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賢者の瞳は朱色に輝く  作者: 智慧砂猫
第二章

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第36話「ただひとつの選択」

 笑顔で手を振るシェリアに微笑んで返し、マチルダに向き直る。ずっと浮かない顔をして唇を噛む姿に、アデルハイトはやれやれと首を横に振った。


「兄にくらい相談すべきだったな、マチルダ。それでは連れて行けない」


「……したよ、相談。ちゃんとしたんだ」


 視線を逸らしているのが、上手く行かなかったと示している。


「喧嘩しちまった。お前が行くなら俺が、って。でも兄貴には仕事があるし、今辞めちまったらチビたちを食わせて行けないじゃんか」


「遺言を残せ。ここから先、お前が生きる保証はない」


 ハッキリとアデルハイトは言い放った。


「此処にいる全員は命を捨てる覚悟で戦場に臨む。国のため、民のために命を捨てる。それが軍人だ。だから、もし死んだときのために家族に遺言を残すんだ、絶対に」


 マチルダに投げ渡したのは小さな記録魔石だ。


「私たちは、大人は、お前たちを命懸けで守ろうとするだろう。だが戦場での不測の事態は回避のしようがない。お前を守る者たちが死に、戦場で背を向けたときに辿る末路はたったひとつだと思え」


 マチルダの顔色が悪くなる。恐怖心はまだ拭えていなかった。


「怖いよな。だがそれは臆病ではない。誰でも最初に感じるものだ。此処に集まってくれた者たちは全員が高い壁を経験してきた。シェリアでさえ一度は死に掛けた事がある。だから、此処で最後にもう一度だけ機会をやる。────帰れ、マチルダ。お前には養わなければならん家族が、帰る場所があるだろう?」


 帝都の総数は数万をゆうに超える数。対するアデルハイト率いる隊の人数、およそ二百に満たない少数。それを覆すだけの戦力はある。とはいえ、無傷ではいかない。帝国にも優れた魔法使いはいるし、およそ知見にない兵器を使う可能性もある。だからマチルダには、引き返す道を与えた。


 ポータルを一歩でも過ぎれば戦いに身を投じる。もう逃げる事の出来ない、取り返しのつかない場所へ自らの足で向かう事になるのだ。


「そりゃさ、色々考えたよ。死ぬのは怖いし、家族のためには死にたくない。此処に来るまでも何度引き返して兄貴に謝ろうかなって思ったか分かんない。……でも、軍人になったらこれも当たり前なんだろ?」


「ああ。聖都へ送られた中級魔導大隊は壊滅した。階級に差はない」


 どんなに階級の低い魔法使いでも、軍に所属した瞬間から死地へ送られる覚悟が必要だ。マチルダには平凡に暮らす選択肢もある。だが、それならば何故学園に入ったのか。ぎりぎりでヘルメス寮にも入れず、大きな結果も残せないまま卒業が迫っている。ありふれた職業なら奨学金の返還に追われるだろう。だが軍に所属すれば免除され、給金も目に見えて大きくなる。


 だがそもそも、喧嘩の理由はそこになかった。


『友達ひとり助けるだけなら、俺でもいいじゃないか!』


『無理だよ! 兄貴は魔法の勉強なんかしてこなかったろ!?』


『でもだからってお前が行く事ないだろ! チビたちの事も大事だけど、それ以上にお前だって俺の妹なんだぞ! たかが友達くらいで────!』


 ああ、そう。それが決め手だった。もしここで武勲を立てれば、貧しかった生活を抜けられる。チビたちも学園に通わせてやって、魔法を学ばせてやれるかもしれない。大事な大事な友達だって助けられる。


────カイラは、アタシにとってたったひとりの学園の友達だから。


「アタシさ。両親もいなくて、ガキ同士で支え合って生きてきたんだ。貧しい生活の中でも兄貴は『お前は魔法の才能があるから』って、自分が喰うメシ減らしてまで本を買ってくれた。おかげで推薦もらって学園に入れた。でも、でもさ。そこでみんなに馬鹿にされたんだ。貧乏人と関わったら貧しくなるって」


 実際、アデルハイトは目の当たりにした。貴族というだけで、貧民というだけで、その差を突いて周囲から孤立させようとする者たち。今も昔も、そしてこれからもさほど変わらないであろう現実。明るいマチルダも、そうやって孤独を味わってきた。学園で味方をしてくれるのは誰もいなかった。貴族の令嬢・令息の反感を買うのを恐れて誰も近寄ろうとしなかった。────ただひとり、カイラを除いて。


『やあやあ、元気がない顔だ。栄養ドリンクでも飲むかい? 実はお父さんに作ってもらったものが余っててねぇ。そうだ、暇なら昼食でもどうだろう』


 忘れてはいけないもの。失ってはいけないもの。大事な思い出。


「アタシ、行くよ。カイラを助けたい。そのためなら命を捨てたっていい。家族の事は、家族がなんとかする。これはアタシの人生、アタシの選んだ道だ」


「……そうか。なら何も言わないさ。だが遺言は残しておけよ。此処にいる全員、そうやってきた。一部を除いてだが」


 阿修羅たちだけは『そんなもの必要ない』と残さなかった。どうせ残したところで届ける者はいないだろうし、仮に届けたとしても島国ではいまだに部族同士の争いが起きる事がある。箍が外れれば勝手に滅亡するのだ。いずれにしても。


 マチルダは、そんなアデルハイトの困った様子にくすっとする。


「おう、そうする。こんな頼りない先輩でごめんな。……いや、今の場合だとアデルハイトがアタシの先輩になんのかな……。なんだか変な感じ」


「お前が先輩でいいよ。さあ、行こう。皆が待ってる」

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