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夏目漱石「それから」本文と評論15-1「彼は一日も早く父に逢つて話をしたかつた」

◇本文

 三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は、逢はない前に比べると、余程心の平和に接近し易くなつた。然し是は彼の予期する通りに行つた迄で、別に意外の結果と云ふ程のものではなかつた。

 会見の翌日彼は永らく手に持つてゐた(さい)を思ひ切つて投げた人の決心を以て起きた。彼は自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になつたと自覚した。しかも夫れは(みづか)ら進んで求めた責任に違いなかつた。従つて、それを自分の脊に負ふて、苦しいとは思へなかつた。その重みに押されるがため、却つて自然と足が前に出る様な気がした。彼は自ら切り開いた此運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整へた。父の後には兄がゐた、嫂がゐた。是等と戦つた後には平岡がゐた。是等を切り抜けても大きな社会があつた。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会があつた。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした。

 彼は自分で自分の勇気と胆力に驚ろいた。彼は今日迄、熱烈を厭ふ、危きに近寄り得ぬ、勝負事を好まぬ、用心深い、太平の好紳士と自分を見傚してゐた。徳義上重大な意味の卑怯はまだ犯した事がないけれども、臆病と云ふ自覚はどうしても彼の心から取り去る事が出来なかつた。

 彼は通俗なある外国雑誌の購読者であつた。其中のある号で、Mountainマウンテン Accidentsアクシデンツ と題する一篇に()つて、かつて心を(おどろか)した。夫れには高山を()(のぼ)る冒険者の、怪我過ちが沢山に並べてあつた。登山の途中雪崩(ゆきなだれ)()されて、行き方知れずになつたものゝ骨が、四十年後に氷河の先へ引懸つて出た話や、四人の冒険者が懸崖の半腹にある、真直に立つた大きな平岩を越すとき、肩から肩の上へ猿の様に重なり合つて、最上の一人の手が岩の鼻へ掛かるや否や、岩が崩れて、腰の縄が切れて、上の三人が折り重なつて、真逆様に四番目の男の傍を遥かの下に落ちて行つた話などが、幾何(いくつ)となく載せてあつた間に、錬瓦の壁程急な山腹に、蝙蝠(かうもり)の様に吸ひ付いた人間を二三ヶ所点綴した挿画(さしゑ)があつた。其時代助は其絶壁の横にある白い空間のあなたに、広い空や、遥かの谷を想像して、怖しさから来る眩暈(めまひ)を、頭の中に再現せずには居られなかつた。

 代助は今道徳界に於て、是等の登攀者と同一な地位に立つてゐると云ふ事を知つた。けれども(みづか)ら其場に臨んで見ると、(ひる)む気は少しもなかつた。怯んで猶予する方が彼に取つては幾倍の苦痛であつた。

 彼は一日も早く父に逢つて話をしたかつた。万一の差支を恐れて、三千代が来た翌日、又電話を掛けて都合を聞き合せた。父は留守だと云ふ返事を得た。次の日又問ひ合せたら、今度は差支があると云つて断られた。其次には此方(こちら)から知らせる迄は来るに及ばんといふ挨拶であつた。代助は命令通り控えてゐた。其間嫂からも兄からも便りは一向なかつた。代助は始めは家のものが、自分に出来る丈長い、反省再考の時間を与へる為の策略ではあるまいかと推察して、平気に構へてゐた。三度の食事も旨く食つた。夜も比較的安らかな夢を見た。雨の晴間には門野を連れて散歩を一二度した。然し宅からは使ひも手紙も来なかつた。代助は絶壁の途中で休息する時間の長過ぎるのに(やす)からずなつた。仕舞に思ひ切つて、自分の方から青山へ出掛けて行つた。兄は例の如く留守であつた。嫂は代助を見て気の毒さうな顔をした。が、例の事件に就ては何にも語らなかつた。代助の来意を聞いて、では私が一寸と奥へ行つて御父の御都合を伺つて来ませうと云つて立つた。梅子の態度は、父の怒りから代助を(かば)う様にも見えた。又彼を疎外する様にも取れた。代助は両方の(いづ)れだらうかと(わづら)つて待つてゐた。待ちながらも、()うせ覚悟の前だと何遍も口のうちで繰り返した。

 奥から梅子が出て来る迄には、大分暇が掛かつた。代助を見て、又気の毒さうに、今日は御都合が悪いさうですよと云つた。代助は仕方なしに、何時(いつ)来たら()からうかと尋ねた。固より例の様な元気はなく悄然とした問ひ振りであつた。梅子は代助の様子に同情の念を起した調子で、二三日中に屹度自分が責任を以て都合の好い時日を知らせるから今日は帰れと云つた。代助が内玄関を出る時、梅子はわざと送つて来て、

「今度こそ能く考へて入らつしやいよ」と注意した。代助は返事もせずに門を出た。 (青空文庫より)


◇評論

「三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は、逢はない前に比べると、余程心の平和に接近し易くなつた」。

ここまで代助は、例えば次のような言葉を三千代にかけた。

・「僕の存在には貴方が必要だ。何うしても必要だ」14-10

・「僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出来なくなつた」14-11

この他にもさまざまな言葉が述べられたが、それに対する三千代の、「仕様がない。覚悟を極めませう」という一言は、あまりにも重い。彼女はたったこの一言で、代助への愛と、自分の覚悟を表現している。彼女の覚悟の強さと重さは、代助をはるかに超えている。だから代助は、「脊中から水を被つた様に顫へた」14-11のだった。


「三千代に逢つて、云ふべき事を云つて仕舞つた代助は」、「心の平和に接近し易くなつた」。「永らく手に持つてゐた(さい)を思ひ切つて投げた人の決心」を彼は抱く。そうして、「自分と三千代の運命に対して、昨日から一種の責任を帯びねば済まぬ身になつたと自覚した」。「夫れは(みづか)ら進んで求めた責任」であり、「従つて、それを自分の脊に負ふて、苦しいとは思へなかつた」だけでなく、「その重みに押されるがため、却つて自然と足が前に出る様な気がした」。「自ら切り開いた此運命の断片を頭に乗せて、父と決戦すべき準備を整へた」。その後には、兄、嫂、平岡、「個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な」「暗黒」「社会」が控えている。「代助は凡てと戦ふ覚悟をした」。

「決心」や「責任」の「自覚」により背中を押され、外界のすべてのものとの「決戦」の時を迎えようとする。


「自分の勇気と胆力に驚ろ」く代助。なぜなら「彼は今日迄、熱烈を厭ふ、危きに近寄り得ぬ、勝負事を好まぬ、用心深い、太平の好紳士と自分を見傚してゐた」からだ。「臆病と云ふ自覚はどうしても彼の心から取り去る事が出来なかつた」。自分の「勇気と胆力」に驚くとともに、やはり「臆病」という自覚も拭い去れない。この時の代助の心の状態は、このように平衡感覚を失ったようだった。


「道徳界」における自分を、「登攀者と同一な地位に立つてゐる」と自覚する。

「通俗なある外国雑誌」「のある号で、Mountainマウンテン Accidentsアクシデンツ と題する一篇」「には高山を()(のぼ)る冒険者の、怪我過ちが沢山に並べてあつた」。「登山の途中雪崩(ゆきなだれ)()されて、行き方知れずになつたものゝ骨が、四十年後に氷河の先へ引懸つて出た話」。「四人の冒険者が懸崖の半腹にある、真直に立つた大きな平岩を越すとき」、「上の三人が折り重なつて、真逆様に四番目の男の傍を遥かの下に落ちて行つた話」には、「錬瓦の壁程急な山腹に、蝙蝠(かうもり)の様に吸ひ付いた人間を二三ヶ所点綴した挿画(さしゑ)」があった。これらは代助と三千代の暗い未来を予兆しているだろう。「其時代助は」「怖しさから来る眩暈(めまひ)を、頭の中に再現せずには居られなかつた」。「臆病」・「怖しさ」を感じ、「眩暈(めまひ)」の中にいる代助。

しかし今の彼は、「(ひる)む気は少しもなかつた」。「怯んで猶予する方が彼に取つては幾倍の苦痛であつた」からだ。


従って、「一日も早く父に逢つて話をしたかつた」のだが、それはなかなか叶わない。「代助は始めは家のものが、自分に出来る丈長い、反省再考の時間を与へる為の策略ではあるまいかと推察」した。この時彼は「平気に構へて」おり、「三度の食事も旨く食」い、「夜も比較的安らかな夢を見た」。「仕舞に思ひ切つて、自分の方から青山へ出掛けて行つた」が、父との面会はかなわない。「代助の来意」を伝えに父の部屋に向かう「梅子の態度は、父の怒りから代助を(かば)う様にも見えた。又彼を疎外する様にも取れた。代助は両方の(いづ)れだらうかと(わづら)つて待つてゐた。待ちながらも、()うせ覚悟の前だと何遍も口のうちで繰り返した」。ここには代助の怖れが表れる。

 それでもやはり父には会えず、「何時(いつ)来たら()からうか」と「悄然」と尋ねる「代助の様子に同情の念を起した」嫂は、「二三日中に屹度自分が責任を以て都合の好い時日を知らせるから今日は帰れと云つた」。代助を見送る嫂は、「今度こそ能く考へて入らつしやいよ」と注意する。しかし「代助は返事もせずに門を出た」。

 結婚話を断る勇気を得て、早く父に伝えたいと考える代助だったが、なかなか会うことができない。待たされるほど不快が募る彼だった。

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