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夏目漱石「それから」本文と評論15-5「貴方の仰しやる所は一々御尤もだと思ひますが、私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなからうと思ひます」

◇本文

 けれども三千代と最後の会見を遂げた今更、父の意に叶ふ様な当座の孝行は代助には出来かねた。彼は元来が何方付(どつちつかず)の男であつた。誰の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、誰の意見にも(むき)に抵抗した試がなかつた。解釈のしやうでは、策士の態度とも取れ、優柔の生れ付きとも思はれる遣口(やりくち)であつた。彼自身さへ、此二つの非難の(いづ)れを聞いた時に、左様(さう)かも知れないと、腹の中で首を(ひね)らぬ訳には行かなかつた。然し其原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通の利く(ふた)つの眼が付いてゐて、双方を一時に見る便宜を有してゐたからであつた。かれは此能力の為に、今日迄一図に物に向つて突進する勇気を(くぢ)かれた。即かず離れず現状に立ち(すく)んでゐる事が屡(しば/\)あつた。此現状維持の外観が、思慮の欠乏から生ずるのでなくて、却つて明白な判断に本いて起ると云ふ事実は、彼が犯すべからざる敢為(かんい)の気象を以て、彼の信ずる所を断行した時に、彼自身にも始めて解つたのである。三千代の場合は、即ち其適例であつた。

 彼は三千代の前に告白した(おのれ)を、父の前で白紙にしやうとは(おも)ひ到らなかつた。同時に父に対しては、(しん)から気の毒であつた。平生の代助が此際に執るべき方針は云はずして明らかであつた。三千代との関係を撤回する不便なしに、父に満足を与へる為の結婚を承諾するに外ならなかつた。代助は()くして双方を調和する事が出来た。何方付(どつちつ)かずに真中へ立つて、煮え切らずに前進する事は容易であつた。けれども、今の彼は、不断(ふだん)の彼とは趣を異にしてゐた。再び半身を埒外に()きんでて、余人と握手するのは既に遅かつた。彼は三千代に対する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな(なみ)の如くに彼を支配した。彼は平生の自分から生れ変つた様に父の前に立つた。

 彼は平生の代助の如く、成る可く口数を利かずに控えてゐた。父から見れば何時もの代助と異なる所はなかつた。代助の方では却つて父の変つてゐるのに驚ろいた。実は此間から幾度も会見を謝絶されたのも、自分が父の意志に背く恐れがあるから父の方でわざと、延ばしたものと推してゐた。今日逢つたら、定めて苦い顔をされる事と覚悟を()めてゐた。ことによれば、頭から叱り飛ばされるかも知れないと思つた。代助には寧ろ其方が都合が好かつた。三分の一は、父の暴怒(ぼうど)に対する自己の反動を、心理的に利用して、判然(きつぱり)断らうと云ふ下心さへあつた。代助は父の様子、父の言葉遣ひ、父の主意、凡てが予期に反して、自分の決心を鈍らせる傾向に出たのを心苦しく思つた。けれども彼は此心苦しさにさへ打ち勝つべき決心を蓄へた。

「貴方の仰しやる所は一々御尤もだと思ひますが、私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなからうと思ひます」ととう/\云つて仕舞つた。其時父はたゞ代助の顔を見てゐた。良(やゝ)あつて、

「勇気が要るのかい」と手に持つてゐた烟管(きせる)を畳の上に放り出した。代助は膝頭を見詰めて黙つてゐた。

「当人が気に入らないのかい」と父が又聞いた。代助は猶返事をしなかつた。彼は今迄父に対して(おのれ)の四半分も打ち明けてはゐなかつた。その御蔭(おかげ)で父と平和の関係を漸く持続して来た。けれども三千代の事丈は始めから決して隠す気はなかつた。自分の頭の上に当然落ちかゝるべき結果を、策で()ける卑怯が面白くなかつたからである。彼はたゞ自白の期に達してゐないと考へた。従つて三千代の名は丸で口へは出さなかつた。父は最後に、

「ぢや何でも御前の勝手にするさ」と云つて苦い顔をした。

 代助も不愉快であつた。然し仕方がないから、礼をして父の前を退()がらうとした。ときに父は呼び()めて、

(おれ)の方でも、もう御前の世話はせんから」と云つた。座敷へ帰つた時、梅子は待ち構へた様に、

()うなすつて」と聞いた。代助は答へ様もなかつた。 (青空文庫より)


◇評論

 今話の前半部は、代助が父の申し出を完全に断るに至る考えが述べられているのだが、やや饒舌で、理由付けがうまくいっていない。


「彼は元来が何方付(どつちつかず)の男であつた」。「策士の態度とも取れ、優柔の生れ付きとも思はれる遣口(やりくち)であつた」。「然し其原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通の利く(ふた)つの眼が付いてゐて、双方を一時に見る便宜を有してゐたからであつた」。彼の「此現状維持の外観」は、「思慮の欠乏から生ずるのでなくて、却つて明白な判断に本いて起」っていた。「三千代の場合は、即ち其適例であつた」。

代助はなぜどっちつかずだったかというと、物事を多面的にとらえる能力を有していたからであり、そこには「明白な判断」があった。と言いたいようだ。しかし、「明白な判断」があるのであれば、それに基づいた行動も可能なのではないか。「策士」とも、「優柔」ともとられる態度は、「判断」による行動が伴わない故ではないか。そこに代助の矛盾を感じる。

彼の過去の「どっちつかず」の態度が、現在の不幸をもたらしている。三千代も、代助自身も、平岡も、不幸にしている元が、代助の「どっちつかず」の態度だ。それを、「融通の利く(ふた)つの眼が付いてゐて、双方を一時に見る便宜を有してゐた」と誇られても、何言ってんのとしか反応できない。この代助の論理を素直にとればとるほど、自己矛盾に陥った彼の自己満足に付き合わされている気分になる。語り手の説明は、論理が破綻している。


とにかく「彼は平生の自分から生れ変つた様に父の前に立つた」。

「彼は平生の代助の如く、成る可く口数を利かずに控えてゐた」が、「父の変つてゐるのに驚ろいた」。

「父の暴怒(ぼうど)に対する自己の反動を、心理的に利用して、判然(きつぱり)断らうと云ふ下心さへあつた」。代助は、他者の作用により、それを利用してはじめて行動することができる男なのだ。ここにも他力本願な様子が見られる。

「決心を蓄へ」た彼は、「「貴方の仰しやる所は一々御尤もだと思ひますが、私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなからうと思ひます」ととう/\云つて仕舞つた」。

父は「「勇気が要るのかい」と手に持つてゐた烟管(きせる)を畳の上に放り出した」。父の明らかな怒りの発露。

代助は膝頭を見詰めて黙つてゐた。

「彼は今迄父に対して(おのれ)の四半分も打ち明けてはゐなかつた。その御蔭(おかげ)で父と平和の関係を漸く持続して来た」。ふたりのディスコミュニケーションの様子と、それによる偽物の平和。

父は宣告する。「ぢや何でも御前の勝手にするさ」。「(おれ)の方でも、もう御前の世話はせんから」と。


座敷へ帰った代助は、嫂の、「()うなすつて」という問いに「答へ様もなかつた」。


ここで父と代助は、最後の宣告をそれぞれ行った。

代助は、「私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなからうと思ひます」。

父は、「もう御前の世話はせんから」。


父が言うとおり、「勇気がない」という断り方は意味が不明で曖昧だし卑怯だ。この、素直でない言い方に、父の怒りはさらに募っただろう。だから父は縁を切るに近い表現で代助に告げたのだ。お前を見捨てるということ。

父にしてみれば、30歳まで何不自由なく生活の面倒を見てあげてきた次男が、これまでの恩を忘れ、全く家の役に立たない存在になったことを忌々しく思う気持ちがある。サポート解除の申し出は至極当然だろう。


今回の結婚話が無かったとしても、そもそも30歳の代助は、経済的にも自立しているべきだった。彼が高等遊民でいられたのは、全くの他力による。いつまでも甘えん坊の次男坊でいられては、父も兄も困るのだ。今回はそれに結婚話がのっかっただけであり、代助には生命の危機にも感じられるのだろうが、普通に働けということだ。何をそれほど恐れるのか、ということだ。「家」の救済の道具に使われようとする代助には確かに気の毒な面があるが、普通に考えれば上記のとおりだろう。


それにしても、「私には結婚を承諾する程の勇気がありませんから、断るより外に仕方がなからうと思ひます」という言い方はどうかと思う。「勇気」が無いから「断る」だけでなく、その後に、「より外に仕方がない」、さらに、「かろう」という推定表現がつづくという、二重三重の曖昧さ。これは、老いた父親への気遣いとも取れるが、ここは決然と断るべき場面だ。さらには、前に嫂にも言ったとおり、「家の事情も分かりお父さんには申し訳ないが、私には好いた女がいるのでこの縁談は断ります」となぜ言えないのか。このどっちつかずでぐずぐずした物言いに対して怒りを抱く人もいるだろう。

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