夏目漱石「それから」本文と評論14-4「姉さん、私は好いた女があるんです」
◇本文
代助の方では、もう云ふ可き事を云ひ尽した様な気がした。少くとも、是れより進んで、梅子に自分を説明しやうといふ考は丸で無かつた。梅子は語るべき事、聞くべき事を沢山持つてゐた。たゞ夫れが咄嗟の間に、前の問答に繋り好く、口へ出て来なかつたのである。
「貴方の知らない間に、縁談が何れ程進んだのか、私にも能く分らないけれど、誰にしたつて、貴方が、さう的確御断りなさらうとは思ひ掛けないんですもの」と梅子は漸くにして云つた。
「何故です」と代助は冷やかに落ち付いて聞いた。梅子は眉を動かした。
「何故ですつて聞いたつて、理窟ぢやありませんよ」
「理窟でなくつても構はないから話して下さい」
「貴方の様にさう何遍断つたつて、詰り同じ事ぢやありませんか」と梅子は説明した。けれども、其意味がすぐ代助の頭には響かなかつた。不可解の眼を挙げて梅子を見た。梅子は始めて自分の本意を布衍しに掛かつた。
「つまり、貴方だつて、何時か一度は、御奥さんを貰ふ積りなんでせう。厭だつて、仕方がないぢやありませんか。其様何時迄も我儘を云つた日には、御父さんに済まない丈ですわ。だからね。何うせ誰を持つて行つても気に入らない貴方なんだから、つまり誰を持たしたつて同じだらうつて云ふ訳なんです。貴方には何んな人を見せても駄目なんですよ。世の中に一人も気に入る様なものは生きてやしませんよ。だから、奥さんと云ふものは、始めから気に入らないものと、諦めて貰ふより外に仕方がないぢやありませんか。だから私達が一番好いと思ふのを、黙つて貰へば、夫で何所も彼所も丸く治まつちまふから、――だから、御父さんが、殊によると、今度は、貴方に一から十迄相談して、何か為さらないかも知れませんよ。御父さんから見れば夫が当り前ですもの。さうでも、為なくつちや、生きてる内に、貴方の奥さんの顔を見る事は出来ないぢやありませんか」
代助は落ち付いて嫂の云ふ事を聴いてゐた。梅子の言葉が切れても、容易に口を動かさなかつた。若し反駁をする日には、話が段々込み入る許りで、此方の思ふ所は決して、梅子の耳へ通らないと考へた。けれども向ふの云ひ分を肯ふ気は丸でなかつた。実際問題として、双方が困る様になる許りと信じたからである。それで、嫂に向つて、
「貴方の仰やる所も、一理あるが、私にも私の考があるから、まあ打遣つて置いて下さい」と云つた。其調子には梅子の干渉を面倒がる気色が自然と見えた。すると梅子は黙つてゐなかつた。
「そりや代さんだつて、小供ぢやないから、一人前の考の御有りな事は勿論ですわ。私なんぞの要らない差出口は御迷惑でせうから、もう何にも申しますまい。然し御父さんの身になつて御覧なさい。月々の生活費は貴方の要ると云ふ丈今でも出して入らつしやるんだから、つまり貴方は書生時代よりも余計御父さんの厄介になつてる訳でせう。さうして置いて、世話になる事は、元より世話になるが、年を取つて一人前になつたから、云ふ事は元の通りには聞かれないつて威張つたつて通用しないぢやありませんか」
梅子は少し激したと見えて猶も云ひ募らうとしたのを、代助が遮つた。
「だつて、女房を持てば此上猶御父さんの厄介に為らなくつちや為らないでせう」
「宜いぢやありませんか、御父さんが、其方が好いと仰しやるんだから」
「ぢや、御父さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、是非持たせる決心なんですね」
「だつて、貴方に好いたのがあればですけれども、そんなのは日本中探して歩いたつて無いんぢやありませんか」
「何うして、夫れが分かります」
梅子は張りの強い眼を据ゑて、代助を見た。さうして、
「貴方は丸で代言人の様な事を仰しやるのね」と云つた。代助は蒼白くなつた額を嫂の傍へ寄せた。
「姉さん、私は好いた女があるんです」と低い声で云ひ切つた。
(青空文庫より)
◇評論
「僕は今度の縁談を断わらうと思ふ」と嫂に告げた代助は、「もう云ふ可き事を云ひ尽した様な気がした」。
しかし嫂は「語るべき事、聞くべき事を沢山持つてゐた」。
・「貴方が、さう的確御断りなさらうとは思ひ掛けないんですもの」…平生はのらりくらりと躱す会話しかしない代助が、今回は「きっぱり」としていることへの不審。
・「貴方の様にさう何遍断つたつて、詰り同じ事ぢやありませんか」
・「つまり、貴方だつて、何時か一度は、御奥さんを貰ふ積りなんでせう。厭だつて、仕方がないぢやありませんか」…嫂は、結婚が人の人生において必然だと考える。
・「其様何時迄も我儘を云つた日には、御父さんに済まない丈ですわ」…今回の結婚話を断ると、父に迷惑がかかることを重視すべきだ。
・「貴方には何んな人を見せても駄目」「だから私達が一番好いと思ふのを、黙つて貰へば、夫で何所も彼所も丸く治まつちまふ」
・御父さんが代助に相談せずに事を進めるのは、「御父さんから見れば夫が当り前」だ。なぜなら「さうでも、為なくつちや、生きてる内に、貴方の奥さんの顔を見る事は出来ない」からだ。
嫂の考えをまとめると、男は30歳にもなれば結婚するのが当然。父親がその心配をするのも当たり前で、子がそれに逆らうのは親不孝だ。ということ。一方で嫂は、代助の幸せを願っている。それが彼の望む形ではないにせよ。
「代助は落ち付いて嫂の云ふ事を聴いてゐた」。梅子の言葉は、世間一般的にはその通りだ。しかし今の代助には、それに従うことができない。彼は世には認められない愛を貫こうとしているからだ。だから代助は自分の考えを他者に説明し理解してもらうことは困難だと考える。それはたとえ嫂であっても同じだ。「若し反駁をする日には、話が段々込み入る許りで、此方の思ふ所は決して、梅子の耳へ通らないと考へた」。
従って、この時の代助の「貴方の仰やる所も、一理あるが、私にも私の考があるから、まあ打遣つて置いて下さい」という言葉が精いっぱいの説明と言うことになる。しかしこれは当然、「梅子の干渉を面倒がる気色が自然と見え」ることになる。
嫂は反駁する。そうしてそれは、代助の弱点を的確に突く言葉となった。
「月々の生活費は貴方の要ると云ふ丈今でも出して入らつしやるんだから、つまり貴方は書生時代よりも余計御父さんの厄介になつてる」。「さうして置いて、世話になる事は、元より世話になるが、年を取つて一人前になつたから、云ふ事は元の通りには聞かれないつて威張つたつて通用しない」
相変わらずの親がかりの身で、それにもかかわらず親の言うことが聞けないというのはわがままだ、ということ。
これに対して代助は、「だつて、女房を持てば此上猶御父さんの厄介に為らなくつちや為らないでせう」と反論するが、これは反論になっていない。そもそも彼は、父親の金があるから高等遊民として存在可能なのだ。普通は、言うことが聞けない相手からの援助は断るものだろう。それなのに、自立を考えず、相変わらず援助を受けることを前提にして父の薦める相手と結婚するとなおさら父に迷惑をかけるというのは、論理が破綻している。代助の論理と美的生活は、どこまでも父の金が基盤となっており、それを彼は疑わずまた無意識に前提とする。そこに彼の決定的な弱点がある。
嫂は、「宜いぢやありませんか、御父さんが、其方が好いと仰しやるんだから」と、軽く解釈して返す。これは彼女の、代助を追い込みすぎない優しさでもある。
「ぢや、御父さんは、いくら僕の気に入らない女房でも、是非持たせる決心なんですね」
以前父は代助に、誰か好きな女はいるのかと尋ねたことがある。
(「ぢや、佐川は已めるさ。さうして誰でも御前の好きなのを貰つたら好いだらう。誰か貰ひたいのがあるのか」と云つた」9-4)
その時に代助が正直に、好きなものがいると言うことはできた。しかしその相手は人妻であり、ここに代助の倫理的弱点がある。
従って、「「姉さん、私は好いた女があるんです」と低い声で云ひ切つ」ても、その成就は普通叶わない。
まとめると、代助は、二重の意味で弱点を持ち、彼の願い・意志をかなえることは困難だ。
1、人妻への愛
2、経済的自立を欠く
それなのに自己の意志を押し通そうとする。それは一見、自己の意志や決断の尊重に見えるが、そのよって立つ基盤が脆弱では、それを貫くことは不可能だ。経済と倫理という二つの重要な価値観から疎外された状態の代助。




