第22話「最愛の人」
本心には逆らえなかった。許可証を奪うように受け取り、それから何度か視線をルシルと行き来させる。行っておいでと言われると遠慮なく駆けだした。
いつもはユリシスから会いに来る。どれだけ疲れていても、そんな素振りはちっとも見せない。だからたまには自分から行かなくてはならないとアデルハイトも高揚した気持ちで学園の外へ駆けていく。近くにあった送迎馬車に乗って行先を伝え、深呼吸をしてユリシスに会うための心の準備をする。
最初にどんな言葉を掛けようか。どんな表情を見せようか。髪は乱れてないかと手で梳いて、どきどきする気持ちに落ち着けと内心で何度も呟く。
「つきましたよ、お客さん」
「ああ、ありがとう」
銅貨を支払って馬車を降りたら、公爵家の門前で立っている警備兵に声を掛けた。まだ帰ってきていないかを尋ねると、兵士は快く門を開く。アデルハイトの事はすっかり知れていて、公爵邸で働く人々にとって『公爵様の最愛の人』という認識だ。これまで中々振り向いてもらえなかったのに、ついにうまくいったのだなと、特にメイドたちの間では人気のある話だった。
これまではユリシスに言い寄る者はいくらでもいたが、その誰も相手にしてこなかった。ただ一途にアデルハイトを愛し続け、しかし届かない想いを皆が成就する事を願っていたので、自分の事のように喜ぶ人々ばかりだ。
「お待ちしておりました、アデルハイト様」
「エリン。久しぶり、全然顔を出さなくて悪かった」
「いえいえ。学業に勤しんでおられましたから」
しばらく会わないうちにエリンは侍女長を任させるまでになっていた。自分の事情を知ってくれている事からも、アデルハイトも嬉しくなった。
「さあさあ、こちらです。殿下なら少し前に入浴も済まされて、お部屋で休まれているところです。しばらくしたら会いに行くご予定でしたので、きっとお喜びになられると思いますよ!」
「ありがとう。どうしても無性にその、会いたくなってしまって」
照れるアデルハイトを見て、エリンは愛らしい妹を見ている気分になる。
「ふふ、そうですか。色々と考え方を変えられたんですね」
「ん。……ああ、うん、そうだと思う」
自覚はある。まだまだ未熟だった、と。だから、今は違う。他の誰かには経験できない時間を過ごしながら、ひとつずつ、小さく積み上げて価値観は変わった。否定的なものが、肯定的なものとして受け入れられた。
「さ、こちらです。それでは私は仕事に戻りますので、どうぞごゆっくり」
小さい声でファイトですよと言い残してエリンは去っていった。ひとりになったアデルハイトは緊張の面持ちで胸をゆっくり撫でおろして大丈夫だと言い聞かせる。緊張などしなくてもいい、ユリシスなんだから、と。
「ユリシス、私だ。今日はこっちから来てやったんだ、入るぞ」
ここはあえて遠慮もしない方がいいだろうと思い切って開けた瞬間、ユリシスがベッドの上で、上半身裸のまま書類の束を読む姿が目に入った。
「ん? あぁ、アデルハイト! お前から来てくれるなんてこれは夢か?」
書類をベッドに放り出して笑顔で迎えにきたユリシスを手で押さえた。
「……ふ、服を着ろ。まずはそれが先だろ?」
「え。はは、そうだな。失礼、ちょっと待っててくれ」
クローゼットの中にある着替えを手にしながら、ユリシスがくすくす笑う。
「変わったなぁ、アデルハイトも。昔は俺が服着てないくらいじゃまったく動じなかったって言うのに」
「それはそれ、これはこれだろう!?」
顔を真っ赤にして吠える子犬のようなアデルハイトを、けらけら笑いながら愛おしくユリシスは見守った。
「にしても嬉しいよ。会いに来てくれるなんて。どうやって知ったんだ、俺が今日帰って来るって事。知り合いにでも聞いたのか」
「ああ、ルシルから。あいつ、近衛隊にも所属してたんだって?」
名前を聞いた途端にユリシスの表情がヒクついて苦々しくなる。
「ルシルさんね。俺の元上司だよ。一年くらいで辞めて、その後は軍の司令部で書類整理なんかを任されてたらしい。何年かして結婚されていらっしゃったから、恋人でもいたんじゃないかな。今はお子さんがいるんだろ」
「可愛い子だったよ。私の名前を取ってアデリアとつけたそうだ」
久しぶりに聞くとユリシスも懐かしくなる。腕の良いルシルは大魔導師の資格も既に持っていて、近衛隊でも教官として実践的な指導に拘った訓練方法を行うのが売りの優秀な人材だった。
新米にも容赦なく、大した仕事もないからとだらけていると厳しく指導が入った。たまにはいいじゃないかと進言して仲間を庇ったときには、二時間にわたってクドクドと説教を受けたのは、良くもあり悪くもある思い出だ。
「また何かお祝いの品を持っていかないとな」
「ああ、そうだな。何か贈り物を────」
ベッドに座って待っていると、ユリシスが突然アデルハイトを押し倒す。
「ところで。俺の部屋に来たってのはそういう意味で捉えても?」
一瞬、きょとんとしたもののアデルハイトは目を細める。
「らしくない冗談だな。お前、何かあったのか?」
「……やっぱりお前には誤魔化せないよな」
本当は帰らせるつもりだった。悟らせたくなかった。ただ、嬉しさの方が勝ってしまって、ユリシスは自分でもらしくないやり方だったと反省する。おもむろに身を引いて、アデルハイトの隣に座って手で顔を覆った。
「帝都の治安が急速に悪化しているそうだ。帝国軍で鎮圧に当たっているが、敗戦した事でこれまでの帝国に不満を抱えていた層が盛り上がっているらしい。それで聖都の前に難民が集まっているんだ」
「なぜそんなことに。ネヴァンはどうしたんだ、張り切ってたろ」
帝国の再建。同盟まで締結しておいて無責任に放り出すほどネヴァンは根の腐った人間ではない。アデルハイトはそう断言する。しかし、ユリシスも嘘は言っていない。間違いなく聖都には難民が押しかけていたのだ。
「理由は分からない。だが、ほんの少し前から国民の前にネヴァンも姿を現していないらしい。時期的にはちょうど学園の卒業式と入学式の後、二日後くらい。それまでは毎日、姿を現していたらしいんだが」
「良くない勘が働いたというわけか。……それで私を押し倒したのか?」
ユリシスの体がびくっと跳ねた。
「……動物的な本能かな。お前がいるとなんだか興奮が収まらなくて。もしかすると大きな事が起こるかもって思ったら、どうにも不安だったんだ。そうしたら会いに来てくれたお前があまりにも可愛かったんで、つい」
照れるユリシスを見て、なんとなく恥ずかしくなったアデルハイトは勢いで彼の型にそっと頭を乗せる。少しの沈黙の後、やっと口を開いた。
「その悪い勘、私も少し働いてるんだ。もしその気分が落ち着いたら、そのときはまた、お前の部屋に来てやるよ。それでいいかな」
「今はそれで満足するさ。じゃあ今日の所は────」
ぐいっとアデルハイトを抱きしめてベッドに倒れ込む。
「添い寝だけしてくれ。その方が疲れが取れる気がするんだ」
胸に顔を埋めるユリシスの頭を優しく抱きしめる。それから、そっと口づけをして、慈しむようにゆっくり撫でながら。
「……構わないとも。ゆっくりおやすみ、ユリシス」




