第二章─エピローグ─『昏き者たち③』
意外な頼みにリリオラが目を丸くした。
「ミトラって、ミトラ・ラランよね? なんで?」
「あの子も人間に興味があるんだよ。だからついでさ」
「うん、別にアタシは構わないわよ」
なんの疑いもなく頷くリリオラが愛しくて、頭を撫でた。
「そっか。じゃあ、しばらくはゆっくり待ってなさい。エースバルトの事も許してやってくれ。何か問題があれば僕から注意しておくから」
「ありがとう。じゃあ、またね。アタシはしばらく自分の城に帰る!」
全身が真っ黒に塗りつぶされると蝙蝠になって散った。気配が消えると、ローマンが横目にメルカルトを見て胡乱な印象を受ける。
「……信用ならんね、君。快く送り出すなど」
「心外だなァ、ローマン。あんたが頼み事なんて珍しいだろうと思って」
「そんな話ではない。人間が嫌いではないと嘘を吐いたろう」
笑顔がピタッと固まって、冷徹な眼差しがローマンへの敵意を向けた。
「僕の計画の邪魔するってんならあんたでも容赦しない。分かってるよな」
「邪魔など興味もない。だがミトラまで送るとなれば話は別だ」
「へえ、じゃあここで殺し合ってでも止めるってわけ────」
「私も行く。どうせ魔界にいても退屈だ、馬鹿共がはしゃがぬようにね」
ごほん、と咳払いして仄かに恥ずかしそうな表情で視線を逸らすので、メルカルトは想像もしていなかった反応が返って来たことに目が点になった。
「ん? 待って待って、もしかしてローマン……え、もしかして興味あったの。あ、そういえばなんか変な紙を拾ってからだっけ、その恰好」
「配慮のない言葉だ。私をなんだと思っているのかね。監督役でだよ」
あからさまにそわそわしているのを見て抑えようとしていた苦笑いが浮かんでしまう。ローマンは人間の文化に興味津々なのだ。年甲斐もなく。
「何百年生きてきてそれなのよ、お爺ちゃん。僕が壊すかもしれない世界の事なんて知ったって意味もないだろ?」
「どうかね。君も壊す気がなくなるかもしれない」
口髭を指先で撫でながら、ローマンが自信たっぷりに言った。
「魔界はただ喰らうばかりで殺す以外の娯楽がない。いい加減、他人の手足を捥いで地を這う様ばかり見るのに飽いたから君も動いたのだろう」
しばらくの沈黙。図星だ、とは言えなかった。ただいたずらに殺戮して、用が済んだら喰らって栄養にする。その繰り返し。どんな魔物でも、どんな魔族でもそれは変わらないから、少しくらいは新しい風が欲しくなった。
人間は嫌いだ、自分たちばかりが存在意義とばかりに偉ぶっているから。だが彼らの技術は魔族にはない。魔物には得られない。だから強引にでも手に入れたくなった。しかしただの破壊、ただの本能と変わらない。そんな事では手に入れるなど不可能だ。少しずつ、毒のように蝕んで最後に喰らわなくては。
「私は君の邪魔をするつもりなどないよ。実際、彼らにとって私の心象は最悪だろう。……いや、しかし、我らの本能には抗えぬものだな」
「うん? なんだい、たった少し向こうにいただけで何かあったのか?」
ローマンの脳裏に過ったのはアデルハイトの姿だ。これまで多くの魔族を葬ってきたが、それらを超えはしても、古くから魔界の一角を牛耳ってきた自分に僅かな時間とはいえ抵抗して生き残ってみせた人間など信じがたかった。
「なに、少々……面白いものを見つけただけだよ」
見てみたい。同胞ではなく、まったくの異種族が自分を乗り越えていく姿を。魔界でさえ誰もが恐怖する存在を人間が凌駕するのを。
「(アデルハイト……。あれほどの強者を誰かに奪われるなど許せん。もっと力を付けてもらわねば。奴も、奴の周りの存在も。そのためには私が直接出向かなくてはならない。でなければ向こう数百年の大損になってしまう)」
櫛で髪を梳き、決意に満ちる。メルカルトが気付いて肩を竦めた。
「君に止められるのかい、ロードの事」
「さあ、分からん。だが獲物を奪われるのは気に入らん、たとえロードでもな」
「だからって見張ってたらあんたから殺されちゃうかもよ」
明らかな忠告に対してもローマンは堂々としたものだった。
「どうかね。あれの考える事は我々には分からん。あるいは人間の味方になるという可能性もなきにしもあらず。生きるために戦う強者と生きるために戦う弱者……どちらがより多く魅力的に映るかね?」
「さあ。でもあの子が気に入るなら後者かな。だとしたら、それはそれで面白い。どっちに転ぶかは時が来たら分かるんだ、楽しみにしとくかな」
ぐぐっと伸びをして、もうそろそろお開きだとメルカルトは大きなあくびをして、寝室に戻ってぐっすり眠ってやろうと歩き出す。
「(実に面白いなあ。魔族も人間も、自分達の未来だのなんだのが大切でたまらないから殺し合う。つぶし合う。傍から見てる分にはこれほど楽しい事はない。存分にこれからも変わらずにいてくれ。最後に僕が握り潰してやるから)」
敵も、味方も。仲間意識などもない。メルカルトにとっては闘争など趣味のひとつに過ぎず、人間界に魔族を送り出すのもちょっとした遊興だ。人間界が滅びようが魔界が滅びようが、そのどちらでも損はない。最後に、ほんの僅かに残った希望を握り潰された瞬間の光景が、たまらなく待ち遠しかった。
だが、そんな意図にローマンはいち早く気付いている。長年の勘か、あるいは強い悪意に敏感なのか。いずれにせよ、去っていく背中の邪悪さを見て、放っておくのもあまり良くはないだろうとは思いつつも────。
「……メルカルト。君では勝てまいよ、私の見る目は確かだ。あの小娘は必ず君を乗り越える。精々それまでは楽しく過ごしているといい」




