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夏目漱石「それから」本文と評論13-2「肉の美と霊の愛」

◇本文

 其時代助の脳の活動は、夕闇を驚ろかす蝙蝠(かはほり)の様な幻像をちらり/\と産み出すに過ぎなかつた。其 羽搏(はばたき)の光を追ひ掛けて寐てゐるうちに、頭が(ゆか)から浮き上がつて、ふわ/\する様に思はれて来た。さうして、何時(いつ)の間にか軽い眠りに(おちい)つた。

 すると突然誰か耳の(はた)で半鐘を打つた。代助は火事と云ふ意識さへまだ起こらない先に眼を()ました。けれども()ね起きもせずに寐てゐた。彼の夢に()んな音の出るのは殆んど普通であつた。ある時はそれが正気に返つた後迄も響いてゐた。五六日前彼は、彼の家の大いに揺れる自覚と共に眠りを破つた。其時彼は明らかに、彼の下に動く畳の(さま)を、肩と腰と()の一部に感じた。彼は又夢に得た心臓の鼓動を、覚めた後迄持ち伝へる事が(しばしば)あつた。そんな場合には聖徒(セイント)の如く、胸に手を当てゝ、眼を開けた儘(まゝ)、じつと天井を見詰めてゐた。

 代助は此時も半鐘の音が、じいんと耳の底で鳴り尽くして仕舞ふ迄横になつて待つてゐた。それから起きた。茶の間へ来て見ると、自分の膳の上に簀垂(すだれ)が掛けて、火鉢の傍に据ゑてあつた。柱時計はもう十二時回つてゐた。婆さんは、(めし)を済ました後と見えて、下女部屋で御櫃(おはち)の上に(ひぢ)を突いて居眠りをしてゐた。門野は何処(どこ)へ行つたか影さへ見えなかつた。

 代助は風呂場へ行つて、頭を濡らしたあと、(ひと)り茶の間の膳に就いた。そこで、淋しい食事を済まして、再び書斎に戻つたが、久し振りに今日は少し書見をしやうと云ふ心組(こゝろぐ)みであつた。

 かねて読み掛けてある洋書を、(しをり)の挟んである所で開けて見ると、前後の関係を丸で忘れてゐた。代助の記憶に取つて()う云ふ現象は寧ろ珍らしかつた。彼は学校生活の時代から一種の読書家であつた。卒業の後も、衣食の(わづら)ひなしに、講読の利益を適意に収め得る身分を誇りにしてゐた。一 (ページ)も眼を通さないで、日を送ることがあると、習慣上何となく荒癈の感を催ふした。だから大抵な事故があつても、成るべく都合して、活字に親しんだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした。

 代助は今茫然として、烟草(たばこ)(くゆ)らしながら、読み掛けた頁を二三枚あとへ()つて見た。そこに何んな議論があつて、それが何う続くのか、頭を(こしら)える為に一寸骨を折つた。其努力は(はしけ)から桟橋へ移る程楽ではなかつた。食ひ違つた断面の甲に迷付(まごつ)いてゐるものが、急に乙に移るべく余儀なくされた様であつた。代助はそれでも辛抱して、約二時間程眼を頁の上に(さら)してゐた。が仕舞にとう/\堪え切れなくなつた。彼の読んでゐるものは、活字の集合(あつまり)として、ある意味を以て、彼の頭に(えい)ずるには違ひないが、彼の肉や血に(まは)る気色は一向見えなかつた。彼は氷嚢を隔てゝ、氷に食ひ付いた時の様に物足らなく思つた。

 彼は書物を伏せた。さうして、こんな時に書物を読むのは無理だと考へた。同時にもう安息する事も出来なくなつたと考へた。彼の苦痛は何時(いつ)ものアンニユイではなかつた。何も()るのが(ものう)いと云ふのとは違つて、何か()なくてはゐられない頭の状態であつた。

 彼は立ち上がつて、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛けた。さうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿()いて()け出す様に門を出た。時は四時頃であつた。神楽坂を下りて、(あて)もなく、眼に付いた第一の電車に乗つた。車掌に行先を問はれたとき、口から出任せの返事をした。紙入れを開けたら、三千代に()つた旅行費の余りが、三折(みつをり)深底(ふかぞこ)の方にまだ這入つてゐた。代助は乗車券を買つた後で、札の数を調べて見た。

 彼は其晩を赤坂のある待合で暮した。其所(そこ)で面白い話を聞いた。ある若くて美くしい女が、去る男と関係して、其種(そのたね)宿(やど)した所が、(いよいよ)子を生む段になつて、涙を(こぼ)して悲しがつた。後から其訳を聞いたら、こんな年で子供を生ませられるのは情けないからだと答へた。此女は愛を(もつぱ)らにする時機が余り短か過ぎて、親子の関係が容赦もなく、若い頭の上を襲つて来たのに、一種の無定を感じたのであつた。それは無論 堅気(かたぎ)の女ではなかつた。代助は肉の美と、霊の愛にのみ己を捧げて、其他を顧みぬ女の心理状体として、此話を甚だ興味あるものと思つた。 (青空文庫より)


◇評論

 三千代との愛・「自然」を取るか、父の斡旋(あっせん)する女を(めと)り、美的生活を続けるか。代助は今、決めかねている。

「其時代助の脳の活動は、夕闇を驚ろかす蝙蝠(かはほり)の様な幻像をちらり/\と産み出すに過ぎなかつた」。未来の正解が得られず、そのかすかな影だけが、「蝙蝠(かはほり)の様な幻像」となって心をかすめる。湧き上がるイメージは、彼の精神状態を混乱させ、「頭が(ゆか)から浮き上がつて、ふわ/\する様に思はれて来た」。やがて疲れた彼は、「何時(いつ)の間にか軽い眠りに(おちい)つた」。

精神の不安は、眠りを浅くする。誰かが「耳の(はた)で半鐘を打つた」かのように思い、「代助は火事と云ふ意識さへまだ起こらない先に眼を()ました」。夢・イメージと現実が、混濁している状態。「けれども()ね起きもせずに寐てゐた」。意識は覚醒したが、体は反応しない。「()んな音の出る」夢を見ることが「殆んど普通」であり、「ある時はそれが正気に返つた後迄も響いてゐた」。夢やイメージが、現実世界にまで侵食し始めている様子。代助は、精神に異常を来す間際まで行っている。

半鐘の音だけではない。体を揺する地震により彼は目覚める。「其時彼は明らかに、彼の下に動く畳の(さま)を、肩と腰と()の一部に感じた」。しかしこれも半鐘と同様、現実に起こったものかどうかはあいまいだ。突然襲う不安によって「夢に得た心臓の鼓動を、覚めた後迄持ち伝へる事が(しばしば)あつた」。彼は心臓の働きに重きを置く男だ。「そんな場合には聖徒(セイント)の如く、胸に手を当てゝ、眼を開けた儘(まゝ)、じつと天井を見詰めてゐた」。時間の経過による安静に頼るしかない様子。

代助が起きると、「柱時計はもう十二時回つてゐた」。

夢と現実のあわいが不明瞭になる精神状態は、体や心から生きる力を奪う。この時の代助の心は、とても不安定で危険な状態にある。人生の選択が求められる場面で、そのどちらも選べず悶々とする代助。


「風呂場へ行つて、頭を濡らし」、「淋しい食事を済まし」、書斎で「久し振りに今日は少し書見をしやうと云ふ心組(こゝろぐ)みであつた」。

心の乱れを、身を整え、腹を満たし、書物によって整えようとする場面。

「かねて読み掛けてある洋書を、(しをり)の挟んである所で開けて見ると、前後の関係を丸で忘れてゐた」。心の乱れはこのようなところにも現れる。「一 (ページ)も眼を通さないで、日を送ることがあると、習慣上何となく荒癈の感を催ふした。だから大抵な事故があつても、成るべく都合して、活字に親しんだ。ある時は読書そのものが、唯一なる自己の本領の様な気がした」。しかし今日は、「そこに何んな議論があつて、それが何う続くのか、頭を(こしら)える為に一寸骨を折つた」。「代助はそれでも辛抱して、約二時間程眼を頁の上に(さら)してゐた。が仕舞にとう/\堪え切れなくなつた」。目の前にあるものは、「活字の集合(あつまり)として」しか作用せず、「彼の肉や血に(まは)る気色は一向見えなかつた」。彼は「物足らなく思つた」。活字の群れは、代助の心を満たさない。字面を追うだけで、中身が全く入ってこない。

「彼は書物を伏せ」、「こんな時に書物を読むのは無理だと考へ」諦める。「同時にもう安息する事も出来なくなつたと考へた」。この表現は重要な意味を持つ。この後代助は、もう美的生活に安住することができなくなる。彼の「安息」は奪われた。その「苦痛は何時(いつ)ものアンニユイではな」く、また「何も()るのが(ものう)いと云ふのとは違つて、何か()なくてはゐられない頭の状態であつた」。する目的があるのではないが、何かしなければいられない心の焦燥。気ぜわしさだけが募る心理。それは代助の心と体にさらなる疲労をもたらすだろう。


たいていの読者はこの後のストーリー展開として、代助は三千代のもとに向かうだろうと予測する。しかしそれは見事に裏切られる。なんと彼は、女を買いに向かうのだ。

以前、代助が大学を卒業するあたりで、女を買った代金を兄に弁済してもらったという場面があった。彼は、女を買う男なのだ。

「実をいうと、代助は今日までまだ誠吾に無心を言ったことが無い。もっとも学校を出た時少々芸者買いをしすぎてその尻を兄になすりつけた覚えはある。」(角川文庫P71)

このことは、当時の社会では違法・不道徳なこととはされていないが、鬱屈を本では解消できなかったから女で解消しようとする代助の様子に、がっかり・幻滅する人はいるだろう。今とは時代背景が異なっているため、一概に彼を批判することはできないが、代助のこの行動と三千代への愛がどうにもマッチしない。愛する人がいるのに別の女で性的欲求を解消しようとする。確かに代助はまだアラサーであり、三千代は人妻だ。ただ、物語の作り方・構成、ドラマツルギーとしていかがなものかと私は思う。代助には、三千代への真実の愛を、まっすぐに貫いてほしかった。


代助は「立ち上が」り、「茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛け」、「さうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿()いて()け出す様に門を出た」。「時は四時頃」。「神楽坂を下りて、(あて)もなく、眼に付いた第一の電車に乗」り、「口から出任せの」行き先を車掌に告げる。「紙入れ」には「三千代に()つた旅行費の余りが、三折(みつをり)深底(ふかぞこ)の方にまだ這入つてゐた」。「余り」があるのなら、それも三千代にやればいいではないか。「彼は其晩を赤坂のある待合で暮した」。

其所(そこ)で」代助は、「面白い話を聞いた」。この状況の時にそのような場所で聞いた話に面白みを感じる彼はいかがなものかと思うが、その話を分析してみる。

「ある若くて美くしい」商売「女が、去る男と関係して、其種(そのたね)宿(やど)した所が、(いよいよ)子を生む段になつて、涙を(こぼ)して悲しがつた」。「こんな年で子供を生ませられるのは情けないからだ」。「愛を(もつぱ)らにする時機が余り短か過ぎて、親子の関係が容赦もなく、若い頭の上を襲つて来たのに、一種の無定を感じたのであつた」。この女は、三千代と重なるだろう。三千代も20歳前後で平岡と結婚をし、その1年後には子供ができた。彼女も、「愛を(もつぱ)らにする時機が余り短か過ぎて、親子の関係が容赦もなく、若い頭の上を襲つて来た」のだ。

この商売女に限らず女性には、「肉の美と、霊の愛にのみ己を捧げて」、親子関係を「顧みぬ」ことを求める「心理状体」があるのだろう。


「子」は「親子」だけでなく「家庭・家族」とのつながりを現実化する。そこで女性はもはや異性への愛だけに生きることが許されない。子や家族を第一に考え生活することが求められる。もちろんそこには家族愛があるが、以前感じていたときめきとは何かが違う。それにふと気づいたとき、女性の喪失感は強く深い。もはやあの愛に自分は生きられないのかと思うだろう。異性への愛から家族愛にうまく移行することができないと、様々なトラブルが発生する。

代助にはまだ守るべき家族がいない。親からの経済的援助も受け、自由気ままな人生だ。それに対し三千代には家庭がある。子は失ったが、夫との生活がある。このふたりがつながるためには、さまざまな障害を乗り越えなければならない。世の道徳にそむく行為は、代助にとっては父・兄・嫂との関係と生活資金を断ち、三千代にとっては平岡との関係を断つことになる。ふたりを待つのは、不義の汚名を負いつつ生きていかなければならない茨の道だ。そこにはふたりの確固たる意志が必要になる。代助にはこの選択が愛する三千代の幸福につながるかどうかの確信が持てない。彼の迷いと悩みは深い。

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