序幕『裏切られた日』
寒く雪の降り積もる朝。誰も寄り付かない、通りかからない深い森の中にある家には、ひとりの魔法使いが住んでいる。あらゆる魔法を極めながら、世俗にまったく興味がない。魔法の研究が好きだった。発展が好きだった。誰かの役に立つ事も好きだ。ただ彼女は平凡ではなかった。
「……お前たちには、期待していたのに」
世界には四人の英雄がいた。彼らは魔界と呼ばれる場所からやってきた怪物たちを討ち倒すだけでなく、人間界と魔界を繋ぐ道を封印して閉ざす偉業を果たしてみせ、見事に平和をもたらした。畏敬の念を集めるには十分すぎる、ひとりずつが国を討てるだけの強さを持つ者たち。────その本性など誰も知らない。
彼らを育てあげた、彼女でさえも。
「優れた師を失うのは残念です、アデルハイト。貴女に教わった事は多い」
壁に寄りかかって瀕死の重傷を負っている女性の名はアデルハイト。英雄たちの師でありながら、その素性を世間に知られる事のない女性。王国軍の兵士として貯めた金で深い森に家を建て、都市の喧騒とは無縁に暮らしてきた。
英雄たちの師となったのは、それが世の中のためだと思ったからだ。彼女は単なる魔法使いではなく、極めて少数の『大賢者』と呼ばれる魔法使いの極みに至った人間だった。にも拘わらず四人の弟子たちに命を奪われる事になった。
「我が師よ、死ぬ前にお答えを。賢者の石の製造方法は?」
詰め寄ったのは大魔導師エンリケ。アデルハイトの下であらゆる魔法を学び、その力を使って英雄に至った者の一人。薄桃色の短い髪型と丸い眼鏡は優等生の雰囲気があったが、それとは真逆に彼はアデルハイトの腹に穴を開ける事をまったく躊躇しない黒い精神の持ち主だった。
「あなたが霊薬の材料として欠かせない賢者の石の製造法を頑なに秘匿するから、こうなったんですよ。でなければ僕たちも貴女を殺さなかった」
美しい金髪がべったりと血に染まった。腹にはぽっかり開いた穴。千切れた片腕。美しい青藍の瞳は片側が完全に潰れている。生きている事が不思議なくらいだったが、アデルハイトにはそれでもまだ息があった。
「ですが、まあ、いいでしょう。此処には何もない。旧工房の場所は知っているので、そちらを調べさせてもらいますよ」
「……見つかるといいな。あれは、お前たちには過ぎたものだ」
力なく見つめるアデルハイトが小馬鹿にして弱々しく笑う。
「エステファニア、とどめを刺してあげてもらえますか」
修道女、あるいは聖女とも呼べる優しい笑顔の女が、手に握ったモーニングスターで肩をとんとん叩きながら。
「残念ですわ、アデルハイト様。あなたをこの手で殺すのは避けたかったのですが、致し方ありません。────神のお導きがあらんことを」
もうアデルハイトは物言わぬ肉の塊になり、首から上が完全に潰れていた。四人の英雄たちは家を出る。ひとりを除いて、師の死を悼む事もなく。
「なあ、エンリケよ。賢者の石が手に入らんのでは俺たちの目的が果たせんぞ。本当に殺してしまって良かったのか」
「首だけ瓶詰にして生かしたって喋りませんよ、ジルベルト」
不満そうに尋ねられて、エンリケが不愉快そうに肩を竦めて返す。
「あの様子だと研究資料も既に破棄していると見ていいでしょう。ですが手掛かりは必ずあるはずです。彼女の資料を基に私が研究を進めます」
その穏やかそうな外見とは裏腹にエンリケは凶悪な笑みを浮かべる。
「必ず手に入れてみせようじゃありませんか、何年かかっても。それぞれの崇高な目的を叶えるための基盤。新たな未来のためにね」
手に持った杖を家に向かって振れば、先から巨大な火球が飛んで爆発を起こして焼き払う。ごうごう燃える家を背に褐色肌の少女が揺れる黒髪を手で抑えながら、少しだけ悲しそうな目を向けた。
「なにも焼き尽くす必要はなかったんじゃないの」
小柄な少女の頭をエステファニアが優しく撫でた。
「キャンディス、あなたは良い子ですね。でも証拠は徹底的に消しておかなければいけません。エンリケのような慎重さも大切なのです」
「……そう、かもね。ちょっと残念な気がするけど仕方ないな」
四人の英雄たちは背を向けて歩きだす。深い森の中で師を弔う言葉のひとつもなく。
────そしてそれが、後の大きな過ちとなった。