表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/113

夏目漱石「それから」本文と評論14-3「僕は今度の縁談を断わらうと思ふ」

◇本文

 けれども、代助の精神は、結婚謝絶と、其謝絶に次いで起るべき、三千代と自分の関係にばかり注がれてゐた。従つて、いくら平生の自分に帰つて、梅子の相手になる積でも、梅子の予期してゐない、変つた音色(ねいろ)が、時々会話の中に、思はず知らず出て来た。

「代さん、貴方(あなた)今日は()うかしてゐるのね」と仕舞に梅子が云つた。代助は(もと)より嫂の言葉を側面へ()らして受ける法をいくらでも心得てゐた。然るに、それを()るのが、軽薄の様で、又面倒な様で、今日は(いや)になつた。(かへ)つて真面目に、何処(どこ)が変か教へて呉れと頼んだ。梅子は代助の問が馬鹿気てゐるので妙な顔をした。が、代助が益(ます/\)(たの)むので、では云つて上げませうと前置をして、代助の何うかしてゐる例を挙げ出した。梅子は勿論わざと真面目を装つてゐるものと代助を解釈した。其中に、

「だつて、兄さんが留守勝ちで、嘸御淋しいでせうなんて、あんまり思遣(おもひや)りが好過(よす)ぎる事を仰しやるからさ」と云ふ言葉があつた。代助は其所(そこ)へ自分を(はさ)んだ。

「いや、僕の知つた女に、左様(さう)云ふのが一人あつて、実は甚だ気の毒だから、つい他の女の心持ちも聞いて見たくなつて、(うかが)つたんで、決して冷やかした積りぢやないんです」

「本当に? ()りや一寸(ちよい)と何てえ方なの」

「名前は()(にく)いんです」

「ぢや、貴方が其旦那に忠告をして、奥さんをもつと可愛がるやうにして御上げになれば()いのに」

 代助は微笑した。

「姉さんも、さう思ひますか」

「当り前ですわ」

「もし其夫が僕の忠告を聞かなかつたら、何うします」

「そりや、何うも仕様がないわ」

「放つて置くんですか」

「放つて置かなけりや、何うなさるの」

「ぢや、其細君は夫に対して細君の道を守る義務があるでせうか」

大変理責(りぜ)めなのね。()りや旦那の不親切の度合にも()るでせう」

「もし、其細君に好きな人があつたら何うです」

「知らないわ。馬鹿らしい。好きな人がある位なら、始めつから其方(そつち)へ行つたら好いぢやありませんか」

 代助は黙つて考へた。しばらくしてから、姉さんと云つた。梅子は其深い調子に驚ろかされて、改めて代助の顔を見た。代助は同じ調子で猶ほ云つた。

「僕は今度の縁談を断わらうと思ふ」

 代助の巻烟草を持つた手が少し(ふる)へた。梅子は寧ろ表情を失つた顔付をして、謝絶の言葉を聞いた。代助は相手の様子に頓着なく進行した。

「僕は今迄結婚問題に就いて、貴方に何返となく迷惑を掛けた上に、今度も亦心配して貰つてゐる。僕ももう三十だから、貴方の云ふ通り、大抵な所で、御勧め次第になつて好いのですが、少し考があるから、この縁談もまあ()めにしたい希望です。御父さんにも、兄さんにも済まないが、仕方がない。何も当人が気に入らないと云ふ訳ではないが、断るんです。此間御父さんによく考へて見ろと云はれて、大分考へて見たが、矢っ張り断る方が好い様だから断ります。実は今日は其用で御父さんに逢ひに来たんですが、今御客の様だから、(つい)でと云つては失礼だが、貴方にも御話をして置きます」

 梅子は代助の様子が真面目なので、何時(いつ)もの如く無駄口も入れずに聞いてゐたが、聞き終つた時、始めて自分の意見を述べた。それが(きわ)めて簡単な且つ極めて実際的な短かい句であつた。

「でも、御父さんは屹度御困りですよ」

「御父さんには僕が(ぢか)に話すから構ひません」

「でも、話がもう此所(こゝ)迄進んでゐるんだから」

「話が何所(どこ)迄進んでゐやうと、僕はまだ(もら)ひますと云つた事はありません」

「けれども判然(はつきり)(もら)はないとも仰しやらなかつたでせう」

「それを今云ひに来た所です」

 代助と梅子は向ひ合つたなり、しばらく黙つた。 (青空文庫より)


◇評論

 「真面目」になった「代助の精神は、結婚謝絶と、其謝絶に次いで起るべき、三千代と自分の関係にばかり注がれて」おり、いつもとは「変つた音色(ねいろ)が、時々会話の中に、思はず知らず出て来た」。嫂は「代さん、貴方(あなた)今日は()うかしてゐるのね」と尋ねる。代助は「真面目に、何処(どこ)が変か教へて呉れと頼んだ」。

「兄さんが留守勝ちで、嘸御淋しいでせう」という言葉は、三千代をイメージしたものだった。


この後のふたりの会話をまとめる。

嫂「貴方が其旦那に忠告をして、奥さんをもつと可愛がるやうにして御上げになれば()いのに」

代助「もし其夫が僕の忠告を聞かなかつたら」

嫂「何うも仕様がない」。「放つて置かなけりや、何うなさるの」

代助「其細君は夫に対して細君の道を守る義務があるでせうか」

嫂「()りや旦那の不親切の度合にも()るでせう」

代助「もし、其細君に好きな人があつたら何うです」

嫂「馬鹿らしい。好きな人がある位なら、始めつから其方(そつち)へ行つたら好いぢやありませんか」

嫂は詳細を知らずとも、問題の核心を突いた答えを提示す。全く嫂の言うとおりだ。そこで自分たちは決定的に間違ってしまった。だから代助は、過去を取り戻すための行動を「決断」し、実行するのだ。


代助は父親に告げる前にまず嫂に決意表明をする。

「僕は今度の縁談を断わらうと思ふ」

これに対する梅子の忠告は、「でも、御父さんは屹度御困りですよ」、「話がもう此所(こゝ)迄進んでゐるんだから」、「けれども判然(はつきり)(もら)はないとも仰しやらなかつたでせう」というものだった。しかしそれらは代助の決断を覆すに至らない。

「代助と梅子は向ひ合つたなり、しばらく黙つた」。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ