセラ・ジネットは暴行を受け、現在は我々では回復の見込みがないと応急処置を行って、アデルハイト卿をお待ちしておりました」


「ありがとう。お前のおかげでシェリアが泣かずに済む」


 アーヴィングの肩を叩いて、ベッドに横たわるマルセラの体に触れる。淡い光に包まれ、少しずつだが呼吸も落ち着いていく。


「こっちは問題ない。マルセラは私とシェリアに任せて、お前たちはヒースの死体を運び出せ。軍への連絡も忘れずに、ヨナスでも呼びだせばいい」


「わかりました。後は御願いします、アデルハイト卿」


 かつて自身の力が失われたときよりも、魔力の扱いは上手くなっている。治療魔法は魔力の制御こそが要となる技術だ。アンニッキに頼らずとも大怪我くらいは簡単に治せるほどに上達していた。


「お母さん、助かるよね、アデルハイト?」


「ああ、もちろん。呼吸も安定してきたし、汗も引いてる」


「そっか。良かった。……でも、何があったのかな」


「さあ、何があったのやら。マルセラが起きてから聞けばいい」


 治療が済んだら、シェリアが毛布を掛けようとして、ふとマルセラが手に握りしめて放そうとしなかったノートに気が付く。


「これ、お父さんのレシピノートだ。ずっと大事に持ってたんだ」


「随分と大切そうに。ヒースに奪われそうにでもなったのか」


「かもしれない。お母さん、忘れようとしたわけじゃなかったんだね」


 大切な思い出。最愛だった人の形見。シェリアが手に取ると、僅かに開いた隙間からするりと一枚の折りたたまれた紙が落ちた。


「なんだろ、これ。便箋みたいだけど」


「読んでみたらどうだ。誰かに宛てた手紙じゃないか?」


 徐に開いて誰に宛てたものかに目をやる。書いてあったのは、大切な娘の名前。母親から娘に宛てた手紙。シェリアは静かに続きに目を滑らす。


『可愛いシェリア、卒業おめでとう。本当は学園の入学祝いに渡してあげるつもりだったけれど、どうしても渡せない日々が続いてしまいました。これは貴女が大好きなパパのレシピノートです。軍に所属して大魔導師になるという夢が、どれほど大きなものかは分かりませんが、きっと貴女にとっては壮大なものなんでしょう。忙しくてもパパの味が思い出せるように、これを貴女に贈ります。お母さんより』


 愛していなかったわけじゃない。関心を示さないようにしたのは寂しかったから。出ていくとは分かっていても、捨てられるのが怖くて向き合えなかった。誰かの手に渡したくない、もう家族を失いたくないという気持ちがあったから。


 ヒースがいれば何か変わると思ったが、結局そうはならなかった。距離を開けたのは、もし出ていくと言い出してもシェリアが辛く感じないようにするためでもあった。それが伝わる事はなかったが、それでも娘は母親を愛してくれた。だからレシピノートだけは何があっても、他の誰かに渡す気はなかった。


 死守した大切な想いは、ようやくシェリアに届いたのだ。


「……お母さん」


 手紙を持つ手が震える。涙が目に滲む。


「あの、少しよろしいでしょうか」


 アラナが、何枚かの紙を手に持ってシェリアに差しだす。


「部屋に散乱していたものです。手紙のようですので拾ったのですが……」


 それぞれ手紙の差出人は違うが、全てが学園から届いたものだ。受け取ったものにひとつずつ目を通して、シェリアとアデルハイトは顔を見合わせた。


『初めまして、お母様。ご安心ください、娘さんは元気にしておられますよ。実に才能の溢れた娘さんです。私の任期は後僅かですが、最後までしっかりと指導に取り組むつもりです。ワイアット・フリーマン』


 入学したばかりの頃に届けられたワイアットからの手紙。


『いやはや、実に素晴らしい娘さんです。大魔導師どころか賢者くらいは目指せるかもしれませんよ。軍に入るという事で不安に思われるでしょうが、私も出来る限りサポートさせて頂きますのでよろしくお願いします。私の娘とも仲良くしてもらって、御礼を言わせてください。アンニッキ・エテラヴオリ』


 エンリケ襲撃より少し前の日付になっているアンニッキからの手紙。


『これより指導員として、お子様が卒業されるまで担当する事になりました。前任者から、ご家庭の事情は聞き及んでおります。お願いされました通り、立派な魔導師としての道を進めるよう全力で支えていきます。ルシル・フリーマン』


 まだまだ新しい、色褪せた痕跡ひとつないルシルからの手紙。ひとつひとつが、我が子を心配して元気に過ごしているのか。独りではないか。食事はきちんと摂っているのかなどマルセラの気持ちに答えたものだ。シェリアには内緒で、マルセラはこっそりと指導員に手紙を送っていた。娘をよろしくお願いします、と。


「愛されてるじゃないか、シェリア」


「……うん。そうだね、本当にそう。なんて謝ればいいかな」


「謝る必要なんかないさ。それよりは、そうだなぁ」


 俯いて涙をぼろぼろ零すシェリアの背中を擦りながら、アデルハイトは言った。


「ありがとう、って伝えてあげたらいいんじゃないかな」

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