光の中で、輝いて
中二の、春。もうあと一ヶ月もしないうちに、三年生になる。そんな時期に、私はこの町に戻ってきた。
「彼」には申し訳ないと思っている。あんなにも私を想ってくれていたのに…そして、私も深く愛していたはずなのに、逃げるような形になってしまって。…でも、なぜだろう少しほっとしてもいる。…そうだ…「彼」のことは、もう忘れよう。またここで、新しい生活が始まるのだから。
引っ越しはもうほとんど終わった。二年前と同じ部屋に、同じように家具が並べられている。
今日は、あの娘に会いに行くつもりだ。二階下の部屋に住んでいる、同い年の少女。小三の頃からの幼馴染で、私に光を教えてくれた、あの娘――。
エレベーターで四階に降り、彼女が暮らす部屋の前までやって来る。引っ越して以来、連絡をとり合うこともほとんどなく、本当に久しぶりの再会だ。少し緊張しながら、インターホンを押す。…しばらく待ってみたが、応答がない。もう一度押す。やはり、誰も出ない。
留守だろうか、と思い自分の部屋に戻ろうとした、その時。
「おい、あんた。他人の家の前で何してやがる」
背後から、何だか懐かしい声がした。期待を胸に、振り返る。しかし、声をかけたであろう人物を見て、私は眉をひそめた。
確かに、あの娘の顔だ。だが、黒かった髪はまばゆい金色へと変わり、着ている服はところどころ破れている。身体のあちこちは、血で汚れているようだった。
「…か、りん…?」
「は?この私を呼び捨てにするとはいい度胸だな。あんた何様だよ」
「…私は、水波…。青井、水波…」
「ミズハ?……ああ、あの優等生のお嬢ちゃんか。今更何の用?」
「何の用って…。こっち、帰ってきたから…久しぶりに、花琳に会いたくて…」
「あっそ」
「……」
彼女は活発で口も悪い方だったと思うが、こんな風ではなかった。…意を決して、口を開く。
「ねえ、花琳。どうしたっていうの?一体何が…」
「うるせえ」
彼女はそう言うと、素早い動きで私を部屋のドアに押し付け、懐から取り出したナイフを私の首筋にあてる。
「…!」
「あんたにわざわざ説明してやる必要はないね。…とっとと失せな」
そして今度は片手で私を横に投げ飛ばし、部屋に入って勢いよくドアを閉める。鍵のかかる音が聞こえた。
「…か、りん…。ちょっと、待ってよ、花琳!」
尻餅をついた私は、起き上がっていないまま、花琳の部屋のドアに手を伸ばす。その手がドアノブに届く寸前で、また背後から声が聞こえた。
「ちょっとあんた、何やってんだい?こんなところで…恐ろしい…」
「……え?」
今度現れたのは、初老の婦人だった。私が引っ越している間に入居したのだろうか、見た覚えが無い。
「あ、あの…恐ろしいって、どういうことでしょうか…」
「あんた何だい、新入りさんかい?そこの部屋の娘の恐ろしさを知らないとは…。…この辺で暴れてる不良少女だよ。もう何人も被害に遭ってるから気を付けるんだよ」
その後も婦人は、花琳について自分の知っていることを次々と話した。ナイフ片手に喧嘩をしたり、万引きをしたり…。この部屋に戻ってくることは、稀なことらしい。
「…そん、な…。一体、どうしてこんな…」
「さあねえ。…何か、噂じゃご両親が亡くなってからああなったみたいに聞いたけど、どうなんだか」
「亡くなった?! 遥さんと創真さんが…?」
「…おや、あんた知り合いかい?そういやさっき、あの不良少女の名前を呼んでたような…。…って、おっといけない、晩ご飯の支度をしないと。まあ何にせよ、気を付けるんだよ!」
そう言い残し、婦人はせかせかと自分の部屋へと戻って行った。
…混乱、していた。花琳が付近の住民から恐れられるような存在になっていたこと、彼女の両親が亡くなっていたこと…。
彼女の父である創真さんは、私の父の会社の同僚だった。酒乱だと聞いたこともあるが、父とは仲がよく、私にも笑顔で接してくれた。彼女の母、遥さんはおっとりとした優しい人で、よく美味しい料理を振る舞ってくれたものだ。…その二人が、すでにこの世にいないだなんて…。
私は、花琳の部屋のドアを見つめる。…もう、あの娘、一人なんだ…。再びインターホンに手を伸ばそうとして、ふと止める。さっき、拒絶されたばかりではないか…。何かしてあげたいけど、でも先程の出来事が頭から離れなくて、しばらくその場に立ち尽くしていた。
――――――
彼女と再会してから、三日。彼女について、様々なことを聞いた。
「吸血鬼の女王」―他人に血を流させるも、己は決して傷つくことのない、最強の女。彼女は裏の世界で暮らしている少年少女達からそう呼ばれ、怖れられているようだった。先日あの婦人に聞いたことも真実らしい。学校にもまともに行っていないようだ。…両親が亡くなった頃あたりから。
あれから、毎日彼女の部屋の前を訪れている。しかし、留守なのか姿を現したくないのか――あの日以来、彼女と会うことはできていない。
ふと立ち止まって、顔についた浅い傷跡に触れてみる。彼女を探していろいろな場所に立ち入ってみたが、そこでは身も心も荒れてしまった様子の者達と出会うことがあるのだ。そんな時は、大抵簡単には帰れない。小学校を卒業して引っ越すまで花琳と共に拳法を習っていたため、多少は応戦できるも、まともに相手をすることはできない。それを、花琳は…。
手を離し、再び歩き始める。どうしても、あの娘に会いたい。そして…。
何やら争っているような声が聞こえてきた。もしかしたら、という思いから、声のする方へと駆けていく。
すると、路地裏を抜けて少し開けた場所で、数人の少年少女が暴れていた。花琳と同じように髪を派手に染めたり、凶器を握っている者もいる。会いたかった本人も、そこにいた。
「花琳!」
思わず叫ぶ。何人かがこちらを向いた。花琳も私の存在に気づいてくれたようだ。
「あんた、なんでこんなところにいるわけ?怪我したくなかったら大人しく帰りな!」
そう言いながらも、花琳は動きを止めない。華麗なる足技で容赦なく向かってくる者を倒し、ナイフで人を傷つけることも厭わない。…これが、今の花琳……。
数分もたたないうちに、半分以上の者が小さな呻き声をあげながらその場に横たわることとなった。グループ同士の争いだったのだろうか、今立っている者は皆花琳の味方のようだ。一息つき、花琳が私の方を向く。距離は、遠い。
「さて、と…。まだいるってことは、それなりの覚悟はできてるんだろうね」
「…私は、花琳に会いにきたの」
「あっそ。わざわざ私に恵みに来てくれたの。そいつはありがたい」
「違う…。あなたと、話がしたくて。…もう、やめて。昔のあなたに戻って」
「…説教ならうんざりだよ」
そう言って軽くため息をつく。
「…あんたに、一体何が分かるっていうの…」
ぼそりとそう言うと、きっと顔を上げ、私を睨みつけた。
「やれ」
彼女の低い声を合図に、立っていた者達が一斉に私に襲いかかってくる。それでも、逃げない。凶器を避け、拳をかわし、時には軽く相手をして、花琳の方へと足を進める。傷が増えても気にしない。
「花琳!」
服も髪もボロボロの状態で、花琳へと手を伸ばす。そして、ナイフを握った彼女の右手を、両手で包んだ。周りの者達は、動きを止める。
「もう…もうやめて!」
「自分から向かってきて何言ってやがる!」
「これ以上、自分を傷つけないで!!」
振り払われようとする手にさらに力を込め、彼女をまっすぐに見つめる。花琳は驚いた様子で私を見た。
「は…何言ってんの。私は最強の吸血鬼。自分を傷つけたりなんか」
「これ以上、自分の心を傷つけないで…!」
「…!」
花琳は動きを止めたまま、動揺しているようだ。体が少し、震えている。
「あんたに…あんたに何が分かるっていうのよ…!」
「花琳の気持ちなんて、私には分からない…。でも、あなたが優しい娘だっていうのは知ってる。…本当は、誰も傷つけたくないんでしょう?辛い気持ちを、どうしようもなくて、だからこんなことを…。でも、間違ってるって、あなたも気付いているでしょう?創真さんや遥さんが望んでいることは、こんなことじゃないって。…大丈夫よ、花琳の気持ちは二人には伝わっている。だからもう、こんなことしなくていい。あなたが優しい娘だって、私知ってるから」
私は微笑む。彼女の手から、ナイフが滑り落ちた。その時。
「危ない!」
花琳の後ろに倒れていた少年が、ナイフ片手に起き上がり、彼女を狙っているのが見えた。私は花琳を力強く引き、少年との間に入る。先が私の腕にほんの少しだけ掠り、血が流れた。
「…!」
「花琳、大丈夫?!」
振り返って尋ねる。しかし彼女は私には答えず、今度は彼女が私と少年の間に入った。
「水波!」
「…え?」
少年は私に狙いを変えたようだ。私目がけて力強く振り下ろされた刃は、しかし花琳の左腕に長い傷をつけた。彼女の腕から、血が滴り落ちている。
「…っ」
「花琳…」
花琳は自らの怪我を気にすることなく、私の腕を引いて走り出した。
「花琳さん?!」
「すまない!」
呆気にとられていた者達を残し、花琳は走り続ける。その先は、私達のマンションだった。階段で4階まで上がると、花琳は私と一緒に自分の部屋に入る。そこで、力の抜けたようにガクッと座り込んだ。
「花琳!怪我…」
「なんで…」
「え?」
「なんで、ここまで…」
花琳が俯きがちに尋ねる。私は近くにあった布で彼女の腕を止血しながら、静かに答えた。
「…花琳が、私を助けてくれたから。だから、今度は私があなたを助けたかった。それだけよ」
「…私が、あなたを助けた…?」
「そう。…小学校の2年まで、私ずっと一人だった。変に真面目で、誰ともうまく付き合えなくて。そんな時、あなたに出会った。あなたは私に、優しく接してくれた。笑顔を見せてくれた。私に…光を教えてくれた。その輝きを、守りたかったの」
「…水波…」
「それに、創真さんと遥さんがいい人だって、私知ってる」
「…!」
この三日、花琳の他に彼女の両親についてもいろいろと聞いた。不慮の交通事故のようだが、夫が悪酔いしたからだとか、妻が心中を図ったんだとか、様々な憶測が飛び交っていた。中には、あの酒乱がいなくなってくれてよかったなどと言う者もあった。
「…私、悔しかった…!父さんも母さんも、大好きなのに、変な風に言われて、でも、どうしたらいいか分からなくて、不安で、混乱して、気が付いたら、もう全部どうでもよくなってて、あんな…。だけど、だけど…!」
「うん…うん」
花琳はいつの間にか涙を流していた。私は優しく抱き締める。…やっぱり、この娘は優しい娘だ…。
あの日から、約2年。私の家が援助をしつつ、花琳はあの部屋で暮らしている。彼女はもう、無意味に人を傷つけたり、犯罪に手を染めるようなことはしなくなった。あの日の傷跡をうっすらと残し、髪は金色のままで、時々喧嘩はしているようだけど。…でも。
私が、あなたを守るわ。光の中で、輝いていて、ほしいから。