夏目漱石「それから」本文と評論14-2「世間の夫婦は夫れで済んで行くものかな」
◇本文
斯う決心した翌日、代助は久し振りに髪を刈つて髯を剃つた。梅雨に入つて二三日凄まじく降つた揚句なので、地面にも、木の枝にも、埃らしいものは悉くしつとりと静まつてゐた。日の色は以前より薄かつた。雲の切れ間から、落ちて来る光線は、下界の湿り気のために、半ば反射力を失つた様に柔らかに見えた。代助は床屋の鏡で、わが姿を映しながら、例の如くふつくらした頬を撫でゝ、今日から愈積極的生活に入るのだと思つた。
青山へ来て見ると、玄関に車が二台程あつた。供待ちの車夫は蹴込みに倚り掛かつて眠つた儘、代助の通り過ぎるのを知らなかつた。座敷には梅子が新聞を膝の上へ乗せて、込み入つた庭の緑をぼんやり眺めてゐた。是もぽかんと眠さうであつた。代助はいきなり梅子の前へ坐つた。
「御父さんは居ますか」
嫂は返事をする前に、一応代助の様子を、試験官の眼で見た。
「代さん、少し瘠せた様ぢやありませんか」と云つた。代助は又頬を撫でて、
「そんな事も無いだらう」と打ち消した。
「だつて、色沢が悪いのよ」と梅子は眼を寄せて代助の顔を覗き込んだ。
「庭の所為だ。青葉が映るんだ」と庭の植込みの方を見たが、「だから貴方だつて、矢っ張り蒼いですよ」と続けた。
「私、此二三日具合が好くないんですもの」
「道理でぽかんとして居ると思つた。何うかしたんですか。風邪ですか」
「何だか知らないけれど生欠許ばかり出て」
梅子は斯う答へて、すぐ新聞を膝から卸すと、手を鳴らして、小間使ひを呼んだ。代助は再び父の在、不在を確かめた。梅子は其問をもう忘れてゐた。聞いて見ると、玄関にあつた車は、父の客の乗つて来たものであつた。代助は長く懸らなければ、客の帰る迄待たうと思つた。嫂は判然しないから、風呂場へ行つて、水で顔を拭いて来ると云つて立つた。下女が好い香ひのする葛の粽を、深い皿に入れて持つて来た。代助は粽の尾をぶら下げて、頻りに嗅いで見た。
梅子が涼しい眼付きになつて風呂場から帰つた時、代助は粽の一つを振子の様に振りながら、今度は、
「兄さんは何うしました」と聞いた。梅子はすぐ此陳腐な質問に答へる義務がないかの如く、しばらく椽鼻に立つて、庭を眺めてゐたが、
「二三日の雨で、苔の色が悉皆出た事」と平生に似合はぬ観察をして、故の席に返つた。さうして、
「兄さんが何うしましたつて」と聞き直した。代助は先の質問を繰り返した時、嫂は尤も無頓着な調子で、
「何うしましたつて、例の如くですわ」と答へた。
「相変らず、留守勝ちですか」
「えゝ、えゝ、朝も晩も滅多に宅に居た事はありません」
「姉さんは夫れで淋しくはないですか」
「今更改たまつて、そんな事を聞いたつて仕方がないぢやありませんか」と梅子は笑ひ出した。調戯ふんだと思つたのか、あんまり小供染みてゐると思つたのか殆んど取り合ふ気色はなかつた。代助も平生の自分を振り返つて見て、真面目に斯んな質問を掛けた今の自分を、寧ろ奇体に思つた。今日迄兄と嫂の関係を長い間目撃してゐながら、ついぞ其所には気が付かなかつた。嫂も亦代助の気が付く程物足りない素振りは見せた事がなかつた。
「世間の夫婦は夫れで済んで行くものかな」と独言の様に云つたが、別に梅子の返事を予期する気もなかつたので、代助は向かふの顔も見ず、たゞ畳の上に置いてある新聞に眼を落とした。すると梅子は忽ち、
「何んですつて」と切り込む様に云つた。代助の眼が、其調子に驚ろいて、ふと自分の方に視線を移した時、
「だから、貴方が奥さんを御貰ひなすつたら、始終宅に許りゐて、たんと可愛がつて御上げなさいな」と云つた。代助は始めて相手が梅子であつて、自分が平生の代助でなかつた事を自覚した。それで成るべく不断の調子を出さうと力めた。 (青空文庫より)
◇評論
前話の、「代助は縁談を断るより外に道はなくなつた」を承けた部分。
「斯う決心した翌日、代助は久し振りに髪を刈つて髯を剃つた」
…父との決戦に向かう前に、姿を整え気分を変える様子。
決断による心の落ち着きと同様に、「地面」も「木の枝」も「悉くしつとりと静まつてゐた」。「雲の切れ間から、落ちて来る光線」も「柔らか」だ。「代助は床屋の鏡で、わが姿を映しながら、例の如くふつくらした頬を撫でゝ、今日から愈積極的生活に入るのだと思つた」。多少の気力のみなぎりを感じる代助。
「青山へ来て見ると」すべてが「眠つた」ような状態だった。梅子も「込み入つた庭の緑をぼんやり眺めて」おり、「是もぽかんと眠さうであつた」。嵐の前の静けさ。眠ったような我が家。
「此二三日具合が好くない」、「何だか知らないけれど生欠許ばかり出て」と告げる嫂。「玄関にあつた車は、父の客の乗つて来たものであつた。代助は長く懸らなければ、客の帰る迄待たうと思つた」。
代助の質問に「嫂は尤も無頓着な調子で、「何うしましたつて、例の如くですわ」と答える。夫は「相変らず、留守勝ち」で、「朝も晩も滅多に宅に居た事は」ない。「姉さんは夫れで淋しくはないですか」という代助の問いに嫂は、「今更改たまつて、そんな事を聞いたつて仕方がないぢやありませんか」と笑い出す。代助が、嫂の「淋し」さという心情に「真面目」に寄り添う言葉を急に発したので、彼女は、「調戯」い、「あんまり小供染みてゐる」と思い、「殆んど取り合ふ気色はなかつた」。代助自身、「平生」は決して言わない自分の言葉に「寧ろ奇体に思つた」。「今日迄兄と嫂の関係を長い間目撃してゐながら、ついぞ其所には気が付かなかつた」からだ。代助にとって嫂夫婦は夫婦の一つの典型となる。三千代へと向かおうとする代助は、もし恋愛が成就した後に、自分と三千代の関係はどうなるのかに興味がわいたための発言だ。「嫂も亦代助の気が付く程物足りない素振りは見せた事がなかつた」。
「世間の夫婦は夫れで済んで行くものかな」という代助のつぶやきに、嫂は「何んですつて」と敏感に反応する。「だから、貴方が奥さんを御貰ひなすつたら、始終宅に許りゐて、たんと可愛がつて御上げなさいな」。これは嫂の普段見せない真情が漏れ出た言葉だ。「平生の」自分ではないことを「自覚した」代助は、この後、「成るべく不断の調子を出さうと力め」る。




