夏目漱石「それから」本文と評論14-10「僕の存在には貴方が必要だ」
◇本文
「僕の存在には貴方が必要だ。何うしても必要だ。僕は夫丈の事を貴方に話したい為にわざ/\貴方を呼んだのです」
代助の言葉には、普通の愛人の用ひる様な甘い文彩を含んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼つてゐた。但(たゞ)、夫丈の事を語る為に、急用として、わざ/\三千代を呼んだ所が、玩具の詩歌に類してゐた。けれども、三千代は固より、斯う云ふ意味での俗を離れた急用を理解し得る女であつた。其上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持つてゐなかつた。代助の言葉が、三千代の官能に華やかな何物をも与へなかつたのは、事実であつた。三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた。代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。三千代は顫へる睫毛の間から、涙を頬の上に流した。
「僕はそれを貴方に承知して貰ひたいのです。承知して下さい」
三千代は猶泣いた。代助に返事をする所ではなかつた。袂から手帛を出して顔へ当てた。濃い眉の一部分と、額と生際丈が代助の眼に残つた。代助は椅子を三千代の方へ摺り寄せた。
「承知して下さるでせう」と耳の傍で云つた。三千代は、まだ顔を蔽つてゐた。しやくり上げながら、
「余まりだわ」と云ふ声が手帛の中で聞えた。それが代助の聴覚を電流の如くに冒した。代助は自分の告白が遅過ぎたと云ふ事を切に自覚した。打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた。彼は涙と涙の間をぼつ/\ 綴(つゞ)る三千代の此一語を聞くに堪えなかつた。
「僕は三四年前に、貴方に左様打ち明けなければならなかつたのです」と云つて、憮然として口を閉ぢた。三千代は急に手帛を顔から離した。瞼の赤くなつた眼を突然代助の上にみはつて、
「打ち明けて下さらなくつても可いから、何故」と云ひ掛けて、一寸躊躇したが、思ひ切つて、「何故 棄てゝ仕舞つたんです」と云ふや否や、又手帛を顔に当てゝ又泣いた。
「僕が悪い。堪忍して下さい」
代助は三千代の手頸を執つて、手帛を顔から離さうとした。三千代は逆らはうともしなかつた。手帛は膝の上に落ちた。三千代は其膝の上を見た儘(まゝ)、微かな声で、
「残酷だわ」と云つた。小さい口元の肉が顫ふ様に動いた。
「残酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は夫丈の罰を受けてゐます」
三千代は不思議な眼をして顔を上げたが、
「何うして」と聞いた。
「貴方が結婚して三年以上になるが、僕はまだ独身でゐます」
「だつて、夫れは貴方の御勝手ぢやありませんか」
「勝手ぢやありません。貰はうと思つても、貰へないのです。それから以後、宅のものから何遍結婚を勧められたか分かりません。けれども、みんな断つて仕舞ひました。今度も亦一人断わりました。其結果僕と僕の父との間が何うなるか分かりません。然し何うなつても構はない、断わるんです。貴方が僕に復讐してゐる間は断わらなければならないんです」
「復讐」と三千代は云つた。此二字を恐るゝものゝ如くに眼を働らかした。「私は是でも、嫁に行つてから、今日迄一日も早く、貴方が御結婚なされば可いと思はないで暮らした事はありません」と稍改たまつた物の言ひ振りであつた。然し代助はそれに耳を貸さなかつた。
「いや僕は貴方に何所迄も復讐して貰ひたいのです。それが本望なのです。今日斯うやつて、貴方を呼んで、わざ/\自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讐されてゐる一部分としか思やしません。僕は是で社会的に罪を犯したも同じ事です。然し僕はさう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然なのです。世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出来れば、夫で沢山なんです。是程嬉しい事はないと思つてゐるんです」 (青空文庫より)
◇評論
「僕の存在には貴方が必要だ。何うしても必要だ。僕は夫丈の事を貴方に話したい為にわざ/\貴方を呼んだのです」は、代助から三千代に掛けられた初めてはっきりとした愛の告白の言葉。そこには、「普通の愛人の用ひる様な甘い文彩を含んでゐなかつた」。「彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴で」「寧ろ厳粛の域に逼つてゐた」。簡単素朴だが、とても強い意志を厳粛に表した愛の言葉。
「但(たゞ)、夫丈の事を語る為に、急用として、わざ/\三千代を呼んだ所が、玩具の詩歌に類してゐた」。ここに語り手の批評が現れるが、それは代助の自己蔑視をそのまま代言したものでもある。
ところで、「僕の存在には貴方が必要だ」を細かく見ると、自分と言う存在の存立条件としての三千代と言うことになる。三千代がいなければ自分が成り立たない。自我の完成のためには三千代が欠かせない。ということだ。これは、単に好きだから一緒にいたいというのよりももっと強い、相手への欲求・依存を表している。三千代がいなければ、代助は存在し生きることができないのだ。単なる愛の欲求ではない。自己の存在の継続に絶対的に必要なのがあなたなのだということ。
従って、もしここで三千代が拒絶すると、代助をある意味見殺しにすることになる。それだけ三千代は重く考え、決断しなければならない。しかもこの場面は不倫の決断までも迫っている。三千代は、簡単にうなずくわけにはいかない。
「代助の言葉」は、「三千代の官能に華やかな何物をも与へなかつた」。「三千代がそれに渇いてゐなかつたのも事実であつた」。「代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した」。この説明からは、言葉→官能→心という図式になる。
「三千代は顫へる睫毛の間から、涙を頬の上に流した」。その一つ一つを、代助はじっと見つめている。
「僕はそれを貴方に承知して貰ひたいのです。承知して下さい」
代助は、三千代の自分への愛を確認せず、やや一方的に自己の愛を押し付ける。「自分はこう希望する。それをあなたも了解してほしい」という言い方だ。もちろん、代助のこの言葉にうなずくことは、代助への愛を示すことと同義なのだが、細かくこだわると、以上のようになる。ごく単純には、「僕はあなたを愛している。あなたはどうですか?」、「私もあなたを愛しています」、「では一緒にいましょう」となるのが一般的ではないか。
※この代助の告白を、あるクラスの高校生女子に聞いてみた。
男からの愛の告白で、次のどちらが好みか?
A、「僕の存在にはあなたが必要だ」
B、「僕はあなたを愛している」
その答えは、Aが8名、Bが14名だった。Bについては純粋な愛の告白が感じられる。独立したひとりの人から独立した他者への愛が感じられるなどの感想が出た。これに対しAは、「あなた」への依存が感じられ、それがないと自分は存在できないという押しつけがましさが感じられるという感想が出た。その意味でAは重いということだった。
ここでも代助は、素直に三千代の気持ちを尋ねていない。「自分はあなたが好きだ。それに対してあなたはどう思っているのか」と。自分の気持ちを「承知」してくれという言い方はやはり素直ではない。まっすぐに愛を告白するのは恥ずかしい、あまりに素朴すぎるということもあるだろうが、三千代の気持ちを素直に確認すべき場面だろう。「自分の気持ちはこうだ。それをあなたに承知してもらいたい」、と言うのは、やはり自己中心的と言えるだろう。相互の心的作用によって愛は育まれる。自己の心情の表明・露出だけでは、一方通行になってしまう。
以上は、代助の発言のとても細かい部分にこだわった解釈なのだが、このように言うことも可能だろう。
それらすべてを含めて、「三千代は猶泣いた」のだろう。
今まで震えていた三千代は、本格的に涙をこぼす。「袂から手帛を出して顔へ当て」る。
代助は観察する。彼女の「濃い眉の一部分と、額と生際丈が」「眼に残つた」。
「代助は椅子を三千代の方へ摺り寄せた。「承知して下さるでせう」と耳の傍で云つた」。非常にエロい接近の仕方。心が弱っている女性にこのようにするのは、相手の弱みに付け込むのと同じで、ある意味卑怯なやり方だ。相手を「ウン」と言わせるための身体的接近。代助の発話は、三千代の耳をくすぐる。
三千代の「余まりだわ」には、それらに対する抵抗も含まれる。
そうしてそのハンカチ越しの声は、「代助の聴覚を電流の如くに冒した」。もちろん、代助の「告白が遅過ぎた」というのが「余まりだわ」の主意だ。「打ち明けるならば三千代が平岡へ嫁ぐ前に打ち明けなければならない筈であつた」。だから、「僕は三四年前に、貴方に左様打ち明けなければならなかつたのです」と言う懺悔の言葉は、力を持たない。今更遅い。言ってもしようのない言葉。それは代助自身も分かっており、だから彼は「云つて、憮然として口を閉ぢた」。これに対し「三千代は急に手帛を顔から離し」「瞼の赤くなつた眼を突然代助の上にみは」り、「打ち明けて下さらなくつても可いから、何故」「何故 棄てゝ仕舞つたんです」と、一度ためらいながらも「思ひ切つて」言う。
※「瞼の赤くなつた」という表現は、芥川龍之介「羅生門」の老婆を想起させる。女の死体から髪を抜くというおぞましい行為に及んでいる老婆を組み敷き、何をしていたのだと下人が問うた場面。老婆の目の前には、下人の握る太刀の先が突き付けられ、鋭く光っている。
「すると、老婆は、見開いていた目を、いっそう大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い目で見たのである。」
「羅生門」のこの場面は勿論、下人が圧倒的優位の立場で老婆にまたがっており、老婆の命は完全に下人に握られている。生かすも殺すも下人次第という場面で老婆は、何とかこの窮状から逃れられないかと一生懸命考えるのだ。この後有名な「悪の論理」が老婆の口から展開される(私の「羅生門」のマガジンをご覧ください)のだが、自分の命の灯が消えかかる瞬間の集中力と精神力でもって、何とか生き延びようとする老婆の様子だった。
「それから」の三千代も、代助によって人生の判断を鋭く迫られている点では共通していると言えるだろう。彼女の目の赤さは、単に悲しみや後悔によるものではない。「僕の存在には貴方が必要だ。何うしても必要だ」と強く迫り、自分と言う存在を食い破ろうとしている代助という人間を、「眼を」「みはつて」しっかり見定めようとしたのだ。
そうして彼女はさらに追及する。あなたを愛していると「打ち明けて下さらなくつても可いから」、「何故 棄てゝ仕舞つたんです」か、その訳を話してください、と。
彼女は思っている。あの時には言えなかったことを、今なぜ言えるのか。そもそも代助の自分への愛は、真実のものなのか。あの時、自分の気持ちを知っていたはずなのに、どうして捨てるようなことをしたのか。
彼女は「又手帛を顔に当てゝ又泣」くことしかできない。
「僕が悪い。堪忍して下さい」という代助の言葉も、「手頸を執つて、手帛を顔から離さうとした」動作も、三千代の慰藉とはならない。「三千代は逆らはうともしなかつた」。身体に力が入らないのだ。
そうして彼女は、「微かな声で、「残酷だわ」と云つた」。こうとしか言いようが無いのだ。今更好きだと言われてもどうしようもない自分。
「残酷と云はれても仕方がありません。其代り僕は夫丈の罰を受けてゐます」。「罰」という言葉に「不思議」を感じるのは、三千代だけではない。代助の説明する「罰」の内容を整理する。
・三千代結婚後三年以上経つが、自分は独身のままでいる
・その理由は、「貰はうと思つても、貰へない」からだ。「宅のものから」「何遍」も「勧められた」結婚も、「みんな断つて仕舞ひました」。「今度も亦一人断わりました。其結果僕と僕の父との間が何うなるか分かりません」。「貴方が僕に復讐してゐる間は断わらなければならない」。
「復讐」と言うからには、三千代が何かしらの力で代助の結婚を阻んでいなければならない。しかし三千代は実際にそのようなことはしていない。
だから三千代は「復讐」という「二字を恐るゝものゝ如くに眼を働らかし」、「私は是でも、嫁に行つてから、今日迄一日も早く、貴方が御結婚なされば可いと思はないで暮らした事はありません」と「稍改たまつた」冷静な「物の言ひ振り」をしたのだ。
「然し代助はそれに耳を貸さなかつた」。
・「僕は貴方に何所迄も復讐して貰ひたい」し、「それが本望」。
・「今日斯うやつて、貴方を呼んで、わざ/\自分の胸を打ち明けるのも、実は貴方から復讐されてゐる一部分」であり、なぜなら「是で社会的に罪を犯したも同じ事」だからだ。
・「然し僕はさう生れて来た人間なのだから、罪を犯す方が、僕には自然」。「世間に罪を得ても、貴方の前に懺悔する事が出来れば、夫で沢山」であり、「是程嬉しい事はないと思つてゐる」。
代助の論理をまとめる。
〇自分は三千代の「復讐」により、「罰」を受けている。
〇三千代の復讐による罰の内容
・三千代結婚後三年以上独身なのは、結婚しようと思ってもできないから
・その結果父との関係が悪化
・今日の愛の告白も、このことにより社会的に罪を犯したも同じ
〇三千代の復讐についての代助の感想
・三千代にどこまでも復讐してもらうことが本望
・自分はそのように生まれてきた人間であり、罪を犯す方が、自分には自然
・世間に罪を得ても、三千代に懺悔する事が出来れば嬉しい
代助は、三千代という「存在」そのものが、自分を厳しく責め立てていると考える。それを彼は「復讐」と言っているのだ。しかしこの二つのつながりが不自然なので、三千代も読者もにわかには納得することができない。
このように代助は、自分で勝手に解釈・思い込んだ条件設定をし、それを土台として論理展開をする。その自己完結型の態度に、周りは振り回される。代助を愛する三千代は、愛ゆえに許さざるを得ないのだから、なおさら不憫だ。




