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夏目漱石「それから」本文と評論13-5「淋しくつていけないから、また来て頂戴」

◇本文

 しばらく黙然として三千代の顔を見てゐるうちに、女の頬から血の色が次第に退いて行つて、普通よりは眼に付く程蒼白くなつた。其時代助は三千代と差向かひで、より長く坐つてゐる事の危険に、始めて気が付いた。自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆つて、準縄(じゆんじよう)(らつ)を踏み超えさせるのは、(いま)二三分の(うち)にあつた。代助は固より()れより先へ進んでも、猶 素知(そし)らぬ顔で引返し得る、会話の方を心得てゐた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来くる男女の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆(ほうし)で、且つあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪しんでゐた。原語で読めば兎に角、日本には訳し得ぬ趣味のものと考へてゐた。従つて彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞(せりふ)を用ひる意志は毫もなかつた。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所(そこ)に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危険が潜んでゐた。代助は辛うじて、今一歩と云ふ際どい所で、踏み留ゞまつた。帰る時、三千代は玄関迄送つて来て、

(さむ)しくつて不可(いけな)いから、又来て頂戴」と云つた。下女はまだ裏で張物(はりもの)をしてゐた。

 (おもて)へ出た代助は、ふら/\と一丁程歩いた。()い所で切り上げたといふ意識があるべき筈であるのに、彼の心にはさう云ふ満足が(ちつ)とも無かつた。と云つて、もつと三千代と対座してゐて、自然の命ずるが儘(まゝ)に、話し尽して帰れば()かつたといふ後悔もなかつた。彼は、彼所(あすこ)で切り上げても、五分十分の後切り上げても、必竟は同じ事であつたと思ひ出した。自分と三千代との現在の関係は、此前逢つた時、既に発展してゐたのだと思ひ出した。否、其前逢つた時既に、と思ひ出した。代助は二人の過去を順次に(さかのぼ)つて見て、いづれの断面にも、二人の間に燃える愛の炎を見出さない事はなかつた。必竟は、三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた時、彼は堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。彼は其の重量の為に、足がふらついた。家に帰つた時、門野が、

「大変顔の色が悪い様ですね、()うかなさいましたか」と聞いた。代助は風呂場へ行つて、蒼い額から奇麗に汗を拭き取つた。さうして、長く延び過ぎた髪を冷水に(ひた)した。

 それから二日程代助は全く外出しなかつた。三日目の午後、電車に乗つて、平岡を新聞社に尋ねた。彼は平岡に逢つて、三千代の為に充分話をする決心であつた。給仕に名刺を渡して、(ほこり)だらけの受付に待つてゐる間、彼はしばしば(たもと)から手帛(ハンケチ)を出して、鼻を掩ふた。やがて、二階の応接間へ案内された。其所(そこ)は風通しの悪い、蒸し暑い、陰気な狭い部屋であつた。代助は此所(こゝ)で烟草(たばこ)を一本吹かした。編輯室と書いた戸口が始終開いて、人が出たり這入(はい)つたりした。代助の逢ひに来た平岡も其戸口から現はれた。先達て見た夏服を着て、相変らず奇麗な(カラ)とカフスを掛けてゐた。忙しさうに、

「やあ、(しばら)く」と云つて代助の前に立つた。代助も相手に唆(そゝの)かされた様に立ち上がつた。二人は立ちながら一寸話をした。丁度編輯のいそがしい時で(ゆつく)()うする事も出来なかつた。代助は改めて平岡の都合を聞いた。平岡はポツケツトから時計を出して見て、

「失敬だが、もう一時間程して来てくれないか」と云つた。代助は帽子を取つて、又暗い埃だらけの階段を下りた。表へ出ると、夫れでも涼しい風が吹いた。

 代助はあてもなく、其所(そこ)いらを逍遥(ぶらつ)いた。さうして、愈平岡と逢つたら、どんな風に話を切り出さうかと工夫した。代助の意は、三千代に刻下の安慰を、少しでも与へたい為に外ならなかつた。けれども、夫れが為に、却つて平岡の感情を害する事があるかも知れないと思つた。代助は其悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ予想した。然し、其時は何んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成案はなかつた。代助は三千代と相対(あひたい)づくで、自分等二人の間をあれ以上に何うかする勇気を()たなかつたと同時に、三千代のために、何かしなくては居られなくなつたのである。だから、今日の会見は、理知の作用から出た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の旋風(つむじ)()き込まれた冒険の働きであつた。其所(そこ)に平生の代助と異なる点があらはれてゐた。けれども、代助自身は()れに気が付いてゐなかつた。一時間の後彼は又編輯室の入口に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た。 (青空文庫より)


◇評論

準縄(じゆんじよう)(らつ)」…「準縄」は、きそく、てほん。ここは、道徳の範囲・限界の意味。(角川文庫注釈)


身の不幸を改めて認識した三千代は、ひとりではどうする手立てもない窮状にある。そのままただじっとこらえ、ただ身の破滅を待つしかない三千代の命の灯は、今、代助の前で消えようとしている。生気の無くなる彼女の様子に、代助は思わず抱きしめたくなる。それはとても「自然」な感情であり、「自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆つて、準縄(じゆんじよう)(らつ)を踏み超えさせるのは、(いま)二三分の(うち)にあつた」。

窮状にあればあるほど強く結ばれるのが、真の愛の持ち主たちだろう。


ここまでは簡潔な表現で良いのだが、続く「彼は西洋の小説を読むたびに~舶来の台詞(せりふ)を用ひる意志は毫もなかつた」は、全く不要だ。この蛇足は、ふたりの熱情に水を差す。

また、「少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所(そこ)に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危険が潜んでゐた」も、よくわからない。「尋常の言葉」での会話が、ふたりに一線を越えさせるとは、短い普通の言葉がむしろふたりを強く結びつけたと言いたいのだろうが。

ここは、「代助は辛うじて、今一歩と云ふ際どい所で、踏み留ゞまつた」だけでいい。


代助を玄関まで送つて来た三千代の、「(さむ)しくつて不可(いけな)いから、又来て頂戴」という言葉は、彼の胸に重く響いただろう。愛する者の孤独の訴えは、自分がそのそばにいてやらねばならないという気持ちと意志を強く抱かせる。別離後の代助の心には、三千代の嘆く姿がくっきりと存在しただろう。

「下女はまだ裏で張物(はりもの)をしてゐた」という表現は、世を忍ぶ恋でつながれる代助と三千代に対し、世間はそれを許さないということを表す。下女に関係がバレたら、大ごとだ。まさに「家政婦は見た」になる。そのすれすれのラインに代助と三千代はいることを浮かび上がらせる効果がある。


それにしても三千代の、「(さむ)しくつて不可(いけな)いから、又来て頂戴」というセリフの効果は絶大だ。これは、「あなたを愛しています」よりも数倍の破壊力を持って代助の心をとらえる。愛する女性からこんなことを言われた世の男性はすべて、ヘロヘロ、ヨレヨレになってしまうだろう。アムロばりに、「行きまーす!!」と叫ぶだろう。三千代の真情であるとともに、悪い女でもある。この一言は、男性に簡単に一線を越えさせる力を持つ。


従ってこの後代助は、「ふらふら」になる。「(おもて)へ出た代助は、ふら/\と一丁程歩いた」。

この後の代助の思考過程をまとめる。

・「()い所で切り上げた」という「意識」・「満足」が、全く無い。

・「と云つて、もつと三千代と対座してゐて、自然の命ずるが儘(まゝ)に、話し尽して帰れば()かつたといふ後悔」もない。

→「彼所(あすこ)で切り上げても、五分十分の後切り上げても、必竟は同じ事であつたと思ひ出した」。「自分と三千代との現在の関係は、此前逢つた時、既に発展してゐたのだ」→「否、其前逢つた時既に」→「二人の過去」の「いづれの断面にも、二人の間に燃える愛の炎を見出さない事はなかつた」。

〇結論

「三千代が平岡に嫁ぐ前、既に自分に嫁いでゐたのも同じ事だと考へ詰めた」→「堪えがたき重いものを、胸の中に投げ込まれた。彼は其の重量の為に、足がふらついた」。

代助は、三千代との交流を振り返る。そうして、平岡との結婚の前からすでに自分は彼女を愛しており、彼女もまた同じく自分を愛していたのだという結論にたどり着いた。

ふたりの愛の重さと、当時それに気づけなかった後悔が、代助を苦しめる。


「二日程」の沈吟の後、代助は、「三日目の午後、電車に乗つて、平岡を新聞社に尋ねた」。「三千代の為に充分話をする決心であつた」。彼を待っていたのは、「(ほこり)だらけの受付」、「風通しの悪い、蒸し暑い、陰気な狭い」応接間だった。代助はたまらず、「しばしば(たもと)から手帛(ハンケチ)を出して、鼻を掩ふた」り、「烟草(たばこ)を一本吹かした」りする。美を重んずる代助には、とても長居はできない場所であり、本来ならば訪れない「忙しい」場所だ。やっと姿を現した平岡もせわしない。「一時間程」後の再会を約束し、「代助は帽子を取つて、又暗い埃だらけの階段を下りた」。やっと「表へ出」た彼の心にも、「涼しい風が吹いた」。


代助の来意は、「三千代に刻下の安慰を、少しでも与へたい為に外ならなかつた」。しかし、「夫れが為に、却つて平岡の感情を害する事があるかも知れ」ず、「其悪結果の極端として、平岡と自分の間に起り得る破裂をさへ予想した」。「其時は何んな具合にして、三千代を救はうかと云ふ成案はな」い。

「代助は三千代と相対(あひたい)づくで、自分等二人の間をあれ以上に何うかする勇気を()たなかつたと同時に、三千代のために、何かしなくては居られなくなつたのである」。

あと「二三分の(うち)」で一線を越えそうだった場面について、「自分等二人の間をあれ以上に何うかする勇気を()たなかつた」とする代助。


かわいそうな三千代のために、とにかく何かをしなければならないという衝動に駆られた代助にとって、「今日の会見は、理知の作用から出た安全の策と云ふよりも、寧ろ情の旋風(つむじ)()き込まれた冒険の働きであつた」。さうして「其所(そこ)に平生の代助と異なる点があらはれてゐた」。「けれども、代助自身は()れに気が付いてゐなかつた」。ここに語り手が登場する珍しい場面。この物語では、基本的に代助と語り手が一体となった説明がされている。とくに心情表現でそれが顕著なのだが、ここでは語り手と代助の分裂が見られる。通常このような場合、語り手によって登場人物が批判的に表現されることが多い。ここもそれに当てはまる。ここでこのような表現になっているのは、代助が平生とは違った状態であることの強調であるからだ。代助は今、「理知」を離れ、「情の旋風(つむじ)()き込まれた冒険の働き」をしようとしている。


「一時間の後彼は又編輯室の入口に立つた。さうして、平岡と一所に新聞社の門を出た」。次話が待たれる効果的な表記法だ。



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