夏目漱石「それから」本文と評論14-6「代助は其音の中に夜の明けるのを待つた」
◇本文
角上を下りた時、日は暮れ掛かつた。士官学校の前を真直に濠端へ出て、二三町来ると砂土原町へ曲がるべき所を、代助はわざと電車路に付いて歩いた。彼は例の如くに宅へ帰つて、一夜を安閑と、書斎の中で暮らすに堪えなかつたのである。濠を隔てゝ高い土手の松が、眼のつゞく限り黒く並んでゐる底の方を、電車がしきりに通つた。代助は軽い箱が、軌道の上を、苦もなく滑つて行つては、又滑つて帰る迅速な手際に、軽快の感じを得た。其代り自分と同じ路を容赦なく往来(ゆきゝ)する外濠線の車を、常よりは騒々 敷く悪んだ。牛込見附迄来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影を認めた。代助は夕飯を食ふ考もなく、三千代のゐる方角へ向いて歩いて行つた。
約二十分の後、彼は安藤坂を上がつて、伝通院の焼跡の前へ出た。大きな木が、左右から被さつてゐる間を左りへ抜けて、平岡の家の傍迄来ると、板塀から例の如く灯が射してゐた。代助は塀の本に身を寄せて、凝と様子を窺(うかゞ)つた。しばらくは、何の音もなく、家のうちは全く静かであつた。代助は門を潜つて、格子の外から、頼むと声を掛けて見様かと思つた。すると、椽側に近く、ぴしやりと脛を叩く音がした。それから、人が立つて、奥へ這入つて行く気色であつた。やがて話声が聞こえた。何の事か善く聴き取れなかつたが、声は慥かに、平岡と三千代であつた。話声はしばらくで歇んで仕舞つた。すると又足音が椽側迄近付いて、どさりと尻を卸す音が手に取る様に聞こえた。代助は夫れなり塀の傍を退いた。さうして元来た道とは反対の方角に歩き出した。
しばらくは、何処を何う歩いてゐるか夢中であつた。其間代助の頭には今見た光景ばかりが煎り付く様に踊つてゐた。それが、少し衰へると、今度は自己の行為に対して、云ふべからざる汚辱の意味を感じた。彼は何の故に、斯(かゝ)る下劣な真似をして、恰かも驚ろかされたかの如くに退却したのかを怪しんだ。彼は暗い小路に立つて、世界が今夜に支配されつゝある事を私かに喜んだ。しかも五月雨の重い空気に鎖されて、歩けば歩く程、窒息する様な心持がした。神楽坂上へ出た時、急に眼がぎら／＼した。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店を上がつた。
家へ帰ると、門野が例の如く漫然たる顔をして、
「大分遅うがしたな。御飯はもう御済になりましたか」と聞いた。
代助は飯が欲しくなかつたので、要らない由を答へて、門野を追ひ帰す様に、書斎から退けた。が、二三分立たない内に、又手を鳴らして呼び出した。
「宅から使ひは来やしなかつたかね」
「いゝえ」
代助は、
「ぢや、宜しい」と云つた限りであつた。門野は物足りなさうに入口に立つてゐたが、
「先生は、何ですか、御宅へ御出でになつたんぢや無かつたんですか」
「何故」と代助は六づかしい顔をした。
「だつて、御出掛けになるとき、そんな御話しでしたから」
代助は門野を相手にするのが面倒になつた。
「宅へは行つたさ。――宅から使ひが来なければそれで、好いぢやないか」
門野は不得要領に、
「はあ左様ですか」と云ひ放して出て行つた。代助は、父があらゆる世界に対してよりも、自分に対して、性急であるといふ事を知つてゐるので、ことによると、帰つた後から直ぐ使ひでも寄こしはしまいかと恐れて聞き糺したのであつた。門野が書生部屋へ引き取つたあとで、明日は是非共三千代に逢はなければならないと決心した。
其夜代助は寐ながら、何う云ふ手段で三千代に逢はうかと云ふ問題を考へた。手紙を車夫に持たせて宅へ呼びに遣れば、来る事は来るだらうが、既に今日嫂との会談が済んだ以上は、明日にも、兄か嫂の為に、向ふから襲はれないとも限らない。又平岡のうちへ行つて逢ふ事は代助に取つて一種の苦痛があつた。代助は已を得ず、自分にも三千代にも関係のない所で逢ふより外に道はないと思つた。
夜半から強く雨が降り出した。釣つてある蚊帳が、却つて寒く見える位な音がどう／＼と家を包んだ。代助は其音の中に夜の明けるのを待つた。 (青空文庫より)
◇評論
「角上」…角川文庫版には「津守」とあり、「新宿区荒木町にある坂」とある。
「士官学校の前を真直に濠端へ出て、二三町来ると砂土原町へ曲がるべき所を、代助はわざと電車路に付いて歩いた。彼は例の如くに宅へ帰つて、一夜を安閑と、書斎の中で暮らすに堪えなかつたのである。濠を隔てゝ高い土手の松が、眼のつゞく限り黒く並んでゐる底の方を、電車がしきりに通つた。代助は軽い箱が、軌道の上を、苦もなく滑つて行つては、又滑つて帰る迅速な手際に、軽快の感じを得た。其代り自分と同じ路を容赦なく往来(ゆきゝ)する外濠線の車を、常よりは騒々 敷く悪んだ。牛込見附迄来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影を認めた。代助は夕飯を食ふ考もなく、三千代のゐる方角へ向いて歩いて行つた」。
自然と三千代に誘引される代助。以前彼は、同じように堀端を歩いたことがあった。
「代助は堀端へ出た。此間迄向ふの土手にむら躑躅が、団団と紅白の模様を青い中に印してゐたのが、丸で跡形もなくなつて、のべつに草が生い茂つてゐる高い傾斜の上に、大きな松が何十本となく並んで、何処迄もつゞいてゐる。空は奇麗に晴れた。代助は電車に乗つて、宅へ行つて、嫂に調戯つて、誠太郎と遊ばうと思つたが、急に厭になつて、此松を見みながら、草臥れる所迄堀端を伝つて行く気になつた」11-1
「平岡の家の傍迄来ると、板塀から例の如く灯が射してゐた。代助は塀の本に身を寄せて、凝と様子を窺(うかゞ)つた」。完全にストーカーと同じ状態の代助。彼は家の中の様子をうかがう。「しばらくは、何の音もなく、家のうちは全く静かであつた」。「椽側に近く、ぴしやりと脛を叩く音がした。それから、人が立つて、奥へ這入つて行く気色であつた」。これは、平岡だ。「やがて話声が聞こえた。何の事か善く聴き取れなかつたが、声は慥かに、平岡と三千代であつた」。「すると又足音が椽側迄近付いて、どさりと尻を卸す音が手に取る様に聞こえた」これも平岡だ。平岡の存在を確かに感じた代助は、だから「夫れなり塀の傍を退」き、「さうして元来た道とは反対の方角に歩き出した」。三千代には平岡との日常が厳然としてあり、それは今も普通に営まれている。「しばらくは、何処を何う歩いてゐるか夢中であつた」「代助の頭には今見た光景ばかりが煎り付く様に踊つてゐた」。代助は、自分の「下劣な真似」に、「云ふべからざる汚辱の意味を感じた」。平岡の存在を前に、彼は
と、「恰かも驚ろかされたかの如くに退却」するしかない。
幸い、彼の行為は「夜」の「支配」によって露見されない。しかし、「五月雨の重い空気に鎖されて、歩けば歩く程、窒息する様な心持がした」。三千代への思いが届かない鬱屈。その欲動は彼の「眼」を「ぎら／＼」させ、「身を包む無数の人と、無数の光」によって「遠慮なく」「頭」を「焼」かれた彼は、「逃げる様に藁店を上がつた」。
父からの呼び出しの使いは来ていなかった。代助は、「明日は是非共三千代に逢はなければならないと決心した」。その方法として、「已を得ず、自分にも三千代にも関係のない所で逢ふより外に道はないと思つた」。「夜半から」「降り出した」強い雨の音に、代助はまんじりともせず一夜を過ごす。
