夏目漱石「それから」本文と評論16-1「三千代は微笑みと光輝(かゞやき)とに満ちてゐた」
◇本文
翌日眼が覚めても代助の耳の底には父の最後の言葉が鳴つてゐた。彼は前後の事情から、平生以上の重みを其内容に附着しなければならなかつた。少くとも、自分丈では、父から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟する必要があつた。代助の尤も恐るゝ時期は近づいた。父の機嫌を取り戻すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかつた。あらゆる結婚に反対しても、父を首肯かせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかつた。代助に取つては二つのうち何れも不可能であつた。人生に対する自家の哲学の根本に触れる問題に就いて、父を欺くのは猶更不可能であつた。代助は昨日の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を発展させながら、其因果の重みを脊中に負つて、高い絶壁の端迄押し出された様な心持であつた。
彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思つた。けれども彼の頭の中には職業と云ふ文字がある丈で、職業其物は体を具えて現れて来なかつた。彼は今日迄如何なる職業にも興味を有つてゐなかつた結果として、如何なる職業を想ひ浮かべて見ても、只(たゞ)其上を上滑りに滑つて行く丈で、中に踏み込んで内部から考へる事は到底出来なかつた。彼には世間が平たい複雑な色分の如くに見えた。さうして彼自身は何等の色を帯びてゐないとしか考へられなかつた。
凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まつた。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷ふ乞食の群の中に見出した。生活の堕落は精神の自由を殺す点に於て彼の尤も苦痛とする所であつた。彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢を塗り付けた後、自分の心の状態が如何に落魄するだらうと考へて、ぞつと身振ひをした。
此落魄のうちに、彼は三千代を引張り廻さなければならなかつた。三千代は精神的に云つて、既に平岡の所有ではなかつた。代助は死に至る迄彼女に対して責任を負ふ積であつた。けれども相当の地位を有つてゐる人の不実と、零落の極に達した人の親切とは、結果に於て大した差違はないと今更ながら思はれた。死ぬ迄三千代に対して責任を負ふと云ふのは、負ふ目的があるといふ迄で、負つた事実には決してなれなかつた。代助は惘然として黒内障に罹(かゝ)つた人の如くに自失した。
彼は又三千代を訪ねた。三千代は前日の如く静かに落ち着いてゐた。微笑みと光輝(かゞやき)とに満ちてゐた。春風はゆたかに彼女の眉を吹いた。代助は三千代が己を挙げて自分に信頼してゐる事を知つた。其証拠を又眼のあたりに見た時、彼は愛憐の情と気の毒の念に堪えなかつた。さうして自己を悪漢の如くに呵責した。思ふ事は全く云ひそびれて仕舞つた。帰るとき、
「又都合して宅へ来ませんか」と云つた。三千代はえゝと首肯いて微笑した。代助は身を切られる程 酷かつた。
代助は此間から三千代を訪問する毎に、不愉快ながら平岡の居ない時を択まなければならなかつた。始めはそれを左程にも思はなかつたが、近頃では不愉快と云ふよりも寧ろ、行き悪い度が日毎に強くなつて来た。其上留守の訪問が重なれば、下女に不審を起させる恐れがあつた。気の所為か、茶を運ぶ時にも、妙に疑ぐり深い眼付をして、見られる様でならなかつた。然し三千代は全く知らぬ顔をしてゐた。少くとも上部丈は平気であつた。
平岡との関係に就ては、無論詳しく尋ねる機会もなかつた。会に一言二言 夫れとなく問を掛けて見ても、三千代は寧ろ応じなかつた。たゞ代助の顔を見れば、見てゐる其間丈の嬉しさに溺れ尽くすのが自然の傾向であるかの如くに思はれた。前後を取り囲む黒い雲が、今にも逼つて来はしまいかと云ふ心配は、陰ではいざ知らず、代助の前には影さへ見せなかつた。三千代は元来神経質の女であつた。昨今の態度は、何うしても此女の手際ではないと思ふと、三千代の周囲の事情が、まだ夫程険悪に近づかない証拠になるよりも、自分の責任が一層重くなつたのだと解釈せざるを得なかつた。
「すこし又話したい事があるから来て下さい」と前よりは稍真面目に云つて代助は三千代と別れた。
(青空文庫より)
◇評論
「翌日眼が覚めても代助の耳の底には父の最後の言葉が鳴つてゐた」。「父の最後の言葉」とは、前話の、「己の方でも、もう御前の世話はせんから」。
従って、「父から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟」しなければならず、「尤も恐るゝ時期は近づいた」。
この後の語り手の説明が理解できない。賽は投げられたのだ。それなのに、「父の機嫌を取り戻すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかつた。あらゆる結婚に反対しても、父を首肯かせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかつた。代助に取つては二つのうち何れも不可能であつた」というケースを考慮する必要がどこにあるのだろうか。こんなことは考える必要が無いほどの決意のもとに、代助は縁談を断ったのではないのか。もし代助がこのようなケースを考えたのだとしたら、その決意はあまりにも弱いと言わざるを得ない。何をいまさらということ。「恐れる男」、「どっちつかずの男」の面目躍如。
これに続く、「人生に対する自家の哲学の根本に触れる問題に就いて、父を欺くのは猶更不可能であつた」というのも、何を気取っているのだとしか読めない。このような表現は、代助の三千代への愛が真実のものなのかを疑わせる。漱石の次元で述べると、横文字を出して高邁さを気取ったとしか取れない。
とにかく、代助には「人生に対する自家の哲学」があり、三千代への愛もそれに基づいていると言いたいのだろう。彼の美意識、人生観、世界観すべてを包含した人生哲学。また、それに叶った唯一の人が三千代ということになる。
しかし、これまでの三千代の描写・説明に、それに値する内容の表現は無いに等しい。だから読者は、代助が彼女に執心することに共感しずらいのだ。彼女の価値・素晴らしさが、この物語においてはあまり描かれない。代助が彼女にぞっこんであることだけが知られる。
「代助は昨日の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考へ得なかつた。けれども恐ろしかつた。自己が自己に自然な因果を発展させながら、其因果の重みを脊中に負つて、高い絶壁の端迄押し出された様な心持であつた」。彼はやはり「恐れる男」だ。またこの「自然」は、「当然そうなるべき」の意味。
代助の三千代への愛とこれからの人生を考えてみる。
「家」を隔絶し、人妻を奪おうとする代助は、それに伴う倫理的・道義的・法的戒めを受けなければならない。それにもかかわらず茨の道を進もうと決心したからには、何事にも耐え乗り越えようとする強い意志の表明がなされるのが普通だろう。愛する者を手に入れる喜びの反面には、辛い試練が待っていることはよくあることだ。それに対して代助は、愛する者を手に入れる喜びが、これからの働く人生に対する恐怖によって大きく減殺されてしまう。もしくは、恐怖が彼を圧倒しようとすらしている。
このように考えてくると、代助の三千代への愛に疑問を抱かざるを得なくなる。彼は真に三千代を愛しているのだろうか。様々な困難を愛によって乗り越えようと、本当に思っているのだろうか。
このズレが、読者はとても気になるところだ。
さらには、そんなに怖いのならば、三千代への愛は断念すべきだと言いたくなる。これでは三千代が幸せになるはずがない。頼りにならず、何かにおびえるように仕事に向かう夫を、妻が喜ぶはずがない。自分に非があるのではないかとまで思ってしまうかもしれない。
実際にこのふたりのその後のひっそりとした寂しい暮らしは、次作の『門』で描かれる。
「因果」という表現も気になる。男女の愛は、「因果」なのだろうか。もちろんここでは、昔代助が愛を隠して平岡に三千代を譲ってしまったことが原因となり、その結果、いまこの窮状にあることを表しているのだが。それにしてもそもそも男女が好感を持ちやがて愛し合うことを、「因果」と表現するのはいかがか。「愛」は、理由もなく生じるのではないか。「其因果の重みを脊中に負つて、高い絶壁の端迄押し出された様な心持であつた」彼が、三千代を幸せにできるとは、到底思えない。
だから代助は踏みとどまるべきだった。
実家の経済があてにならなくなった代助は、当然「第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思つた」。
しかしこの後の代助の思考がふがいない。「けれども彼の頭の中には職業と云ふ文字がある丈で、職業其」を具体的にイメージすることができない。「彼には世間が平たい複雑な色分の如くに見えた。さうして彼自身は何等の色を帯びてゐないとしか考へられなかつた」。平板で何の面白みも興味も感じられない「世間」。それは雑多な色彩で色分けられており、自分はそのどこにも属さない。「職業」において代助は「漂泊者」であり、「犬と人の境を迷ふ乞食」と同じだと自覚した。代助にとって「職業」は「生活の堕落」と同義であり、それは「精神の自由を殺す」「苦痛」だと考える。「職業」によって「自分の肉体に」は「あらゆる醜穢」が「塗り付け」られ、「心の状態」も「落魄する」「と考へて、ぞつと身振ひをした」。
美的身体・精神が崩壊してしまうことをこれほど恐れるのであれば、代助に残された道はもはや自死しかないだろうとさえ思われる。
「落魄」…もと持っていた栄位・職業や生計の手段を失い、する事も無く、ひっそりとしていること。おちぶれること。(三省堂「新明解国語辞典」)
代助の「落魄」には、三千代が伴う。三千代の「精神」は既に代助にあり、「代助は死に至る迄彼女に対して責任を負ふ積であつた」が、「相当の地位を有つてゐる人(=平岡)の不実と、零落の極に達した人(=代助)の親切とは、結果に於て大した差違はないと今更ながら思はれた」。
「惘然」…「ぼうぜん」。「呆然」と同じ。
「黒内障」…「こくないしょう」。黒内障は、一時的に片目が「見えなくなる」、「見えにくくなる」といった疾患です。基本的には、しばらくすると見えるようになり、早いと数秒から数分で回復します。このような状態は、目の病気ではなく、首の太い血管の狭窄が疑わしく、一過性黒内障とも呼ばれます。黒内障はこのように一時的な症状がほとんどなので、あまり気にすることはありませんが、症状が長引いたり、本当に見えなくなり始めたりするような場合は、他の眼の疾患が疑われるので注意が必要です。黒内障は、高血圧や糖尿病、高脂血症など生活習慣病などの原因で動脈硬化が進行してしまうことで症状が現れます。心臓と脳をつなぐ頸動脈が細くなることがあり、血圧の低下などの原因で脳への血流が減少したり、血の塊が脳のほうへ飛んでいき、目を栄養する血管の流れが悪くなると一時的に目が見えなくなり黒内障の症状が見られるようになります。(黒内障とは?白内障とは違う眼病を解説 | 日本白内障研究会 より)
「彼は又三千代を訪ねた。三千代は前日の如く静かに落ち着いてゐた」。彼女は既に覚悟を決めている。だから代助への「微笑みと」、愛の「光輝(かゞやき)とに満ちて」いるのだ。「春風はゆたかに彼女の眉を吹いた」とは、決心がついた人の晴れ晴れとした表情。「代助は」これらの様子から、「三千代が己を挙げて自分に信頼してゐる事を知つた」。
だから普通であれば愛に歓喜するはずなのだが、「其証拠を又眼のあたりに見た時、彼は愛憐の情と気の毒の念に堪えなかつた。さうして自己を悪漢の如くに呵責した」。彼は愛に没頭することができない。その一歩手前で、「職業」に邪魔される。これほど働くことを忌避する自分は彼女を幸せにできるのだろうかと思うと、三千代が「気の毒」になる。その意味では彼は、三千代を愛する資格がない。愛する人を幸せにはできないのだから。
「えゝと首肯いて微笑」する三千代。「身を切られる程 酷」い代助。
「元来神経質の女であつた」三千代の「昨今の態度は」、これまでとは全く異なっている。その様子を見て代助は、「自分の責任が一層重くなつたのだと解釈せざるを得なかつた」。
今なら代助はまだ、引き返すことができた。




