夏目漱石「それから」本文と評論13-7「大分変つたよ。あゝ、大分変つたよ」
◇本文
代助は平岡の言語の如何に拘はらず、自分の云ふ事丈は云はうと極めた。なまじい、借金の催促に来たんぢやない抔と弁明すると、又平岡が其裏を行くのが癪だから、向ふの疳違ひは、疳違ひで構はないとして置いて、此方は此方の歩を進める態度に出た。けれども第一に困つたのは、平岡の勝手元の都合を、三千代の訴へによつて知つたと切り出しては、三千代に迷惑が掛かるかも知れない。と云つて、問題が其所に触れなければ、忠告も助言も全く無益である。代助は仕方なしに迂回した。
「君は近来斯う云ふ所へ大分頻繁に出はいりをすると見えて、家のものとは、みんな御馴染みだね」
「君の様に金回りが好くないから、さう豪遊も出来ないが、交際だから仕方がないよ」と云つて、平岡は器用な手付きをして猪口を口へ着けた。
「余計な事だが、それで家の方の経済は、収支 償ふのかい」と代助は思ひ切つて猛進した。
「うん。まあ、好い加減にやつてるさ」
斯う云つた平岡は、急に調子を落として、極めて気のない返事をした。代助は夫限食ひ込めなくなつた。已むを得ず、
「不断は今頃もう家へ帰つてゐるんだらう。此間僕が訪ねた時は大分遅かつた様だが」と聞いた。すると、平岡は矢張問題を回避する様な語気で、
「まあ帰つたり、帰らなかつたりだ。職業が斯う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧に云つた。
「三千代さんは淋しいだらう」
「なに大丈夫だ。彼奴も大分変つたからね」と云つて、平岡は代助を見た。代助は其 眸の内に危しい恐れを感じた。ことによると、此夫婦の関係は元に戻せないなと思つた。もし此夫婦が自然の斧で割き限りに割かれるとすると、自分の運命は取り帰しの付かない未来を眼の前に控えてゐる。夫婦が離れゝば離れる程、自分と三千代はそれ丈接近しなければならないからである。代助は即座の衝動の如くに云つた。――
「そんな事が、あらう筈がない。いくら、変つたつて、そりや唯年を取つた丈の変化だ。成るべく帰つて三千代さんに安慰を与へて遣れ」
「君はさう思ふか」と云ひさま平岡はぐいと飲んだ。代助は、たゞ、
「思ふかつて、誰だつて左様思はざるを得んぢやないか」と半ば口から出任せに答へた。
「君は三千代を三年前の三千代と思つてるか。大分変つたよ。あゝ、大分変つたよ」と平岡は又ぐいと飲んだ。代助は覚えず胸の動悸を感じた。
「同じだ、僕の見る所では全く同じだ。少しも変つてゐやしない」
「だつて、僕は家へ帰つても面白くないから仕方がないぢやないか」
「そんな筈はない」
平岡は眼を丸くして又代助を見た。代助は少し呼吸が逼つた。けれども、罪あるものが雷火に打たれた様な気は全たくなかつた。彼は平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云つた。然しそれは眼の前にゐる平岡のためだと固く信じて疑はなかつた。彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便りに、自分を三千代から永く振り放さうとする最後の試みを、半ば無意識的に遣つた丈であつた。自分と三千代の関係を、平岡から隠す為の、糊塗策とは毫も考へてゐなかつた。代助は平岡に対して、左程に不信な言動を敢てするには、余りに高尚であると、優に自己を評価してゐた。しばらくしてから、代助は又平生の調子に帰つた。
「だつて、君がさう外へ許出てゐれば、自然金も要る。従つて家の経済も旨く行かなくなる。段々家庭が面白くなくなる丈ぢやないか」
平岡は、白襯衣の袖を腕の中途迄 捲り上げて、
「家庭か。家庭もあまり下さつたものぢやない。家庭を重く見るのは、君の様な独身者に限る様だね」と云つた。 (青空文庫より)
◇評論
「代助は平岡の言語の如何に拘はらず、自分の云ふ事丈は云はうと極めた~此方は此方の歩を進める態度に出た」…こんなやくざな男はまともに相手にできないといった代助の様子。
茶屋の「家のものとは、みんな御馴染み」であり、「器用な手付きをして猪口を口へ着け」る平岡に、「「余計な事だが、それで家の方の経済は、収支 償ふのかい」と代助は思ひ切つて猛進した」。
平岡は、「うん。まあ、好い加減にやつてるさ」と「急に調子を落として、極めて気のない返事をした」。
「不断は今頃もう家へ帰つてゐるんだらう」と代助が聞くと、「平岡は矢張問題を回避する様な語気で、「まあ帰つたり、帰らなかつたりだ。職業が斯う云ふ不規則な性質だから、仕方がないさ」と、半ば自分を弁護するためらしく、曖昧に云つた」。
次の、「三千代さんは淋しいだらう」という代助の言葉は、以前三千代が代助にこぼした「淋しくつて不可いから、又来て頂戴」を当然承けている。代助は、三千代の代わりに平岡に尋ねたのだ。
「「なに大丈夫だ。彼奴も大分変つたからね」と云つて、平岡は代助を見た。代助は其 眸の内に危しい恐れを感じた」。三千代の淋しさに全く寄り添わず突き放す平岡の答えに代助は、「ことによると、此夫婦の関係は元に戻せないなと思つた」。さらに、「もし此夫婦が自然の斧で割き限りに割かれるとすると」、「自分と三千代はそれ丈接近しなければならない」。「自分の運命は取り帰しの付かない未来を眼の前に控えてゐる」と感じる。
「代助は即座の衝動の如くに云つた。――「そんな事が、あらう筈がない。いくら、変つたつて、そりや唯年を取つた丈の変化だ。成るべく帰つて三千代さんに安慰を与へて遣れ」」。代助の真情がこぼれた言葉。
平岡は三千代を「大分変つたよ。あゝ、大分変つたよ」と評する。「代助は覚えず胸の動悸を感じた」。代助の三千代への愛はまったく変わっていない。そうして今三千代は弱っている。このままでは生活が立ち行かないだけでなく、彼女の命にも危険が迫る可能性がある。「同じだ、僕の見る所では全く同じだ。少しも変つてゐやしない」。
「家へ帰つても面白くない」という平岡の言葉に、「そんな筈はない」と強く否定する代助。「平岡は眼を丸くして又代助を見」、「代助は少し呼吸が逼つた」。しかしそれは「罪あるものが雷火に打たれた」わけではなかつた。何の根拠もなく「そんな筈はない」と「平生にも似ず論理に合はない事をたゞ衝動的に云」う代助だが、「然しそれは眼の前にゐる平岡のためだと固く信じて疑はなかつた」。「彼は平岡夫婦を三年前の夫婦にして、それを便りに、自分を三千代から永く振り放さうとする最後の試みを、半ば無意識的に遣つた丈であつた」。「自分と三千代の関係を、平岡から隠す為の、糊塗策」ではない。「高尚」な態度で友人に苦言を呈しているのだと、代助は「己を評価してゐた」。
平岡の、「家庭か。家庭もあまり下さつたものぢやない。家庭を重く見るのは、君の様な独身者に限る様だね」という言葉は、結婚をし、生活を営み、子供ができ、それが不幸にも亡くなり、仕事がうまくいかず、妻が病気になり、むしゃくしゃして放蕩に走り……という辛い経験をした自分と比べて、高等遊民で安穏とした暮らしを楽しむ代助への皮肉。
一方で平岡はこの時、代助がなぜこのように興奮し、三千代を高く評価しているのだろうと不思議にも思っているだろう。それは自分たちの仲を昔に戻そうとしているようにも見えるが、何か不自然なものを感じていてもおかしくない。




