夏目漱石「それから」本文と評論14-8「覚えてゐますか」「覚えてゐますわ」
◇本文
三千代は玄関から、門野に連れられて、廊下伝ひに這入つて来た。銘仙の紺絣に、唐草模様の一重帯を締めて、此前とは丸で違つた服装をしてゐるので、一目見た代助には、新しい感じがした。色は不断の通り好くなかつたが、座敷の入口で、代助と顔を合はせた時、眼も眉も口もぴたりと活動を中止した様に固くなつた。敷居に立つてゐる間は、足も動けなくなつたとしか受取れなかつた。三千代は固より手紙を見た時から、何事をか予期して来た。其予期のうちには恐れと、喜びと、心配とがあつた。車から降りて、座敷へ案内される迄、三千代の顔は其の予期の色をもつて漲つてゐた。三千代の表情はそこで、はたと留まつた。代助の様子は三千代に夫丈の打衝を与へる程に強烈であつた。
代助は椅子の一つを指さした。三千代は命ぜられた通りに腰を掛けた。代助は其向に席を占めた。二人は始めて相対した。然しやゝ少時は二人とも、口を開かなかつた。
「何か御用なの」と三千代は漸くにして問ふた。代助は、たゞ、
「えゝ」と云つた。二人は夫限で、又しばらく雨の音を聴いた。
「何か急な御用なの」と三千代が又尋ねた。代助は又、
「えゝ」と云つた。双方共 何時もの様に軽くは話し得なかつた。代助は酒の力を借りて、己れを語らなければならない様な自分を恥ぢた。彼は打ち明けるときは、必ず平生の自分でなければならないものと兼ねて覚悟をして居ゐた。けれども、改たまつて、三千代に対して見ると、始めて、一滴の酒精が恋しくなつた。ひそかに次の間へ立つて、例のヰスキーを洋盃で傾け様かと思つたが、遂に其決心に堪えなかつた。彼は青天白日の下に、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の誠でないと信じたからである。酔ひと云ふ牆壁を築いて、其掩護に乗じて、自己を大胆にするのは、卑怯で、残酷で、相手に汚辱を与へる様な気がしてならなかつたからである。彼は社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取る事が出来なくなつた、其代り三千代に対しては一点も不徳義な動機を蓄へぬ積であつた。否、彼をして卑吝に陥らしむる余地が丸でない程に、代助は三千代を愛した。けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己れを傾ける事が出来なかつた。二度聞かれた時に猶躊躇した。三度目には、已むを得ず、
「まあ、緩り話しませう」と云つて、巻烟草に火を点けた。三千代の顔は返事を延ばされる度に悪くなつた。
雨は依然として、長く、密に、物に音を立てゝ降つた。二人は雨の為に、雨の持ち来す音の為に、世間から切り離された。同じ家に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人は孤立の儘、白百合の香の中に封じ込められた。
「先刻表へ出て、あの花を買つて来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の眼は代助に随いて室の中を一回りした。其後で三千代は鼻から強く息を吸ひ込んだ。
「兄さんと貴方と清水町にゐた時分の事を思ひ出さうと思つて、成るべく沢山買つて来ました」と代助が云つた。
「好い香ですこと」と三千代は翻る様に綻びた大きな花瓣を眺めてゐたが、夫れから眼を放して代助に移した時、ぽうと頬を薄赤くした。
「あの時分の事を考へると」と半分云つて已めた。
「覚えてゐますか」
「覚えてゐますわ」
「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結つてゐましたね」
「だつて、東京へ来立てだつたんですもの。ぢき已めて仕舞つたわ」
「此間百合の花を持つて来て下さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」
「あら、気が付いて。あれは、あの時 限なのよ」
「あの時はあんな髷に結ひ度くなつたんですか」
「えゝ、気迷れに一寸と結つて見たかつたの」
「僕はあの髷を見て、昔を思ひ出した」
「さう」と三千代は恥づかしさうに肯つた。
三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く口を聞く様になつてからの事だが、始めて国から出て来た当時の髪の風を代助から賞められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結はなかつた。二人は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共口へ出しては何も語らなかつた。 (青空文庫より)
◇評論
この日の三千代は、「銘仙の紺絣に、唐草模様の一重帯」。これは、「此前とは丸で違つた服装」であり、「代助には、新しい感じがした」。彼女のいでたちは、「何事をか予期して」いる。
「色は不断の通り好く」ない。「眼も眉も口もぴたりと活動を中止した様に固」い。「足も動けなくなつたとしか受取れなかつた」。「何事をか」の「予期」が、彼女の体をこわばらせる。「其予期のうちには恐れと、喜びと、心配とがあつた」。「車から降りて、座敷へ案内される迄、三千代の顔は其の予期の色をもつて漲つてゐた」が、「代助の様子は三千代に」「強烈」な「打衝を与へ」る。「相対し」た後、「やゝ少時は二人とも、口を開かなかつた」。
「双方共 何時もの様に軽くは話し得なかつた」が、「代助は酒の力を借り」るのではなく、「青天白日の下に、尋常の態度で、相手に公言し得る事でなければ自己の誠でないと信じた」。「酔ひ」は、「卑怯で、残酷で、相手に汚辱を与へる様な気がしてならなかつたからである」。
「社会の習慣に対しては、徳義的な態度を取る事が出来なくなつた」代助は、その代わりに、「三千代に対しては一点も不徳義な動機を蓄へぬ積であつた」。
「卑吝」いやしくてけちなこと。(デジタル大辞泉)
「けれども、彼は三千代から何の用かを聞かれた時に、すぐ己れを傾ける事が出来なかつた」。「三千代の顔は返事を延ばされる度に悪くなつた」。
「二人は雨の為に、雨の持ち来す音の為に、世間から切り離された」。そうして「二人は孤立の儘、白百合の香の中に封じ込められた」。百合は過去とつながる小道具だ。
退助が百合を買ってきたのは、自分と三千代を過去に引き戻す意図があった。「兄さんと貴方と清水町にゐた時分の事を思ひ出さうと思つて、成るべく沢山買つて来ました」。三千代も「鼻から強く息を吸ひ込」むことで、その強い香に酔って過去へとワープする。「「好い香ですこと」と三千代は翻る様に綻びた大きな花瓣を眺めてゐたが、夫れから眼を放して代助に移した時、ぽうと頬を薄赤くした」。ふたりはまだ若かった「あの時分の事」をともに心に映し出す。
代助は、三千代の記憶を確認する。「貴方は派手な半襟を掛けて、銀杏返しに結つてゐましたね」。「此間百合の花を持つて来て下さつた時も、銀杏返しぢやなかつたですか」と。
「あの髷を見て、昔を思ひ出した」と告げる代助に、三千代は「さう」と「恥づかしさうに肯つた」。過去の記憶を確かに保持し続けてくれていることへの恥じらい。
続いて語り手は補足説明する。
「三千代が清水町にゐた頃、代助と心安く口を聞く様になつてからの事だが、始めて国から出て来た当時の髪の風を代助から賞められた事があつた。其時三千代は笑つてゐたが、それを聞いた後でも、決して銀杏返しには結はなかつた。二人は今も此事をよく記臆してゐた。けれども双方共口へ出しては何も語らなかつた」。
記憶が互いの心に確かにあると確信しているから、それ以上を確認する必要が無い。心と心が通じ合い、互いを信頼し合うふたり。
愛する者同士の心の交流が描かれたとても雰囲気の良い場面。読者もふたりの過去を想像し、自身の恋愛体験と照らし合わせて微笑むだろう。




