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夏目漱石「それから」本文と評論14-5「日は血の様に毒々しく照つた」

◇本文

 代助は今迄冗談に斯んな事を梅子に向つて云つた事が能くあつた。梅子も始めはそれを本気に受けた。そつと手を廻して真相を探つて見た抔といふ滑稽もあつた。事実が分つて以後は、代助の所謂好いた女は、梅子に対して一向 利目(きゝめ)がなくなつた。代助がそれを云ひ出しても、丸で取り合はなかつた。でなければ、茶化してゐた。代助の方でも夫れで平気であつた。然し此場合丈は彼に取つて、全く特別であつた。顔付と云ひ、眼付と云ひ、声の低い底に籠る力と云ひ、此所(こゝ)迄押し(せま)つて来た前後の関係と云ひ、凡ての点から云つて、梅子をはつと思はせない訳に行かなかつた。嫂は此短い句を、(ひら)めく懐剣の如くに感じた。

 代助は帯の間から時計を出して見た。父の所へ来てゐる客は中々帰りさうにもなかつた。空は又曇つて来た。代助は一旦引き上げて又改めて、父と話を付けに出直す方が便宜だと考へた。

「僕は又来ます。出直して来て御父さんに御目に掛かる方が好いでせう」と立ちにかかつた。梅子は其間に回復した。梅子は飽く迄人の世話を焼く実意のある丈に、物を中途で投げる事の出来ない女であつた。抑える様に代助を引き留めて、女の名を聞いた。代助は固より答へなかつた。梅子は是非にと逼つた。代助は夫れでも応じなかつた。すると梅子は何故其女を貰はないのかと聞き出した。代助は単純に貰へないから、貰はないのだと答へた。梅子は仕舞に涙を流した。他の尽力を出し抜いたと云つて恨んだ。何故始めから打ち明けて話さないかと云つて責めた。かと思ふと、気の毒だと云つて同情して呉れた。けれども代助は三千代に就ては、遂に何事も語らなかつた。梅子はとう/\我()を折つた。代助の愈(いよ/\)帰ると云ふ間際になつて、

「ぢや、貴方から(ぢか)に御父さんに御話しなさるんですね。それ迄は私は黙つてゐた方が好いでせう」と聞いた。代助は黙つてゐて貰ふ方が好いか、話して貰ふ方が好いか、自分にも分からなかつた。

左様(さう)ですね」と躊躇したが、「どうせ、(ことわ)りに来るんだから」と云つて嫂の顔を見た。

「ぢや、()し話す方が都合が好ささうだつたら話しませう。もし又悪い様だつたら、何にも云はずに置くから、貴方が始めから御話しなさい。夫れが()いでせう」と梅子は親切に云つて呉れた。代助は、

何分(なにぶん)(よろ)しく」と頼んで外へ出た。角へ来て、四谷から歩く積りで、わざと、塩町行きの電車に乗つた。練兵場の横を通るとき、重い雲が西で切れて、梅雨には珍らしい夕陽が、真赤になつて広い原一面を照らしてゐた。それが向ふを行く車の輪に(あた)つて、輪が回る度に鋼鉄(はがね)の如く光つた。車は遠い原の中に小さく見えた。原は車の小さく見える程、広かつた。日は血の様に毒々しく照つた。代助は此光景を斜めに見ながら、風を切つて電車に持つて行かれた。重い頭の中がふら/\した。終点迄来た時は、精神が身体を(おか)したのか、精神の方が身体に冒されたのか、(いや)な心持がして早く電車を降りたかつた。代助は雨の用心に持つた蝙蝠傘(かうもりがさ)を、杖の如く引き()つて歩いた。

 歩きながら、自分は今日、(みづか)ら進んで、自分の運命の半分を破壊したのも同じ事だと、心のうちに(つぶやい)た。今迄は父や嫂を相手に、好い加減な間隔を取つて、柔らかに自我を通して来た。今度は愈本性を(あら)はさなければ、それを通し切れなくなつた。同時に、此方面に向つて、在来の満足を求め得る希望は少なくなつた。けれども、まだ逆戻りをする余地はあつた。たゞ、夫れには又父を胡魔化す必要が出て来るに違なかつた。代助は腹の中で今迄の(われ)を冷笑した。彼は()うしても、今日の告白を以て、自己の運命の半分を破壊したものと認めたかつた。さうして、それから受ける打撃の反動として、思ひ切つて三千代の上に、()(かぶ)さる様に烈しく働き掛けたかつた。

 彼は此次(このつぎ)父に逢ふときは、もう一歩も後へ引けない様に、自分の方を(こしらえ)て置きたかつた。それで三千代と会見する前に、又父から呼び出される事を深く恐れた。彼は今日嫂に、自分の意思を父に話す話さないの自由を与へたのを悔いた。今夜にも話されれば、明日の朝呼ばれるかも知れない。すると今夜中に三千代に逢つて己れを語つて置く必要が出来る。然し夜だから都合がよくないと思つた。 (青空文庫より)


◇評論

前話の最後の、「姉さん、私は好いた女があるんです」という代助のセリフを承けた話。「代助は今迄冗談に斯んな事を梅子に向つて云つた事が能くあつた」。

しかし今回の代助は違う。「顔付と云ひ、眼付と云ひ、声の低い底に籠る力と云ひ、此所(こゝ)迄押し(せま)つて来た前後の関係と云ひ、凡ての点から云つて、梅子をはつと思はせない訳に行かなかつた」。

普段の鷹揚な様子とは違う代助とその口から出た思いもよらぬ言葉に、嫂「(ひら)めく懐剣の如くに感じた」。代助の「真面目」さと、切羽詰まった様子に、ふだん懇意にしている自分の身ですら切られてしまうのではないかと恐れる嫂。


「父の所へ来てゐる客は中々帰りさうにもなかつた」。「代助は一旦引き上げて又改めて、父と話を付けに出直す方が便宜だと考へた」。


「僕は又来ます。出直して来て御父さんに御目に掛かる方が好いでせう」と言う代助に、「飽く迄人の世話を焼く実意のある」嫂は、「女の名を聞」き、それがかなわぬと「何故其女を貰はないのかと聞き出した」。「梅子は仕舞に涙を流した。他の尽力を出し抜いたと云つて恨」み、「何故始めから打ち明けて話さないかと云つて責め」、「かと思ふと、気の毒だと云つて同情」する。このあたりの嫂は、その人の良さと義弟を慮る真心が感じられる。古い時代の女性の名残がうかがわれる場面。

()し話す方が都合が好ささうだつたら」嫂が話し、「もし又悪い様だつたら、何にも云はずに置く」ことになった。


この物語において「赤」は重要な意味を持つ。ここでも代助の運命が大きく変化する様子を象徴する。「梅雨には珍らしい」「真赤」な「夕陽」。しかも「それが向ふを行く車の輪に(あた)つて、輪が回る度に鋼鉄(はがね)の如く光つた」。「日は血の様に毒々しく照つた」。「赤」は心臓の働きに敏感な代助と、心臓の病を持つ三千代のイメージ。しかもそれがぐるぐる回っている。代助の運命は「風を切つて電車に持つて行かれた」。「重い頭の中がふら/\した」代助は、「精神が身体を(おか)したのか、精神の方が身体に冒されたのか、(いや)な心持がして早く電車を降り」たがり、また、「蝙蝠傘(かうもりがさ)を、杖の如く引き()つて歩いた」。意気込んで結婚を断ろうと父のもとを訪ねたが空振りに終わった代助は、これからの運命を予測しややひるんだ状態になっている。まだ実際の行動は起こしていない。しかしその前からすでに疲れ切った状態。


「歩きながら、自分は今日、(みづか)ら進んで、自分の運命の半分を破壊したのも同じ事だと、心のうちに(つぶやい)た」。

結婚の拒絶は運命の半分破壊だと捉える代助。これからは、「本性を(あら)はさなければ」、「自我」「を通し切れなくなつた」。それと同時に、父からの経済的援助はもう受けられまいと思う。

「今日の告白を以て」、自分で「自己の運命の半分を破壊したものと認め」、「それから受ける打撃の反動として、思ひ切つて三千代の上に、()(かぶ)さる様に烈しく働き掛けたかつた」。「自己の運命の半分を破壊」するという爆発力の勢いを、三千代に接近する手立てとする代助。そこにはやや自主性や自律性の弱さを感じる。次の、「彼は此次(このつぎ)父に逢ふときは、もう一歩も後へ引けない様に、自分の方を(こしらえ)て置きたかつた」というのも同じだ。「三千代と会見する前に、又父から呼び出される事を深く恐れ」、「嫂に、自分の意思を父に話す話さないの自由を与へたのを悔い」、「今夜中に三千代に逢つて己れを語つて置く必要が出来」たことを「夜だから都合がよくないと思」う。これらはすべて、一直線に三千代に向かうことを妨げる「不倫」という事実による。

それにしても、最後の、「然し夜だから都合がよくないと思つた」というのは、弱腰、腰砕けだ。その程度の「覚悟」なのかと問いたくなる。


代助の三千代に寄せる愛は、真実のものだろう。しかしその相手は人妻だ。この壁を越えるには、三千代が平岡と離婚することを前提とし、その後に愛をはぐくみ代助と結婚するという道筋をたどる必要がある。だから比喩的に言うと、代助は今すぐ彼女に「()(かぶ)さる」わけにはいかない。平岡の承諾が必要だ。

また、経済的自立も彼には必要となる。いつまでも高等遊民を気取ってはいられない生活の現実にさらされることになる。その予感が、「赤」が、ぐるぐる回る「車の輪」に当たり、「鋼鉄(はがね)の如く光」ることに表象される。「毒々しく照」る「日」は、「血」を想起させる。

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