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夏目漱石「それから」本文と評論15-2「何でそんなに、そわ/\して居らつしやるの」

◇本文

 帰る途中も不愉快で(たま)らなかつた。此間三千代に逢つて以後、味はう事を知つた心の平和を、父や嫂の態度で幾分か破壊されたと云ふ心持が路々(みち/\)募つた。自分は自分の思ふ通りを父に告つげる、父は父の考へを遠慮なく自分に洩らす、それで衝突する、衝突の結果はどうあらうとも潔よく自分で受ける。是が代助の予期であつた。父の仕打ちは彼の予期以外に面白くないものであつた。其仕打は父の人格を反射する丈夫丈多く代助を不愉快にした。

 代助は(みち)すがら、何を苦しんで、父との会見を左迄に急いだものかと思ひ出した。元来が父の要求に対する自分の返事に過ぎないのだから、便宜は寧ろ、是を待ち受ける父の方にあるべき筈であつた。其父がわざとらしく自分を避ける様にして、面会を延ばすならば、それは自己の問題を解決する時間が遅くなると云ふ不結果を生ずる外に何も起り様がない。代助は自分の未来に関する主要な部分は、もう既に片付けて仕舞つた積りでゐた。彼は父から時日を指定して呼び出される迄は、宅の方の所置を其儘にして放つて置く事に極めた。

 彼は家に帰つた。父に対しては只薄暗い不愉快の影が頭に残つてゐた。けれども此影は近き未来に於て必ず其暗さを増してくるべき性質のものであつた。其他には眼前に運命の二つの潮流を認めた。一つは三千代と自分が是から流れて行くべき方向を示してゐた。一つは平岡と自分を是非共一所に()き込むべき凄まじいものであつた。代助は此間三千代に逢つたなりで、片片(かたかた)の方は捨てゝある。よし(これ)から三千代の顔を見るにした所で、――また長い間見ずにゐる気はなかつたが、――二人の向後取るべき方針に就て云へば、当分は一歩も現在状態より踏み出す了見は持たなかつた。此点に関して、代助は我ながら明瞭な計画を(こしら)えてゐなかつた。平岡と自分とを運び去るべき将来に就ても、彼はたゞ何時(いつ)、何事にでも用意ありと云ふ丈であつた。無論彼は()を見て、積極的に働らき掛ける心組はあつた。けれども具体的な案は一つも準備しなかつた。あらゆる場合に於て、彼の決して仕損じまいと誓つたのは、凡てを平岡に打ち明けると云ふ事であつた。従つて平岡と自分とで構成すべき運命の流は黒く恐ろしいものであつた。一つの心配は此恐ろしい暴風(あらし)の中から、如何にして三千代を救ひ得べきかの問題であつた。

 最後に彼の周囲を人間のあらん限り包む社会に対しては、彼は何の考も纏めなかつた。事実として、社会は制裁の権を有してゐた。けれども動機行為の権は全く自己の天分から湧いて出るより外に道はないと信じた。かれは此点に於て、社会と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する気であつた。

 代助は彼の小さな世界の中心に立つて、彼の世界を斯様に観て、一順其関係比例を頭の中で調べた上、

()からう」と云つて、又家を出た。さうして一二丁歩いて、乗り付けの帳場迄来て、奇麗で早さうな奴を択んで飛び乗つた。何処へ行く当てもないのを好加減な町を名指して二時間程ぐる/\乗り廻して帰つた。

 翌日も書斎の中で前日同様、自分の世界の中心に立つて、左右前後を一応隈なく見渡した後、

()ろしい」と云つて外へ出て、用もない所を今度は足に任せてぶら/\ 歩いて帰つた。

 三日目にも同じ事を繰り返した。が、今度は表へ出るや否や、すぐ江戸川を渡つて、三千代の所へ来た。三千代は二人の間に何事も起こらなかつたかの様に、

「何故 ()れから入らつしやらなかつたの」と聞いた。代助は寧ろ其落ち付き払つた態度に驚ろかされた。三千代はわざと平岡の机の前に据ゑてあつた蒲団を代助の前へ押し()つて、

「何でそんなに、そわ/\して居らつしやるの」と無理に其上に坐らした。

 一時間ばかり話してゐるうちに、代助の頭は次第に穏やかになつた。車へ乗つて、当てもなく乗り回すより、三十分でも好いから、早く此所(こゝ)へ遊びに来れば()かつたと思ひ出した。帰るとき代助は、

「又来ます。大丈夫だから安心して()らつしやい」と三千代を慰める様に云つた。三千代はたゞ微笑した丈であつた。 (青空文庫より)


◇評論

代助は考える。

三千代と自分の関係は決定した。

それを平岡に告げることを考えると、自分と平岡の「運命の流は黒く恐ろしいもの」であることが心配で、もう「一つの心配は此恐ろしい暴風(あらし)の中から、如何にして三千代を救ひ得べきかの問題であつた」。


「社会は制裁の権を有して」いる。しかし「動機行為の権は全く自己の天分から湧いて出るより外に道はないと信じた」。自分と三千代が愛し合うことに、「社会」は何の影響力も持たないということ。「かれは此点に於て、社会と自分との間には全く交渉のないものと認めて進行する気であつた」。


その後代助は、「何処へ行く当てもないのを好加減な町を名指して二時間程ぐる/\乗り廻して帰つた」り、「翌日も」「用もない所を今度は足に任せてぶら/\ 歩いて帰つた」りする。「三日目」には「すぐ江戸川を渡つて、三千代の所へ来た」。

「三千代は」以前「二人の間に何事も起こらなかつたかの様に、「何故 ()れから入らつしやらなかつたの」と聞いた」。代助はこの「落ち付き払つた態度に驚ろかされた」。

「三千代はわざと平岡の机の前に据ゑてあつた蒲団を代助の前へ押し()つて、「何でそんなに、そわ/\して居らつしやるの」と無理に其上に坐らした」。「今はあなたが主人です」と、彼女は言いたいのだ。

「一時間ばかり話してゐるうちに」、三千代によって「代助の頭は次第に穏やかになつた」。

「代助は、「又来ます。大丈夫だから安心して()らつしやい」と三千代を慰める様に云つた。三千代はたゞ微笑した丈であつた」。「そわ/\」している代助が、「大丈夫だから安心して()らつしやい」と自分を慰めるセリフを吐いたので、三千代はちょっとおかしかったのだ。しかし彼女はそれを明らかに表情に出すことは控え、代助に「微笑」で返したのだ。


今話から、三千代の覚悟が完全に決まった様子が読み取れる。彼女は代助を「主人」と考えている。これに対し代助はやはりまだ「そわそわ」している。恐れる男と心を決めた女。

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