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夏目漱石「それから」本文と評論13-6「ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れやうか」

◇本文

 裏通りを三四丁来た所で、平岡が先へ立つて或家に這入つた。座敷の軒に釣忍(つりしのぶ)が懸ゝつて、狭い庭が水で一面に濡れてゐた。平岡は上衣を脱いで、すぐ胡坐(あぐら)をかいた。代助は左程暑いとも思はなかつた。団扇は手にした丈で済んだ。

 会話は新聞社内の有様から始まつた。平岡は忙しい様で却つて楽な商買で好いと云つた。其語気には別に負惜しみの様子も見えなかつた。代助は、それは無責任だからだらうと調戯(からか)つた。平岡は真面目になつて、弁解をした。さうして、今日の新聞事業程競争の烈しくて、機敏な頭を要するものはないと云ふ理由(わけ)を説明した。

「成程たゞ筆が達者な丈ぢや仕様があるまいよ」と代助は別に感服した様子を見せなかつた。すると、平岡は()う云つた。

「僕は経済方面の係りだが、単にそれ丈でも中々面白い事実が(あが)つてゐる。ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れやうか」

 代助は自分の平生の観察から、()んな事を云はれて、驚ろく程ぼんやりしては居なかつた。

「書くのも面白いだらう。其代り公平に願ひたいな」と云つた。

「無論嘘は書かかない積りだ」

「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体(いちれついつたい)に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ」

 平岡は此時邪気のある笑ひ方をした。さうして、

「日糖事件丈ぢや物足りないからね」と奥歯に物の挟まつた様に云つた。代助は黙つて酒を飲んだ。話は此調子で段々はずみを失ふ様に見えた。すると平岡は、実業界の内状に関聯するとでも思つたものか、何かの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起つた逸話を代助に吹聴した。その時、大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納める筈になつてゐた。それを毎日何頭かづつ、納めて置いては、夜になると、そつと行つて(ぬす)み出して来た。さうして、知らぬ顔をして、翌日(あくるひ)同じ牛を又納めた。役人は毎日々々同じ牛を何遍も買つてゐた。が仕舞に気が付いて、一遍受取つた牛には焼印を押した。所がそれを知らずに、又偸み出した。のみならず、それを平気に翌日連れて行つたので、とう/\露見して仕舞つたのださうである。

 代助は此話(このはなし)を聞いた時、その実社会に触れてゐる点に於て、現代的滑稽の標本だと思つた。平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後ろに巡査が二三人 宛(づゝ)昼夜 張番(はりばん)をしてゐる。一時は天幕(てんと)を張つて、其中から(ねら)つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。今本郷に現はれた、今神田へ来たと、()れから夫れへと電話が掛かつて東京市中大騒ぎである。新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる。同じ仲間の飴屋が、大道で飴細工を(こしら)えてゐると、白服(しろふく)の巡査が、飴の前へ鼻を出して、邪魔になつて仕方がない。

 是も代助の耳には、真面目な響きを与へなかつた。

「矢っ張り現代的滑稽の標本ぢやないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を(いど)んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生(いつも)の様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。先刻(さつき)平岡の呼ばうと云ふ芸者を無理に已めさしたのも是が為であつた。

「実は君に話したい事があるんだが」と代助は(つい)に云ひ出した。すると、平岡は急に様子を変へて、落ち付かない眼を代助の上に注いだが、卒然として、

「そりや、僕も()うから、何うかする積りなんだけれども、今の所ぢや仕方がない。もう少し待つて呉れ玉へ。其代り君の兄さんや御父さんの事も、()うして書かずにゐるんだから」と代助には意表な返事をした。代助は馬鹿馬鹿しいと云ふより、寧ろ一種の憎悪を感じた。

「君も大分変つたね」と冷やかに云つた。

「君の変つた如く変つちまつた。()()れちや仕方がない。だから、もう少し待つて呉れ給へ」と答へて、平岡はわざとらしい笑ひ方をした。 (青空文庫より)


◇評論

「裏通りを三四丁来た所で、平岡が先へ立つて或家に這入つた。座敷の軒に釣忍(つりしのぶ)が懸ゝつて、狭い庭が水で一面に濡れてゐた」。


釣忍(つりしのぶ)」…シノブをたばねて、井桁(いげた)やいかだ、玉などに作り、軒下につるして涼味を楽しむもの。(三省堂「新明解国語辞典」)


ふたりが入った「或家」は、茶屋・待合だろう。この後に、「先刻(さつき)平岡の呼ばうと云ふ芸者を無理に已めさしたのも是が為であつた」とある。


「平岡は上衣を脱いで、すぐ胡坐(あぐら)をかいた」…男友達同士の、隔てのないさま。

「会話は新聞社内の有様から始まつた。平岡は忙しい様で却つて楽な商買で好いと云つた」。「代助は、それは無責任だからだらうと調戯(からか)つた」…これも気のおけない仲だからだ。

「僕は経済方面の係りだが、単にそれ丈でも中々面白い事実が(あが)つてゐる。ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れやうか」…代助の「調戯(からか)」いに対し、小さな牙をむく平岡。「僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体(いちれついつたい)に筆誅して貰ひたい」という代助に、「平岡は此時邪気のある笑ひ方をした。さうして、「日糖事件丈ぢや物足りないからね」と奥歯に物の挟まつた様に云つた」。代助の弱みを握っているのだというそぶりの平岡に、「代助は黙つて酒を飲んだ」。下劣だと蔑む気持ちを酒によって飲み込んだ場面。


当然、「話は此調子で段々はずみを失ふ様に見えた」。「すると平岡は、実業界の内状に関聯するとでも思つたものか、何かの拍子に、ふと、日清戦争の当時、大倉組に起つた逸話を代助に吹聴した」。大倉組は広島で、軍隊用の食料品として、何百頭かの牛を陸軍に納めていたが、(ぬす)み出してはまた納めるという詐欺行為を働いていた。

「代助は此話(このはなし)を聞いた時、その実社会に触れてゐる点に於て、現代的滑稽の標本だと思つた」。儲けのためなら平気な顔で不正を働く企業。


「平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した」。巡査が昼夜 張番(はりばん)をしてゐる。「秋水が外出すると、巡査が後を付け」、「東京市中大騒ぎである」。また、「新宿警察署では秋水一人の為に月々百円使つてゐる」等。

「是も代助の耳には、真面目な響きを与へなかつた」。「「矢っ張り現代的滑稽の標本ぢやないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を(いど)んだ」。

平岡が滔々と話す話題は、代助にとって不真面目な、「興味」がそそられない「世間話」だった。「先刻(さつき)平岡の呼ばうと云ふ芸者を無理に已めさしたのも是が為であつた」。


平岡のつまらぬ「世間話」が済み、「「実は君に話したい事があるんだが」と代助は(つい)に云ひ出した」。

「すると、平岡は急に様子を変へて、落ち付かない眼を代助の上に注いだが、卒然として、「そりや、僕も()うから、何うかする積りなんだけれども、今の所ぢや仕方がない。もう少し待つて呉れ玉へ。其代り君の兄さんや御父さんの事も、()うして書かずにゐるんだから」と代助には意表な返事をした」。話があるという代助に、借金返済の催促だろうと勘違いする平岡。しかもそれがかなわぬ言い訳として、「其代り君の兄さんや御父さんの事も、()うして書かずにゐるんだから」と「意表な返事」をする。これを聞いた代助は、「馬鹿馬鹿しいと云ふより、寧ろ一種の憎悪を感じた」。代助は三千代に貸した金を早く返してほしいとは全く思っていない。先ほどまでの世間話は、その話題にならないようごまかすためのものだったということになる。代助がわざわざ仕事先までやってきたため、平岡は借金の話だろうと思ったのだろう。この平岡の邪推に対する怒りが、「一種の憎悪」の中身だ。


「「君も大分変つたね」と冷やかに云つた」…代助は平岡を侮蔑する。

「「君の変つた如く変つちまつた。()()れちや仕方がない。だから、もう少し待つて呉れ給へ」と答へて、平岡はわざとらしい笑ひ方をした」…平岡は、「()()れちや仕方がない」と自虐し、しかし代助の弱みを握っていることは揺るがないと、「わざとらしい笑ひ方」をする。


昔と違い今の自分は「()()れ」てしまったという平岡。しかしそれに続いて「だから、もう少し待つて呉れ給へ」というのは一見意味がつながらない。平岡の文脈をたどると、昔は真面目だった自分も、世の荒波にもまれて汚れてしまった。だから、友人から借りた金も、真面目には返せない。ずる賢い人間になってしまったからだ。と言いたいのだ。そうしてその言葉にふさわしい、「わざとらしい笑ひ方」をしたのだ。「自分はもう堅気ではなくなってしまったから、なかなか返さないよ」と悪ぶる平岡。

こんな男に三千代は預けられないと代助は思うだろう。

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