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夏目漱石「それから」本文と評論14-11「仕様がない。覚悟を極めませう」

◇本文

 三千代は涙の中で始めて笑つた。けれども一言も口へは出さなかつた。代助は猶己れを語る隙を得た。――

「僕は今更こんな事を貴方に云ふのは、残酷だと承知してゐます。それが貴方に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない。其上僕はこんな残酷な事を打ち明けなければ、もう生きてゐる事が出来なくなつた。つまり我儘(わがまゝ)です。だから(あやま)るんです」

「残酷では御座いません。だから詫るのはもう()して頂戴」

 三千代の調子は、此時急に判然(はつきり)した。沈んではゐたが、前に比べると非常に落ち着いた。然ししばらくしてから、又

「たゞ、もう少し早く云つて下さると」と云ひ掛けて涙ぐんだ。代助は其時斯う聞いた。――

「ぢや僕が生涯黙つてゐた方が、貴方には幸福だつたんですか」

左様(さう)ぢやないのよ」と三千代は力を籠めて打ち消した。「私だつて、貴方が左様(さう)云つて下さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」

 今度は代助の方が微笑した。

「夫れぢや構はないでせう」

「構はないより難有いわ。たゞ――」

「たゞ平岡に済まないと云ふんでせう」

 三千代は不安らしく首肯(うなづ)いた。代助は斯う聞いた。――

「三千代さん、正直に云つて御覧。貴方は平岡を愛してゐるんですか」

 三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼も口も固くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。

「では、平岡は貴方を愛してゐるんですか」

 三千代は矢張り俯向(うつむ)いてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問の上に与へやうとして、既に其言葉が口迄出掛かつた時、三千代は不意に顔を上げた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙さへ大抵は乾いた。頬の色は固より蒼かつたが、唇は(しか)として、動く気色はなかつた。其間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字づゝ出た。

「仕様がない。覚悟を()めませう」

 代助は脊中から水を被つた様に(ふる)へた。社会から逐ひ放たるべき二人の魂は、たゞ二人 (むか)ひ合つて、(たがひ)を穴の()く程眺めてゐた。さうして、凡てに逆らつて、互ひを一所に持ち(きた)した力を互ひと怖れ(おのの)いた。

 しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた様に、手を顔に当てて泣き出した。代助は三千代の泣く様を見るに忍びなかつた。(ひぢ)を突いて額を五指(ごし)の裏に隠した。二人は此態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、(じつ)としてゐた。

 二人は斯う凝としてゐる(うち)に、五十年を()のあたりに縮めた程の精神の緊張を感じた。さうして其の緊張と共に、二人が相並んで存在して居ると云ふ自覚を失はなかつた。彼等は愛の刑と愛の(たまもの)とを同時に()けて、同時に双方を切実に味はつた。

 しばらくして、三千代は手帛(ハンケチ)を取つて、涙を奇麗に拭いたが、静かに、

「私もう帰つてよ」と云つた。代助は、

「御帰りなさい」と答へた。

 雨は小降りになつたが、代助は固より三千代を独り返す気はなかつた。わざと車を雇はずに、自分で送つて出た。平岡の家迄附いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立つて、三千代が横町を曲る迄見送つてゐた。夫れから(ゆつく)り歩を(めぐ)らしながら、腹の中で、

「万事終る」と宣告した。

 雨は夕方 ()んで、夜に入つたら、雲がしきりに飛んだ。其中(そのうち)洗つた様な月が出た。代助は光を浴びる庭の濡葉を長い間椽側から眺めてゐたが、仕舞に下駄を穿()いて下へ降りた。固より広い庭でない上に立木の数が存外多いので、代助の歩く(せき)はたんと無かつた。代助は其真中に立つて、大きな空を仰いだ。やがて、座敷から、昼間買つた百合の花を取つて来て、自分の周囲(まはり)に蒔き散らした。白い花瓣(くわべん)が点々として月の光に冴えた。あるものは、木下闇に(ほの)めいた。代助は何をするともなく其間に曲(かゞ)んでゐた。

 寐る時になつて始めて座敷へ上がつた。室の中は花の香ひがまだ全く抜けてゐなかつた。 (青空文庫より)


◇評論

「三千代は涙の中で始めて笑つた。けれども一言も口へは出さなかつた」

この場面の三千代の「笑」について、結論を先に言うと、この「笑」の意味と、また、なぜここで三千代は笑ったのかの理由が屈折している。

この「笑」の前の場面は、以下のとおり。


代助…「貴方が僕に復讐してゐる間は断わらなければならないんです」

三千代…「復讐」という「二字を恐るゝものゝ如くに眼を働らかした」。次いで、「嫁に行つてから、今日迄一日も早く、貴方が御結婚なされば可いと思はないで暮らした事はありません」とやや改まって言う。代助の「復讐」という言葉に恐れとまどった三千代。

代助…それに耳を貸さず、「僕は貴方に何所迄も復讐して貰うのが本望。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事。然しさう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出来れば、是程嬉しい事はないと思つてゐる」

三千代…「涙の中で始めて笑つた」


笑いは一般に、おかしみや安心の表れだろう。ここで三千代は、代助の強い愛情表現に対して少しの満足を得て笑ったのだろうが、この笑いは屈折している。

「三千代の復讐により自分は社会的に罪人となった。それが自分にとって自然だし、うれしいことだ」。この代助の論理はやや被虐的であり、これに「笑」で肯定的に返す三千代は、逆に加虐的となる。「あなたによって罪人に貶められてうれしい」という相手への「笑」。これは代助の言葉をユーモアと捉えての笑いではないだろう。


ここでの「自然」は、そうすることが当然で何の障害もないという意味で、さらにそれは以前の分類の「神の意志」に通ずるだろう。三千代によって罪人となることが自分の宿命であり神の意志である、という意味。


三千代の笑いが屈折していたように、代助の論理も屈折する。

「それが貴方に残酷に聞えれば聞える程僕は貴方に対して成功したも同様になるんだから仕方がない」。普通であれば、愛する人へは平穏な幸せをと願うものだろう。それなのに代助はここで、三千代への「残酷」な仕打ちが自分の「成功」・満足へとつながるとする。ここに被虐は加虐へと容易に転換する様子が見られる。

「こんな残酷な事を打ち明け」ることによってしか、自分は「生きてゐる事が出来なくなつた」。三千代を傷つけることによる自己の生命の保存。これは「我儘(わがまゝ)」では済まないだろう。「(あやま)」っても許されぬ行為。「今更遅すぎるが愛を告げることが自分の命につながる。たとえそれが愛する人を傷つけることになったとしても」。代助は愛の告白がエゴだということを明示する。そうしてその吐露によって三千代に許されようとしている。


自分の命にはあなたが必要だと言ってみたり、あなたを困らせることが自分の命につながると言ってみたり、本当にひどい男だ。こんなダメ男についていく女はいないだろうと思われるのだが、いるのだ。

「残酷では御座いません。だから詫るのはもう()して頂戴」。

これが惚れた弱みということか。三千代は、「いまさら何言ってんの! バカ!」と言って、代助をひっぱたいて終わりにするべきだった。しかし彼女は代助を許してしまう。「三千代の調子は、此時急に判然(はつきり)した。沈んではゐたが、前に比べると非常に落ち着いた」。この様子から、彼女が覚悟を決めようとしているのが分かる。


次の部分をシナリオにしてみる。

三千代「たゞ、もう少し早く云つて下さると」(と云ひ掛けて涙ぐむ)。

代助「ぢや僕が生涯黙つてゐた方が、貴方には幸福だつたんですか」

三千代「左様(さう)ぢやないのよ」(と力を籠めて打ち消す)。「私だつて、貴方が左様(さう)云つて下さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」

代助、微笑。

代助「夫れぢや構はないでせう」

三千代「構はないより難有いわ。たゞ――」

代助「たゞ平岡に済まないと云ふんでせう」

三千代は不安らしく首肯(うなづ)く。

代助「三千代さん、正直に云つて御覧。貴方は平岡を愛してゐるんですか」

三千代は答えない。顔の色が蒼くなり、眼も口も固くなる。凡てが苦痛の表情。

代助「では、平岡は貴方を愛してゐるんですか」

三千代は矢張り俯向(うつむ)いている。


このあたりの部分は、人情のやり取りが主となっており、前近代的な戯作に感じられる。浪花節のようだ。旧来の倫理や道徳を超える行動を選択しようとしている男女の交流が、前近代的やり取りによって行われる。そこに不自然さを感じる読者もいるだろう。


「私だつて、貴方が左様(さう)云つて下さらなければ、生きてゐられなくなつたかも知れませんわ」という三千代のセリフは、代助だけでなく彼女も同じように相手に寄り掛かる考え方・存在だったことを表す。「代助の愛の告白が無ければ死んでしまう」という論理(これは論理以前の感情なのだが)は、前に代助が言った、「あなたという存在が無いと、自分は成り立たない」というのと同じだ。このふたりは互いにもたれ合う関係にある。自立に欠けるということもできる。そこも前近代的だ。


これに対し、これに続く場面では、三千代の成長が感じられる言葉が提出される。それが、「仕様がない。覚悟を()めませう」だ。一つは、三千代が代助と会話する過程で急速な自立化を果たしていることと、もう一つは彼女からの宣言であったことが、このセリフの重要性を示す。「覚悟を決めた女と、恐れる男」という漱石文学の図式が、ここにも表れる。


「代助は思ひ切つた判断を、自分の質問の上に与へやうとして、既に其言葉が口迄出掛かつた時、三千代は不意に顔を上げた」。宣言に躊躇する代助よりも前に、三千代が決断し宣言するのだ。「其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消え」、「涙さへ大抵は乾」き、「唇は(しか)として」いる。やがて「其間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字づゝ出た」。「仕様がない。覚悟を()めませう」。


代助は、過去にも三千代への愛を告げられず封印し、今回も自分から先に彼女に積極的に決断を告げることができない。周りの作用によって彼の進む道が決められてしまう。ふがいない男だ。


三千代に先に決意表明をされてしまった「代助は脊中から水を被つた様に(ふる)へた」。この決意の持つ意味を、三千代から言われて初めてはっきりと認識する男なのだ。

世の倫理に反し、「社会から逐ひ放たるべき二人の魂は、たゞ二人 (むか)ひ合つて、(たがひ)を穴の()く程眺めてゐた」。互いに見つめ合うことで、互いの決意を確認し合うふたり。「さうして、凡てに逆らつて、互ひを一所に持ち(きた)した力を互ひと怖れ(おのの)いた」。こんなにも強く求めあい、自分たちを結び付けようとする「力」は何なのだろうと疑い「怖れ(おのの)」くふたり。


「しばらくすると、三千代は急に物に襲はれた様に、手を顔に当てて泣き出した」。愛の渦に巻き込まれたような三千代は、はっと我に返り感情が高ぶる。

「代助は三千代の泣く様を見るに忍びなかつた。(ひぢ)を突いて額を五指(ごし)の裏に隠した。二人は此態度を崩さずに、恋愛の彫刻の如く、(じつ)としてゐた」。ここはやや芸術至上主義的な描写だ。ここは語り手の説明であり代助自身が自分を外から見た表現。ふたりを「恋愛の彫刻」と美化して述べ、愛に酔っている様子を表す。

「二人は斯う凝としてゐる(うち)に、五十年を()のあたりに縮めた程の精神の緊張を感じた。さうして其の緊張と共に、二人が相並んで存在して居ると云ふ自覚を失はなかつた。彼等は愛の刑と愛の(たまもの)とを同時に()けて、同時に双方を切実に味はつた」。これも非常に観念的で美的な表現。時間の跳躍、精神の緊張、互いの実存の確認、愛の賛美と享受。やや饒舌な説明に、わざとらしさや登場人物の自己陶酔を感じる。


「しばらくして、三千代は手帛(ハンケチ)を取つて、涙を奇麗に拭いたが、静かに、「私もう帰つてよ」と云つた。それまでの酔いから醒めた三千代が現実に戻る。それに伴い代助も、「御帰りなさい」と答える。


代助は三千代を「自分で送つて出、」「江戸川の橋の上で別れた」。そうして「橋の上に立つて、三千代が横町を曲る迄見送つてゐた」。「夫れから(ゆつく)り歩を(めぐ)らしながら、腹の中で、「万事終る」と宣告した」。

ここは普通は、「ふたりの人生がいよいよこれから始まる」という言葉や説明があるだろう。だから代助の「万事終る」という言葉は、やっとこれまでの鬱憤や妨げが解消したことに対する感慨でとどまっていると言える。そこに未来への明るい志向は無い。これではまるで二人の人生がここで終わってしまうかのように取れてしまう。ふたりの愛を妨げるものの解消がすべて終わったはずなのに、そう受け取れないような二重の意味を、この言葉は含んでいる。


その後の代助の様子。「雨は夕方 ()んで」、「洗つた様な月が出た」。代助は「下駄を穿()いて下へ降り」、庭の「真中に立つて、大きな空を仰いだ」。夜気に当たり、清新な空気で深呼吸する代助。

「やがて、座敷から、昼間買つた百合の花を取つて来て、自分の周囲(まはり)に蒔き散らした。白い花瓣(くわべん)が点々として月の光に冴えた。あるものは、木下闇に(ほの)めいた」。庭にまいた白百合の花びらは、あるものは月の光に妖しく浮かび、あるものは「木下闇に(ほの)め」いた。ここにも芸術至上主義的な代助のふるまいが見られる。自分を美的に装飾することで、彼は自己陶酔する。三千代への愛のめまいが、夜の代助を包む。「代助は何をするともなく其間に曲(かゞ)んでゐた」。


しばらく彼はそのままの状態を続け、「寐る時になつて始めて座敷へ上がつた」。「室の中」は「花の香ひがまだ全く抜けて」おらず、この後彼は、夢で三千代と会っただろう。



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