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夏目漱石「それから」本文と評論12-7「大した異存もないだらう」

◇本文

 食事が済んでから、主客は又応接間に戻つて、話を始めたが、蝋燭(ろうそく)()ぎ足した様に、新しい方へは急に火が移りさうにも見えなかつた。梅子は立つて、ピヤノの(ふた)を開けて、

「何か一つ如何(いかゞ)ですか」と云ひながら令嬢を顧みた。令嬢は固より席を動かなかつた。

「ぢや、代さん、皮切(かはきり)に何か御遣り」と今度は代助に云つた。代助は人に聞かせる程の上手でないのを自覚してゐた。けれども、そんな弁解をすると、問答が理窟臭く、しつこくなる(ばかり)だから、

「まあ、蓋を開けて御置きなさい。今に()るから」と答へたなり、何かなしに、無関係の事を話しつゞけてゐた。

 一時間程して客は帰つた。四人(よつたり)は肩を揃へて玄関迄出た。奥へ這入る時、

「代助はまだ帰るんぢやなからうな」と父が云つた。代助はみんなから一足後(おく)れて、鴨居の上に両手が届く様な伸びを一つした。それから、人のゐない応接間と食堂を少しうろ/\して座敷へ来て見ると、兄と嫂が向き合つて何か話をしてゐた。

「おい、すぐ帰つちや不可(いけ)ない。御父さんが何か用があるさうだ。奥へ御出で」と兄はわざとらしい真面目な調子で云つた。梅子は薄笑ひをしてゐる。代助は黙つて頭を()いた。

 代助は一人で父の室へ行く勇気がなかつた。何とか蚊とか云つて、兄夫婦を引張つて行かうとした。それが旨く成功しないので、とう/\其所(そこ)へ坐り込んで仕舞つた。所へ小間使ひが来て、

「あの、若旦那様に一寸(ちよつと)、奥迄入らつしやる様に」と催促した。

「うん、今行く」と返事をして、それから、兄夫婦に()ういふ理窟を述べた。――自分一人で父に逢ふと、父があゝ云ふ気象の所へ持つて来て、自分がこんな図法螺(づぼら)だから、殊によると大いに老人(としより)を怒らして仕舞ふかも知れない。さうすると、兄夫婦だつて、後から面倒くさい調停をしたり何かしなければならない。其方(そのほう)が却つて迷惑になる訳だから、骨惜(ほねお)しみをせずに今 一寸(ちよつと)一所に行つて呉れたら()からう。

 兄は議論が嫌な男なので、何だ下らないと云はぬ(ばかり)の顔をしたが、

「ぢや、さあ行かう」と立ち上あがつた。梅子も笑ひながらすぐに立つた。三人して廊下を渡つて父の室に行つて、何事も起こらなかつたかの如く着坐した。

 そこでは、梅子が如才(じよさい)なく、代助の過去に父の小言が飛ばない様な手加減をした。さうして談話の潮流を、成るべく今帰つた来客の品評の方へ持つて行つた。梅子は佐川の令嬢を大変大人しさうな()い子こだと()めた。是には父も兄も代助も同意を表した。けれども、兄は、もし亜米利加のミスの教育を受けたと云ふのが本当なら、もう少しは西洋流にはき/\しさうなものだと云ふ疑ひを立てた。代助は其疑がひにも賛成した。父と嫂は黙つてゐた。そこで代助は、あの大人しさは、羞恥(はにか)む性質の大人しさだから、ミスの教育とは独立に、日本の男女の社交的関係から来たものだらうと説明した。父はそれも()うだと云つた。梅子は令嬢の教育地が京都だから、あゝなんぢやないかと推察した。兄は東京だつて、御前見みた様なの(ばかり)はゐないと云つた。此時父は厳正な顔をして灰吹(はいふき)を叩いた。次に、容色(きりよう)だつて十人並みより()いぢやありませんかと梅子が云つた。是には父も兄も異議はなかつた。代助も賛成の旨を告白した。四人は()れから高木の品評に移つた。温健の好人物と云ふ事で、其方(そのほう)はすぐ方付(かたづ)いて仕舞つた。不幸にして誰も令嬢の父母を知らなかつた。けれども、物堅(ものがた)い地味な人だと云ふ丈は、父が三人の前で保証した。父はそれを同県下の多額納税議員の某から確めたのださうである。最後に、佐川家の財産に就ても話が出た。()の時父は、あゝ云ふのは、普通の実業家より基礎が(しつか)りしてゐて安全だと云つた。

 令嬢の資格が略(ほゞ)定まつた時、父は代助に向つて、

「大した異存もないだらう」と尋ねた。其語調と云ひ、意味と云ひ、()うするかね位の程度ではなかつた。代助は、

左様(さう)ですな」と矢っ張り煮え切らない答をした。父はじつと代助を見てゐたが、段々 (しわ)の多い(ひたひ)を曇らした。兄は仕方なしに、

「まあ、もう少し()く考へて見るが()い」と云つて、代助の為に余裕を付けて呉れた。 (青空文庫より)


◇評論

盛り上がりに欠ける乾いた雰囲気の「食事が済」み、「応接間に戻つて、話を始めたが」話は発展しない。嫂が気を遣い、「ピヤノの(ふた)を開けて、「何か一つ如何(いかゞ)ですか」と云ひながら令嬢を顧みた」が、これも不発に終わる。代助に話を振っても、「人に聞かせる程の上手でないのを自覚してゐた」彼も嫂の期待に応えることができない。開けられた蓋は、そのままになり、「何かなしに、無関係の事を話しつゞけてゐた」。結局「一時間程して客は帰つた」。

このような場面で如才なくコミュニケーションがとれるかどうかで、その人の教養や趣味、性格が推し量られるだろう。その点で、本当に何も知らないしできないのか、それとも地を隠していたのか不明だが、佐川の娘は不合格だ。だが意外に、この後残された者たちの「品評」で彼女は合格点を得る。


「「代助はまだ帰るんぢやなからうな」と父が云つた。代助はみんなから一足後(おく)れて、鴨居の上に両手が届く様な伸びを一つした」

…代助が「鴨居の上に両手が届く様な伸びを一つした」のは、また父のお談義を聞かなければならないという憂鬱と、佐川の娘がつまらない人間だったことの二つから。


【佐川の娘の「品評」】

〇「大変大人しさうな()い子こだと()めた」…嫂。父、兄、代助も同意。

〇「もし亜米利加のミスの教育を受けたと云ふのが本当なら、もう少しは西洋流にはき/\しさうなものだと云ふ疑ひを立てた」…兄。代助賛成。父と嫂は黙つてゐた。

〇「あの大人しさは、羞恥(はにか)む性質の大人しさだから、ミスの教育とは独立に、日本の男女の社交的関係から来たものだらうと説明」…代助。父同意。

〇「令嬢の教育地が京都だから、あゝなんぢやないかと推察」…嫂。「東京だつて、御前見みた様なの(ばかり)はゐない」…兄の茶々(ちゃちゃ)。

〇「容色(きりよう)だつて十人並みより()いぢやありませんか」…嫂。父も兄も異議なし。代助も賛成。


【高木の品評】

〇「温健の好人物」…全員同意


【佐川の父母・財産】

〇「不幸にして誰も令嬢の父母を知らなかつた。けれども、物堅(ものがた)い地味な人だと云ふ丈は、父が三人の前で保証」。「父はそれを同県下の多額納税議員の某から確めた」。

〇「佐川家の財産に就て」、「父は、あゝ云ふのは、普通の実業家より基礎が(しつか)りしてゐて安全だと云つた」。


「令嬢の資格が略(ほゞ)定まつた時、父は代助に向つて、「大した異存もないだらう」と尋ねた。其語調と云ひ、意味と云ひ、()うするかね位の程度ではなかつた。代助は、「左様(さう)ですな」と矢っ張り煮え切らない答をした」

…令嬢は合格点を得る。そうであるからには、代助以外の人にとって婚姻は決定事項ということになる。父親には、「煮え切らない答をした」代助への反感が大きくなる。兄の、「まあ、もう少し()く考へて見るが()い」という助け舟により、代助は溺死を免れる。


ここでひとつ考えたい。

代助はなぜ素直に、自分には好きな人がいるから、その成り行きを待ってくれないかと言えないかということだ。人妻であることは言わなくてもいい。ただ様子を見たいと言えばよい。

勿論、この場面の状況はなかなか厳しい。当時の価値観や社会慣行からすると、代助はアラサーであり、親が子の結婚相手を決めること、父の年齢等々、結婚しなければならない条件はそろっている。代助が父親の勧めに応じて結婚を前向きに考えることが、当時の習慣としては一般的だったろう。ましてや彼の愛する人は人妻だ。その恋はふつうかなうはずもない。

このように見てくると、やはり代助は、自分で稼いで自立することをできるだけ回避したいという思いがとても強いことが分かる。実家からの経済的援助をできるだけ長く受け続けたい。そのためには、父の結婚計画を曖昧な形でずるずる引き伸ばしたい。そのような魂胆を彼は持っている。ずるい男だ。

確かにまだ愛する人を手に入れてはいない。しかしそれが少しでも可能になる環境づくりを考え図る必要があるだろうのに、代助はそれをしない。代助の三千代への愛は、その程度のものだったのかと言われても、彼は反論のしようもない。やはり彼は、いずれにせよ経済的な自立を速やかに図るべきだった。

倫理や道義を尊重する立場からは、彼の三千代への愛は断ち切るべきものだ。もしくは心に思うだけにとどめるべきものだ。最終的に彼は、その(のり)()える。


父による結婚の勧めは、真に息子を思ってのものではないことが、このあと明らかになる。それは「政略的結婚」のためだった。

つまり父と子はそれぞれがそれぞれの利己的目的・理由のために、それが衝突しない形でぐずぐずとことを行ってきたのだった。しかし最終的にそれらはすべて明らかになり、家族と友人関係は破綻する。


〇まとめ…代助に結婚を勧める意図

・父…「政略的結婚」

・兄…明示されないが、「政略的結婚」+いい加減片付いて、経済的自立をしてほしい+兄としての多少の心配

・嫂…代助の年齢+自立してほしい+結婚は幸せなこと

そうすると、真に代助の幸せを願っているのは、嫂だけということになる。ただ、それも、結婚は幸福なことだという旧時代の価値観がもとになっているが。


〇余談

・代助は既に三千代が好きになっている。その彼女を上回るためには、よほどの高得点を上げなければならない。だから佐川の令嬢に、初めから勝ち目はなかったのだ。

・これまでのところ、三千代の魅力はあまり説明されていない。この物語は、代助が三千代を好いていることから出発している。だから改めてその魅力を語る必要を、語り手は感じていないしその必要もないともいえる。しかし読者としては、彼女の内面的魅力が具体的に知りたいところだ。それがこの物語には不足している。ところがそれは、代助が三千代に走る根拠となるものであり、とても大切な説明であるはずだ。そこに読者の不満が残る。

・佐川の娘の見合い中の態度は、負けない試合運びをしたともいえる。大きな失点が無ければ、地道に得点を重ね、合格ラインを越えることができる。そう踏んでの、彼女と高木の様子だったともいえ、試合巧者なふたりは作戦勝ちを収めた策略家だ。

 ただこの場合、佐川側に婚姻のメリットが無ければならないが、それはこの後も明らかにされない。

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