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夏目漱石「それから」本文と評論13-8「精神的に敗残した人間の、消極的な哲学」

◇本文

 此言葉を聞いたとき、代助は平岡が(にく)くなつた。あからさまに自分の腹の中を云ふと、そんなに家庭が嫌ひなら、嫌ひでよし、其代り細君を()つちまふぞと判然(はつきり)知らせたかつた。けれども二人の問答は、其所(そこ)迄行くには、まだ中中(なかなか)(あひだ)があつた。代助はもう一遍 (ほか)の方面から平岡の内部に触れて見た。

「君が東京へ()たてに、僕は君から説教されたね。何か()れつて」

「うん。さうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろいた」

 代助は実際平岡が驚ろいたらうと思つた。その時の平岡は、熱病に罹(かゝ)つた人間の如く行為(アクシヨン)に渇いてゐた。彼は行為の結果として、富を(こいねが)つてゐたか、もしくは名誉、もしくは権勢を冀つてゐたか。()れでなければ、活動としての行為其物を求めてゐたか。それは代助にも分からなかつた。

「僕の様に精神的に敗残した人間は、已を得ず、あゝ云ふ消極な意見も出すが。――元来意見があつて、人がそれに(のつと)るのぢやない。人があつて、其人(そのひと)に適した様な意見が出て来るのだから、僕の説は僕丈に通用する丈だ。決して君の身の上を、あの説で、()うしやうの()うしやうのと云ふ訳ぢやない。僕はあの時の君の意気に敬服してゐる。君はあの時自分で云つた如く、全く活動の人だ。是非共活動して貰ひたい」

「無論大いに()る積りだ」

 平岡の答へはたゞ此一句 ()りであつた。代助は腹の中で首を傾けた。

「新聞で遣る積りかね」

 平岡は一寸(ちよつと)躊躇した。が、やがて、判然(はつきり)云ひ放つた。――

「新聞にゐるうちは、新聞で遣る積りだ」

「大いに要領を得てゐる。僕だつて君の一生涯の事を聞いてゐるんぢやないから、返事はそれで沢山だ。然し新聞で君に面白い活動が出来るかね」

「出来る積りだ」と平岡は簡明な挨拶をした。

 話は此所(こゝ)迄来ても、たゞ抽象的に進んだ丈であつた。代助は言葉の上でこそ、要領を得たが、平岡の本体を見届ける事は(ちつ)とも出来なかつた。代助は何となく責任のある政府委員か弁護士を相手にしてゐる様な気がした。代助は此時思ひ切つた政略的な御世辞を云つた。それには軍神広瀬中佐の例が出て来た。広瀬中佐は日露戦争のときに、閉塞隊に加はつて(たお)れたため、当時の人から偶像(アイドル)視されて、とう/\軍神と迄崇められた。けれども、四五年後の今日に至つて見ると、もう軍神広瀬中佐の名を口にするものも殆んどなくなつて仕舞つた。英雄(ヒーロー)流行(はや)(すた)りはこれ程急劇なものである。と云ふのは、多くの場合に於て、英雄とは其時代に極めて大切な人といふ事で、名前丈は偉さうだけれども、本来は甚だ実際的なものである。だから其大切な時機を通り越すと、世間は其資格を段々奪ひにかゝる。露西亜と戦争の最中こそ、閉塞隊は大事だらうが、平和克復の(あかつき)には、百の広瀬中佐も全くの凡人に過ぎない。世間は隣人に対して現金である如く、英雄に対しても現金である。だから、()う云ふ偶像にも亦常に新陳代謝や生存競争が行はれてゐる。さう云ふ訳で、代助は英雄なぞに(かつ)がれたい了見は更にない。が、もし(ここ)に野心があり覇気のある快男子があるとすれば、一時的の剣の力よりも、永久的の筆の力で、英雄になつた方が長持ちがする。新聞は其方面の代表的事業である。

 代助は此所(こゝ)迄述べて見たが、元来が御世辞の上に、云ふ事があまり書生らしいので、自分の内心には多少滑稽に取れる位、気が乗らなかつた。平岡は其返事に、

「いや難有う」と云つた丈であつた。別段腹を立てた様子も見えなかつたが、(ちつ)とも感激してゐないのは、此返事でも明かであつた。

 代助は少々平岡を低く見過ぎたのに恥ぢ入つた。実は此側(このがは)から、彼の心を動かして、旨く油の乗つた所を、中途から転がして、元の家庭へ滑り込ませるのが、代助の計画であつた。代助は此迂遠で、又尤も困難の方法の出立点から、程遠からぬ所で、蹉跌して仕舞つた。 (青空文庫より)


◇評論

「此言葉を聞いたとき、代助は平岡が(にく)くなつた」…前話の、「家庭か。家庭もあまり下さつたものぢやない。家庭を重く見るのは、君の様な独身者に限る様だね」という平岡の言葉に反応した代助の感想。彼はさらに進んで、「そんなに家庭が嫌ひなら、嫌ひでよし、其代り細君を()つちまふぞと判然(はつきり)知らせたかつた」。


「代助はもう一遍 (ほか)の方面から平岡の内部に触れて見た。「君が東京へ()たてに、僕は君から説教されたね。何か()れつて」。「うん。さうして君の消極な哲学を聞かされて驚ろいた」」

…平岡の上京当時、代助が平岡家を訪ねたことがあった。酒が入った二人の会話に平岡が、「今日は久し振りに好い心持に酔つた。なあ君。――君はあんまり好い心持にならないね。何どうも怪しからん。僕が昔の平岡常次郎になつてるのに、君が昔の長井代助にならないのは怪しからん。是非なり給へ。さうして、大いに遣つて呉れ給へ。僕も是れから遣る。から君も遣つて呉れ給へ」と言う場面がある。続いて、「何故働かない」との問いに代助は、「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」。「斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴つてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所に来てゐる。日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ」。「そりや今だつて、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね。さうして僕の怠惰性に打ち勝つ丈の刺激も亦いくらでも出来て来るだらうと思ふ。然し是ぢや駄目だ。今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、君の所謂有りの儘の世界を、有の儘で受取つて、其中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外の人を、此方の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの――」と答える。さらに、「あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭(パン)を離れてゐる」、「生活の為の労力は、労力の為の労力でない」、「食ふ為の職業は、誠実にや出来悪い」、「衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働きでなくつちや、真面目な仕事は出来るものぢやない」、などと言ったことを指す。


「僕の様に精神的に敗残した人間は」以降の代助の言説は、無理に論理を組み立てた、ふたりにとって無駄な説明だ。だからそれを聞かされる平岡も読者も、代助はいったい何を言いたいのか、その意図と意味が全く不明で煙に巻かれた気になる。その意味では漱石のドラマツルギーは成功しているとも言えるのだが、なにせ聞かされる方はつらい。何の説明にも説得にもなっておらず、何が言いたいのかがわからないからだ。あまりに「抽象的」で、あまりに「政略的な御世辞」。そこに代助の真情はなく、「此側(このがは)から、彼の心を動か」すのは無理だし、「中途から転がして、元の家庭へ滑り込ませる」のはさらに無理な「計画」だ。

この代助の「蹉跌」は、彼があまりに三千代を思うが故のものと理解すべきなのだろう。三千代への愛という真実を隠して説得しようとしても、迂遠な論理にならざるを得ない。平岡は、こいつは何を言っているのだと思っただろう。

だから、「其夜代助は平岡と遂に愚図々々で分かれた」(次話)となる。

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