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夏目漱石「それから」本文と評論13-1「去られた妻が、離縁状を楯に夫婦の関係を証拠立てやうとする」

◇本文

四日程(よつかほど)してから、代助は又父の命令で、高木の出立(しつたつ)を新橋迄見送つた。其日は眠所を無理に早く起こされて、寐足らない頭を風に吹かした所為(せゐ)か、停車場に着く頃、髪の毛の中に風邪を引いた様な気がした。待合所に這入(はい)るや否や、梅子から顔色が()くないと云ふ注意を受けた。代助は何にも答へずに、帽子を脱いで、時々濡れた頭を抑えた。仕舞には朝奇麗に分けた髪がもぢや/\になつた。

 プラツトフオームで高木は突然代助に向つて、

()うです此汽車で、神戸迄遊びに行きませんか」と勧めた。代助はたゞ難有うと答へた丈であつた。愈(いよ/\)汽車の出る間際に、梅子はわざと、窓際に近寄つて、とくに令嬢の名を呼んで、

「近い内に又是非入らつしやい」と云つた。令嬢は窓のなかで、叮嚀に会釈したが、窓の外へは別段の言葉も聞こえなかつた。汽車を見送つて、又改札場を出た四人(よつたり)は、それぎり離れ/″\になつた。梅子は代助を誘つて青山へ連れて行かうとしたが、代助は頭を抑えて応じなかつた。

 車に乗つてすぐ牛込へ帰つて、それなり書斎へ這入つて、仰向(あほむ)けに倒れた。門野は一寸(ちよつと)其様子を(のぞ)きに来たが、代助の平生を知つてゐるので、言葉も掛けず、椅子に引つ掛けてある羽織丈を抱へて出て行つた。

 代助は寐ながら、自分の近き未来を()うなるものだらうと考へた。()うして打遣(うちや)つて置けば、是非共嫁を(もら)はなければならなくなる。嫁はもう今迄に大分断つてゐる。此上断れば、愛想を尽かされるか、本当に怒り出されるか、何方(どつち)かになるらしい。もし愛想を尽かされて、結婚勧誘をこれ限り断念して貰へれば、それに越した事はないが、怒られるのは甚だ迷惑である。と云つて、進まぬものを貰ひませうと云ふのは今代人(こんだいじん)として馬鹿気てゐる。代助は()のヂレンマの間に低回した。

 彼は父と違つて、当初からある計画を(こしら)えて、自然を其計画通りに強ひる古風な人ではなかつた。彼は自然を以て人間の拵えた(すべ)ての計画よりも偉大なものと信じてゐたからである。だから父が、自分の自然に(さから)つて、父の計画通りを強ひるならば、それは、去られた妻が、離縁状を(たて)に夫婦の関係を証拠立てやうとすると一般であると考へた。けれども、そんな理窟を、父に向つて述べる気は、丸でなかつた。父を理攻(りぜ)めにする事は困難中の困難であつた。其困難を冒した所で、代助に取つては何等の利益もなかつた。其結果は父の不興を招く丈で、理由を云はずに結婚を拒絶するのと(えら)む所はなかつた。

 彼は父と兄と嫂の三人の中で、父の人格に尤も疑ひを置いた。今度の結婚にしても、結婚其物が必ずしも父の唯一の目的ではあるまいと迄推察した。けれども父の本意が何処(どこ)にあるかは、(もと)より明らかに知る機会を与へられてゐなかつた。彼は子として、父の心意を斯様(かやう)揣摩(しま)する事を、不徳義とは考へなかつた。従つて自分丈が、多くの親子のうちで、尤も不幸なものであると云ふ様な考は少しも起さなかつた。たゞ是がため、今日迄の程度より以上に、父と自分の間が隔たつて来さうなのを不快に感じた。

 彼は隔離の極端として、父子絶縁の状態を想像して見た。さうして其所(そこ)に一種の苦痛を認めた。けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではなかつた。(むし)ろそれから生ずる財源の杜絶(とぜつ)の方が恐ろしかつた。

 もし馬鈴薯(ポテトー)金剛石(ダイヤモンド)より大切になつたら、人間はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた。向後父の怒りに触れて、万一金銭上の関係が絶えるとすれば、彼は(いや)でも金剛石を放り出して、馬鈴薯に(かぢ)りつかなければならない。さうして其 (つぐな)ひには自然の愛が残る丈である。其愛の対象は他人の細君であつた。

 彼は寐ながら、何時(いつ)迄も考へた。けれども、彼の頭は何時(いつ)迄も何処(どこ)へも到着する事が出来なかつた。彼は自分の寿命を()める権利を持たぬ如く、自分の未来をも極め得なかつた。同時に、自分の寿命に、大抵の見当を付け得る如く、自分の未来にも多少の影を認めた。さうして、(いたずら)に其影を捕捉しようと企てた。 (青空文庫より)


◇評論

四日程(よつかほど)してから、代助は又父の命令で、高木の出立(しつたつ)を新橋迄見送つた。其日は眠所を無理に早く起こされて、寐足らない頭を風に吹かした所為(せゐ)か、停車場に着く頃、髪の毛の中に風邪を引いた様な気がした。待合所に這入(はい)るや否や、梅子から顔色が()くないと云ふ注意を受けた。代助は何にも答へずに、帽子を脱いで、時々濡れた頭を抑えた。仕舞には朝奇麗に分けた髪がもぢや/\になつた」

…「四日程」の間には当然、代助の父と高木の間に意思の疎通があり、代助の結婚話は進んでいるだろう。それに対して、「高木の出立」の見送りに、代助の気は進まない。「父の命令」、「眠所を無理に早く起こされて」、「寐足らない頭を風に吹かした所為(せゐ)か、停車場に着く頃、髪の毛の中に風邪を引いた様な気がした」、などはすべて、そのことを表している。見送りなど行きたくないし、佐川の娘への興味もさらさらない。

またこの時の代助には、次第に結婚の環境が整えられつつあることへの不快感もある。気の進まぬ相手との不如意な結婚は、これまでの彼の自由をすべて奪うものだ。美への関心、三千代への恋、それらの大切なものが失われてしまうという恐怖。代助の心は鬱屈する。「朝奇麗に分けた髪がもぢや/\になつた」のもそのためだ。彼の心も「もぢや/\」になっている。


プラツトフオームでの高木からの突然の誘い。「()うです此汽車で、神戸迄遊びに行きませんか」と言われても、おいそれと行けるわけはない。もちろん高木は冗談で言ったのだが、この言葉の底で、佐川の娘との結婚についての代助の反応を見ている。こちらはOKだが、そちらはどうかということ。「代助はたゞ難有うと答へた丈であつた」。彼の気は進まない。


「愈(いよ/\)汽車の出る間際に、梅子はわざと、窓際に近寄つて、とくに令嬢の名を呼んで、「近い内に又是非入らつしやい」と云つた」

…遠路はるばるやってきた令嬢を慰め、令嬢への好感を表明し、この縁への合意を表す嫂の言葉。しかし令嬢はあくまでもつつましい。「窓のなかで、叮嚀に会釈したが、窓の外へは別段の言葉も聞こえなかつた」。意思表示をはっきりとしない人なのだ。


「汽車を見送つて、又改札場を出た四人(よつたり)は、それぎり離れ/″\になつた。梅子は代助を誘つて青山へ連れて行かうとしたが、代助は頭を抑えて応じなかつた」

…この後「四人(よつたり)は、それぎり離れ/″\にな」る運命であることを暗示した表現。結婚という人と人とがつながる場面で、逆に離れ離れになってしまう家族。


代助は「車に乗つてすぐ牛込へ帰」り、「それなり書斎へ這入つて、仰向(あほむ)けに倒れ」る。そうして、「寐ながら、自分の近き未来を()うなるものだらうと考へた」。

A、「打遣(うちや)つて置」く→「是非共嫁を(もら)はなければならなくなる」。

B、「嫁はもう今迄に大分断つてゐる。此上断れば」→「愛想を尽かされるか、本当に怒り出されるか、何方(どつち)かになるらしい」。「と云つて、進まぬものを貰ひませうと云ふのは今代人(こんだいじん)として馬鹿気てゐる」。(「今代人」の角川文庫のルビは「きんだいじん」)

「代助は()の」AとBの「ヂレンマの間に低回した」。

自由と独立に満ちた「今代人」である以上、自分は自己の意思を尊重すべきだと代助は考える。


「彼は父と違つて、当初からある計画を(こしら)えて、自然を其計画通りに強ひる古風な人ではなかつた。彼は自然を以て人間の拵えた(すべ)ての計画よりも偉大なものと信じてゐたからである」

…ここでの「自然」は、「当初から」の「計画」や、それを「強いる」ことの対極にあるものだ。そうして代助は「自然」を、もっとも「偉大なもの」だとする。なおこの後に、「自分の自然」という表現があり、この「自然」は、代助の考えや意志に沿うものであることが分かる。つまり、自分の意志を通すことが「自然」であり、それに反するものは不自然ということになる。「自然」はほぼ「自己の意志」と同意。

「だから父が、自分の自然に(さから)つて、父の計画通りを強ひるならば、それは、去られた妻が、離縁状を(たて)に夫婦の関係を証拠立てやうとすると一般であると考へた」

…「去られた妻が、離縁状を(たて)に夫婦の関係を証拠立てやうとする」について。離縁状を渡され夫に去られた妻が、その離縁状を理由として、自分とかつての夫には婚姻関係があったということを証明しようとする様子。確かにふたりはかつて婚姻関係にあった。しかしそれは今、既に壊れている。だから別れた証明でもって無理やり二人の婚姻関係を構成しようとしてもそれは無意味で無駄・不自然なことだ。

ここは、「去られた妻=父」と代助との親子関係は既に「離縁」状態にあるのに、良好な親子関係を仮想していかにも善良な父親という立場で・ふりをして、子に結婚を勧めているさま。

とても分かりにくく、適切なたとえとはなっていないように思う。


親子の関係は既に壊れている。代助に、「そんな理窟を、父に向つて述べる気は、丸でなかつた」し、また、「父を理攻(りぜ)めにする事は困難中の困難であつた」。「其困難を冒した所で、代助に取つては何等の利益もな」い。「其結果は父の不興を招く丈で、理由を云はずに結婚を拒絶するのと撰む所はなかつた」。


父との「隔絶」が話題となったため、代助は、父親について考察を深める。

・「父と兄と嫂の三人の中で、父の人格に尤も疑ひを置いた」…父への懐疑。しかもその「人格」への疑いとは、根深いものがある。

・「今度の結婚にしても、結婚其物が必ずしも父の唯一の目的ではあるまいと迄推察」…この予想は後に当たる。

・「彼は子として、父の心意を斯様(かやう)揣摩(しま)する事を、不徳義とは考へなかつた。従つて自分丈が、多くの親子のうちで、尤も不幸なものであると云ふ様な考は少しも起さなかつた。たゞ是がため、今日迄の程度より以上に、父と自分の間が隔たつて来さうなのを不快に感じた」…子が父を疑うことはよくあることであり、自分の父子関係も一般と同じだ。だからそこに不幸は感じない。しかし、今回の結婚の件を経て、父には別に目的があるらしいことや、父の人格そのものへの懐疑が生じてきてしまった。それにより、父子関係の「隔絶」がさらに深まりそうなことが「不快」だった、ということ。


代助は「隔離の極端として、父子絶縁の状態を想像し」、「其所(そこ)に一種の苦痛を認めた」。「けれども、其苦痛は堪え得られない程度のものではな」く、「(むし)ろそれから生ずる財源の杜絶(とぜつ)の方が恐ろしかつた」。父子関係が壊れることよりも、生活費の「杜絶」を恐れる代助。

「もし馬鈴薯(ポテトー)金剛石(ダイヤモンド)より大切になつたら、人間はもう駄目であると、代助は平生から考へてゐた」。「馬鈴薯(ポテトー)」は日々生きるために必要なものであり、「金剛石(ダイヤモンド)」は、美のために必要なもの・美そのものだ。

「向後父の怒りに触れて、万一金銭上の関係が絶える」ことを代助は恐れる。「(いや)でも金剛石を放り出して、馬鈴薯に(かぢ)りつかなければならない」からだ。それはこれまでの美的生活を失うことを意味する。

「さうして其 (つぐな)ひには自然の愛が残る丈である。其愛の対象は他人の細君であつた」。美的生活の喪失の代償は、「自然の愛」=三千代だと代助は考える。

ここにたどり着いた代助は、自分が二者択一を迫られていることに気づく。

A、【「自然の愛」=三千代】を選択…「馬鈴薯に(かぢ)りつかなければならない」。働き、経済的に自立する必要がある。

B、【父親に従って佐川の娘と結婚】…「金剛石(ダイヤモンド)」を享受する生活を続けられる。これまでと同様、働かずに美的生活を送ることができそうだ。


代助は「寐ながら、何時(いつ)迄も考へた。けれども、彼の頭は何時(いつ)迄も何処(どこ)へも到着する事が出来なかつた」。「寝ながら」考えてはいけないわけではないが、そこに真剣さがうかがわれないのは私の気のせいか。次の説明にも首をかしげる。


「彼は自分の寿命を()める権利を持たぬ如く、自分の未来をも極め得なかつた。同時に、自分の寿命に、大抵の見当を付け得る如く、自分の未来にも多少の影を認めた。さうして、徒らに其影を捕捉しようと企てた。」


「自分の寿命を()める権利」を、人は持たない。しかし、それだからといって、「自分の未来をも極め得なかつた」とするのは、代助らしからぬ思考過程だ。彼は自己を尊重し、自己の意思に最も重きを置いている。であるならば、その思考によって「自分の未来」を決定したがる・できる人であるはずではないか。だから、この部分の説明に不審を感じる。これでは、他者や運命によって、代助の未来は決定されてしまう。人の人生行路には、たしかにその作用も大きいが、自己の意志・「自然」を重視する代助が、ここで急に他動的で他力本願に近い考えになっていることがわからない。

「自分の未来に」「多少の影を認めた」代助は、「(いたずら)に其影を捕捉しようと企て」る。


先ほどの、AかBかの二者択一を自分に求められている代助は、ここで自らの行く末を熟考し決定しなければならない。それなのに、「自分の未来をも極め得なかつた」とするのは、いかにも弱い。こんな男に後に選ばれてしまう結果になる三千代がかわいそうだ。

結局働くのが嫌なだけだろうと批判されても、彼は反論できない。


ややケースは異なるが、「こころ」の先生も、しようしようと思っても友人とのコミュニケーションが果たせず、悲劇に至る。判断を保留し続ける男たちが、漱石の物語には登場する。彼らはとても恐れる。しかしその解決のための行動に移せない。そうこうするうちに事態は破滅へと向かう。そこにどうしようもできない・そうするしかなかった理由・根拠があれば読者は納得できるのだが、それは無い。登場人物たちは頭を澄ました思考や判断ができず、いつまでもぐずぐずする。読者のモヤモヤは募るのだった。

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