夏目漱石「それから」本文と評論14-7「今日始めて自然の昔に帰るんだ」
◇本文
雨は翌日迄晴れなかつた。代助は湿つぽい椽側に立つて、暗い空模様を眺めて、昨夕の計画を又変えた。彼は三千代を普通の待合抔へ呼んで、話をするのが不愉快であつた。已むなくんば、蒼い空の下と思つてゐたが、此天気では夫れも覚束なかつた。と云つて、平岡の家へ出向く気は始めから無かつた。彼は何うしても、三千代を自分の宅へ連れて来るより外に道はないと極めた。門野が少し邪魔になるが、話のし具合では書生部屋に洩れない様にも出来ると考へた。
午少し前迄は、ぼんやり雨を眺めてゐた。午飯を済すや否や、護謨の合羽を引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下迄来て青山の宅へ電話を掛けた。明日 此方から行く積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達ての事は、まだ父に話さないでゐるから、もう一遍よく考へ直して御覧なさらないかと云はれた。代助は感謝の辞と共に号鈴を鳴らして談話を切つた。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確かめた。平岡は社に出てゐると云ふ返事を得た。代助は雨を衝いて又坂を上つた。花屋へ這入つて、大きな白百合の花を沢山買つて、夫れを提げて、宅へ帰つた。花は濡れた儘、二つの花瓶に分けて挿した。まだ余つてゐるのを、此間の鉢に水を張つて置いて、茎を短かく切つて、はぱ/\放り込んだ。それから、机に向つて、三千代へ手紙を書いた。文句は極めて短かいものであつた。たゞ至急御目に掛かつて、御話ししたい事があるから来て呉れろと云ふ丈であつた。
代助は手を打つて、門野を呼んだ。門野は鼻を鳴らして現れた。手紙を受取りながら、
「大変好い香ひですな」と云つた。代助は、
「車を持つて行つて、乗せて来るんだよ」と念を押した。門野は雨の中を乗りつけの帳場迄出て行つた。
代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩(おゝ)ふ強い香の中に、残りなく自己を放擲した。彼は此の嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた。其の過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這ひ纏つてゐた。彼はしばらくして、
「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云つた。斯う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もつと早く帰る事が出来なかつたのかと思つた。始めから何故自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸であつた。だから凡てが美しかつた。
やがて、夢から覚めた。此一刻の幸から生ずる永久の苦痛が其時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失つた。彼は黙然として、我と吾が手を眺めた。爪の甲の底に流れてゐる血潮が、ぶる/\ 顫へる様に思はれた。彼は立つて百合の花の傍へ行つた。唇が瓣に着く程近く寄つて、強い香を眼の眩う迄まで嗅いだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽せて、失心して室の中に倒れたかつた。彼はやがて、腕を組んで、書斎と座敷の間を往つたり来たりした。彼の胸は始終鼓動を感じてゐた。彼は時々椅子の角や、洋卓の前へ来て留まつた。それから又歩き出した。彼の心の動揺は、彼をして長く一所に留まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる為に、無暗な所に立ち留らざるを得なかつた。
其内に時は段々移つた。代助は断えず置時計の針を見た。又覗く様に、軒から外の雨を見た。雨は依然として、空から真直に降つてゐた。空は前よりも稍暗くなつた。重なる雲が一つ所で渦を捲いて、次第に地面の上へ押し寄せるかと怪しまれた。其時雨に光る車を門から中へ引き込んだ。輪の音が、雨を圧して代助の耳に響いた時、彼は蒼白い頬に微笑を洩らしながら、右の手を胸に当てた。 (青空文庫より)
◇評論
今話は非常に美的な表現が続く。それはとりもなおさず、三千代を待つ代助の美的感覚が研ぎ澄まされる様子を表す。三千代をイメージし、彼女にまつわる白い花をイメージしその香を嗅ぐことは、代助にとって至福なのだ。しかしそれが次の瞬間には現実によって破壊されてしまう予感が彼を包む。
「雨は翌日迄晴れなかつた」。三千代へと心が向かおうとする代助の鬱屈の表象。「湿つぽい椽側」、「暗い空模様」。ふたりには明るい未来が描けない。
代助は「三千代を自分の宅へ連れて来る」ことを「極めた」。そうして、さまざまな手配をする。まず、「青山の宅へ電話を掛け」、「明日 此方から行く積りであるからと、機先を制して置いた」。「次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確かめた。平岡は社に出てゐると云ふ返事を得た」。「雨を衝いて又坂を上」り、花屋で「大きな白百合の花を沢山買つて、夫れを提げて、宅へ帰つた」。「花は濡れた儘、二つの花瓶に分けて挿し」、「まだ余つてゐるのを、此間の鉢に水を張つて置いて、茎を短かく切つて、はぱ/\放り込んだ」。「それから、机に向つて、三千代へ手紙を書いた」。「たゞ至急御目に掛かつて、御話ししたい事があるから来て呉れろと云ふ丈であつた」。続いて門野を呼び、「「車を持つて行つて、乗せて来るんだよ」と念を押した」。行動する代助。
次に、代助の美的観念・夢の世界が描かれる。
「百合の花を眺めながら、部屋を掩(おゝ)ふ強い香の中に、残りなく自己を放擲した」「彼は此の嗅覚の刺激のうちに、三千代の過去を分明に認めた」。「其の過去には離すべからざる、わが昔の影が烟の如く這ひ纏つてゐた」。
「分明」は、他との区別がはっきりしていること。あきらかなこと。白い百合、その強い香り、それらにまつわる三千代と自分の過去。このとき代助は、目を閉じてその世界にうっとりとたゆたっている。「嗅覚の刺激」はいや増す。香りの記憶は後に強く長く残るものだ。あの時のふたりを代助ははっきりと思い出している。
代助にとって百合は三千代なのだ。彼は三千代の中にたゆたう自分を想像する。完全なる安心。母に抱かれる赤子。
「百合」はこれまでにも何度か登場し、それはふたりに共通の強い思い出の小道具となっている。どれも、ふたりの結びつきを強く感じさせるシーンだ。ちなみに白百合の花言葉は、「純潔」「威厳」。また、葬儀に用いられることから「死」を連想させる。代助と三千代の未来が死の影を帯びる予感が、ここにも表れる。
1・2「三千代の顔は此前逢つた時よりは寧ろ蒼白かつた。代助に眼と顎で招かれて書斎の入口へ近寄つた時、代助は三千代の息を喘ましてゐることに気が付いた。
「何うかしましたか」と聞いた。
三千代は何にも答へずに室の中に這入つて来た。セルの単衣の下に襦袢を重ねて、手に大きな白い百合の花を三本許り提げてゐた。其百合をいきなり洋卓の上に投げる様に置いて、其横にある椅子へ腰を卸した。さうして、結つた許りの銀杏返しを、構はず、椅子の脊に押し付けて、
「あゝ苦しかつた」と云ひながら、代助の方を見て笑つた。代助は手を叩いて水を取り寄せ様とした。三千代は黙つて洋卓の上を指した。其所には代助の食後の嗽ひをする硝子の洋盃があつた。中に水が二口許り残つてゐた。
「奇麗なんでせう」と三千代が聞いた」10-4
…この場面の百合と三千代は、代助の中で不可分な記憶として残る。
3~6、「「心臓の方は、まだ悉皆善くないんですか」と代助は気の毒さうな顔で尋ねた。
「悉皆善くなるなんて、生涯駄目ですわ」
意味の絶望な程、三千代の言葉は沈んでゐなかつた。繊い指を反らして穿めてゐる指環を見た。それから、手帛を丸めて、又袂へ入れた。代助は眼を俯せた女の額の、髪に連なる所を眺めてゐた。
すると、三千代は急に思ひ出した様に、此間の小切手の礼を述べ出した。其時何だか少し頬を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善く分かつた。彼はそれを、貸借に関係した羞恥の血潮とのみ解釈した。そこで話をすぐ他所へ外した。
先刻三千代が提げて這入つて来きた百合の花が、依然として洋卓の上に載つてゐる。甘たるい強い香が二人の間に立ちつゝあつた。代助は此重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪へなかつた。けれども無断で、取り除ける程、三千代に対して思ひ切つた振舞が出来なかつた。
「此花は何うしたんです。買つて来たんですか」と聞きいた。三千代は黙つて首肯いた。さうして、
「好い香ひでせう」と云つて、自分の鼻を、瓣の傍迄持つて来て、ふんと嗅いで見せた。代助は思はず足を真直に踏ん張つて、身を後の方へ反らした。
「さう傍で嗅いぢや不可ない」
「あら何故」
「何故つて理由もないんだが、不可ない」
代助は少し眉をひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。
「貴方、此花、御嫌ひなの?」
代助は椅子の足を斜めに立てゝ、身体を後へ伸ばした儘、答へをせずに、微笑して見せた。
「ぢや、買つて来なくつても好かつたのに。詰らないわ、回り路をして。御負に雨に降られ損なつて、息を切らして」
雨は本当に降つて来た。雨滴が樋に集まつて、流れる音がざあと聞こえた。代助は椅子から立ち上つた。眼の前にある百合の束を取り上げて、根元を括つた濡藁をむしり切つた。
「僕に呉れたのか。そんなら早く活けやう」と云ひながら、すぐ先刻の大鉢の中に投げ込んだ。茎が長すぎるので、根が水を跳ねて、飛び出しさうになる。代助は滴る茎を又鉢から抜いた。さうして洋卓の引出しから西洋鋏を出して、ぷつり/\と半分程の長さに剪り詰めた。さうして、大きな花を、リリー、オフ、ゼ、バレーの簇がる上に浮かした。
「さあ是で好い」と代助は鋏を洋卓の上に置いた。三千代は此不思議に無作法に活けられた百合を、しばらく見てゐたが、突然、
「あなた、何時から此花が御嫌ひになつたの」と妙な質問をかけた。
昔し三千代の兄がまだ生きてゐる時分、ある日何かのはづみに、長い百合を買つて、代助が谷中の家を訪ねた事があつた。其時彼は三千代に危しげな花瓶の掃除をさして、自分で、大事さうに買つて来た花を活けて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向直つて眺めさした事があつた。三千代はそれを覚えてゐたのである。
「貴方だつて、鼻を着けて嗅いで入らしつたぢやありませんか」と云つた。代助はそんな事があつた様にも思つて、仕方なしに苦笑した」10-5
…男性が買う花は、相手の女性への愛情表現。
7~10が、今話に登場する百合。
百合の香に「過去」・「昔の影」を想起する代助は、「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で言う。「自然」については14-1でまとめたが、分類Dの「神の意志による規定」の意味で用いられている。世の道徳に従おうとする「意志」を排除し、神が定めた自然の原理・法則に基く心の発露としての愛に生きるのだという宣言が、このつぶやきだ。自分の気持ちを押し殺し、平岡に三千代を譲ったのは不自然なことだった。代助は今、三千代への愛にまっすぐに進もうとしている。それが「自然」なことだからだ。それを代助は改めて確認している。
だから「斯う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた」のだ。「何故」ここに「もつと早く帰る事が出来なかつたのか」。「始めから何故自然に抵抗したのか」。代助は、「雨」、「百合」、「再現の昔」の中に、「純一無雑に平和な生命を見出した」。「其生命の裏にも表にも、慾得」「利害はな」く、「自己を圧迫する道徳はなかつた」。「雲の様な自由と、水の如き自然とがあ」り、「凡てが幸」「美」だった。
代助は三千代に「純一無雑に平和な生命」、「雲の様な自由」、「水の如き自然」、「幸」、「美」を感じる。これらは今までの代助の美的生活・世界を超えるものだろう。「平和」「生命」「自由」「自然」「幸」までももたらしてくれる三千代の存在。よって代助が彼女へと近づくことは必然となった。その意味でこの部分の代助の思考は、この後の彼の行動を促す重要な転機となった。やはり「百合」は、この物語において重要な意味を持つ存在だ。
「ブリス(bliss)」…1、無上の喜び、至福、至福をもたらすもの
2、《神学》天上の喜び、天国、楽園 (プログレッシブ英和中辞典)
夢の後には現実が待つ。「夢から覚めた」代助の頭を、「此一刻の幸から生ずる永久の苦痛が其時卒然として」「冒して来た」。
「永久の苦痛」が何かはここで明示されないが、三千代との生活を成り立たせるための現実社会での労働だ。また、平岡との対決だ。代助はまだ、それらを強く恐れている。
「唇は」赤い「色を失」う。「爪の甲の底に流れてゐる血潮が、ぶる/\ 顫へる様に思はれた」。ここでも「赤」や「血」が、代助を動揺させるものの象徴となっている。
心を落ち着かせるために「彼は立つて百合の花の傍へ行」き、「唇が瓣に着く程近く寄つて、強い香を眼の眩う迄まで嗅いだ」。「甘い香に咽せて、失心して室の中に倒れたかつた」からだ。「百合」によって心の安寧を得ようとする代助。しかし「彼の胸は始終鼓動を感じてゐた」。「彼の心の動揺は、彼をして長く一所に留まる事を許さなかつた。同時に彼は何物をか考へる為に、無暗な所に立ち留らざるを得なかつた」。
代助の心の混迷を表象するかのような「外の雨」。「雨は依然として、空から真直に降つてゐた。空は前よりも稍暗くなつた。重なる雲が一つ所で渦を捲いて、次第に地面の上へ押し寄せるかと怪しまれた」。
やがてその混沌の中から「雨に光る車」に乗り三千代が現れる。「彼は蒼白い頬に微笑を洩らしながら、右の手を胸に当てた」。彼女は代助の鬱屈を雲散霧消してくれるだろうか。




