表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/113

夏目漱石「それから」本文と評論12-3「紙の指輪」

◇本文

 代助は其夜九時頃平岡の家を()した。辞する前、自分の紙入(かみい)れの中に有るものを出して、三千代に渡した。其時は、腹の中で多少の工夫を費した。彼は()づ何気なく懐中物を胸の所で開けて、中にある紙幣を、勘定もせずに(つか)んで、是を上げるから御使ひなさいと無雑作に三千代の前へ出した。三千代は、下女を憚(はゞか)る様な低い声で、

「そんな事を」と、(かへ)つて両手をぴたりと身体へ付けて仕舞つた。代助は然し自分の手を引き込めなかつた。

「指環を受取るなら、これを受取つても、同じ事でせう。紙の指環だと思つて御貰ひなさい」

 代助は笑ひながら、斯う云つた。三千代はでも、(あんま)りだからとまだ躊躇した。代助は、平岡に知れると叱られるのかと聞いた。三千代は叱られるか、()められるか、明らかに分らなかつたので、矢張り愚図々々してゐた。代助は、叱られるなら、平岡に黙つてゐたら()からうと注意した。三千代はまだ手を出さなかつた。代助は無論出したものを引き込める訳に行かなかつた。()むを得ず、少し及び腰になつて、(てのひら)を三千代の胸の(そば)迄持つて行つた。同時に自分の顔も一尺 (ばかり)の距離に近寄せて、

「大丈夫だから、御取んなさい」と(しつか)りした低い調子で云つた。三千代は(あご)(えり)の中へ(うづ)める様に後へ引いて、無言の儘右の手を前へ出した。紙幣は其上に落ちた。其時三千代は長い睫毛(まつげ)を二三度打ち合はした。さうして、掌に落ちたものを帯の間に挟んだ。

「又来る。平岡君によろしく」と云つて、代助は(おもて)へ出た。町を横断して小路(こうぢ)(くだ)ると、あたりは暗くなつた。代助は美しい夢を見た様に、暗い夜を切つて歩いた。彼は三十分と立たないうちに、吾家の門前に来た。けれども門を(くぐ)る気がしなかつた。彼は高い星を戴(いたゞ)いて、静かな屋敷町をぐる/\徘徊した。自分では、夜半迄歩きつゞけても疲れる事はなからうと思つた。兎角(とかく)するうち、又自分の家の前へ出た。中は静かであつた。門野と婆さんは茶の間まで世間話をしてゐたらしい。

「大変遅うがしたな。明日は何時の汽車で御立ちですか」と玄関へ上がるや否や問ひを掛けた。代助は、微笑しながら、

「明日も御已(おや)めだ」と答へて、自分の室へ這入(はい)つた。そこには(とこ)がもう敷いてあつた。代助は先刻(さつき)栓を抜いた香水を取つて、括枕(くゝりまくら)の上に一滴 ()らした。夫れでは何だか物足りなかつた。(びん)を持つた儘(まゝ)、立つて室の四隅へ行つて、そこに一二滴づゝ振りかけた。斯様(かやう)に打ち(きよう)じた後、白地(しろぢ)浴衣(ゆかた)に着換えて、新らしい小掻巻(こかいまき)の下に安らかな手足を横たへた。さうして、薔薇の香のする眠りに()いた。

 眼が覚めた時は、高い日が(えん)に黄金色の震動を射込んでゐた。枕元には新聞が二枚揃えてあつた。代助は、門野が何時(いつ)、雨戸を引いて、何時新聞を持つて来たか、丸で知らなかつた。代助は長い()びを一つして起き上がつた。風呂場で身体を拭いてゐると、門野が少し狼狽(うろた)へた容子で()つて来て、

「青山から御兄(おあにい)さんが御見えになりました」と云つた。代助は今直(いますぐ)行く旨を答へて、奇麗に身体を拭き取つた。座敷はまだ掃除が出来てゐるか、ゐないかであつたが、自分で飛び出す必要もないと思つたから、急ぎもせずに、いつもの通り、髪を分けて()りを()てて、悠々と茶の間へ帰つた。そこでは流石(さすが)にゆつくりと膳につく気も出なかつた。立ちながら紅茶を一杯 啜(すゝ)つて、タヱルで一寸(ちよつと)口髭(くちひげ)(こす)つて、それを、其所(そこ)へ放り出すと、すぐ客間へ出て、

「やあ(にい)さん」と挨拶をした。兄は例の如く、色の濃い葉巻の、火の消えたのを、指の股に挟んで、平然として代助の新聞を読んでゐた。代助の顔を見るや否や、

此室(このへや)は大変好い(にほひ)がする様だが、御前の頭かい」と聞いた。

「僕の頭の見える前からでせう」と答へて、昨夜(ゆふべ)の香水の事を話した。兄は、落ち付いて、

「はゝあ、大分洒落た事をやるな」と云つた。 (青空文庫より)


◇評論

 家計に困窮する三千代を少しでも助けようと紙幣を渡す代助。彼は三千代が金を受け取ることを気にしないよう気遣い、「工夫」をする。

「何気なく懐中物を胸の所で開け」、「中にある紙幣を、勘定もせずに(つか)」み、「無雑作に三千代の前へ出した」。自分はこればかりの金を上げることは何とも思わないし、あなたも気にして受け取りを遠慮することはないという意味を含んだ所作。

しかし「三千代は、下女を憚(はゞか)る様な低い声で、「そんな事を」と、(かへ)つて両手をぴたりと身体へ付けて仕舞つた」。以前、代助から200円を受け取っている。それに加えて再び援助を受けることへの遠慮。


「代助は然し自分の手を引き込めなかつた。「指環を受取るなら、これを受取つても、同じ事でせう。紙の指環だと思つて御貰ひなさい」」

…代助が三千代に上げた指輪は、結婚の祝いの品だ。だから三千代がそれを受け取ることには何のためらいも遠慮もいらない。しかし今回の金は他者からの金銭的援助であり、いくら古い友人だからといって、受け取る理由がない。だから「指環を受取るなら、これを受取つても、同じ事でせう」という代助の論理は成立しないのだ。代助は三千代が受け取る方便として、このような不合理な論理展開を冗談めかせて行う。

実は、「紙の指環だと思つて御貰ひなさい」という代助の言葉には、彼の本音が表れてしまっている。彼が渡そうとするものは、「紙」ではあっても「指輪」なのだ。金を人に上げることは愛情表現だが、この場合はもっと強い意味を含む。以前上げたものは結婚祝いの指輪であり、今回上げるものは私からあなたへの愛なのだ、という意味を含んでいる。

勿論、その金によって平岡家の家計がいくらかでも助かるのは事実だが、この場面で代助が助けたいのは、三千代自身だ。三千代が困っている。だから彼女を助けたい。そのような単純・純粋な気持ちが紙幣となって表れている。平生の代助にはあまり見られない思考と行動・言葉であり、彼の三千代への愛が素直に感じられる場面だ。


「紙の指環だと思つて御貰ひなさい」と「笑ひながら」言う代助に対し、「三千代はでも、(あんま)りだからとまだ躊躇した」。三千代にしてみれば、何度も援助を受けることははばかられる。返すあてもない。「平岡に知れると叱られるのか」と聞かれても、「叱られるか、()められるか、明らかに分らなかつたので、矢張り愚図々々してゐた」。代助は、三千代の立場が悪くならないための配慮を怠らない。平岡と三千代の関係を気遣い、わざと平岡を話題に出したのだ。

三千代にとって目の前に出された金は、彼女の命に関わるレベルのものだった可能性がある。それが無ければ、生活どころか、生きていくこともおぼつかない。子を失った後の彼女の体調不良はいまだに続いている。心臓の働きが、いつまで持つかもわからない。もし日々の生活がぎりぎりでも成り立つのであれば、彼女ははっきりと受け取りを拒否することができた。それができない辛さが、三千代にはある。

金の受け取りをためらう三千代の様子に、「代助は、叱られるなら、平岡に黙つてゐたら()からうと注意した」。それでも「三千代はまだ手を出さなかつた」。代助は「()むを得ず、少し及び腰になつて、(てのひら)を三千代の胸の(そば)迄持つて行つた。同時に自分の顔も一尺 (ばかり)の距離に近寄せて、「大丈夫だから、御取んなさい」と(しつか)りした低い調子で云つた」。一尺は30㎝だから、かなり近い顔と顔の距離だ。三千代に近づき、「大丈夫」と肯定する代助の行動と言葉は、自分から相手への愛情表現であり、相手の信頼を保証する態度だ。


「三千代は(あご)(えり)の中へ(うづ)める様に後へ引いて、無言の儘右の手を前へ出した。紙幣は其上に落ちた。其時三千代は長い睫毛(まつげ)を二三度打ち合はした。さうして、掌に落ちたものを帯の間に挟んだ」

…結論を先に述べると、ここでふたりはふたりだけの秘密の共有をした。他の誰も知らぬ秘密は甘い蜜となる。だが三千代は人妻であり、その蜜には毒が含まれる。毒が作用すれば破滅につながる。

この場面の三千代のすべてを、代助は忘れないだろう。「(えり)の中へ(うづ)める様に後へ引」かれた「(あご)」、「無言の儘」「前へ出」された「右の手」、スローモーションで「其上に落ちた」「紙幣」、「其時」「二三度打ち合」わされた「長い睫毛(まつげ)」、「掌に落ちたものを帯の間に挟」む三千代の恥じらい。それぞれがカット割りされた、映画の一シーンのようだ。漱石は重要な場面にこのような表現技法を用いる。このまま映像脚本として成立する巧みな描写だ。

「一尺 (ばかり)の距離に近寄せ」られた互いの顔。代助は三千代に心でキスをしている。


「「又来る。平岡君によろしく」と云つて、代助は(おもて)へ出た」

…「平岡君によろしく」と、わざと平岡の名前を出すことで、現実に戻ることと、公式の訪問と援助いう体裁を整える。三千代への配慮。


愛する人との蜜月は破られ、現実が代助を包む。門野の愚鈍さと、兄の急迫がこの後続く。


三千代と別れ、「暗い夜を切つて歩いた」「彼は三十分と立たないうちに、吾家の門前に来た。けれども門を(くぐ)る気がしなかつた」。三千代との「美しい夢を見た」後だったからだ。「彼は高い星を戴(いたゞ)いて、静かな屋敷町をぐる/\徘徊した。自分では、夜半迄歩きつゞけても疲れる事はなからうと思つた」。恋の高揚が代助を歩かせる。なかなかその熱は冷めない。いつまでも「美しい夢」に浸っていたい。


「門野と婆さんは茶の間まで世間話をして」起きていた。何も知らぬ門野は、「「大変遅うがしたな。明日は何時の汽車で御立ちですか」と玄関へ上がるや否や問ひを掛けた」。

部屋に帰ると代助は、香水を「括枕(くゝりまくら)の上に一滴」、「夫れでは何だか物足り」ず、「室の四隅へ行つて、そこに一二滴づゝ振りかけた」。「白地(しろぢ)浴衣(ゆかた)に着換えて、新らしい小掻巻(こかいまき)の下に安らかな手足を横たへ」「薔薇の香のする眠りに()いた」。「白地の浴衣」はやや死装束をイメージさせる不吉な記号だ。「薔薇の香」に包まれた三千代との「美しい夢」。それは代助を破滅へと導く。


小掻巻(こかいまき)」…「掻い巻き」綿を薄く入れた、そでの付いた夜着(よぎ)。肌に直接掛けて寝る。(三省堂「新明解国語辞典」)

「小掻巻」は、その小形のもの。


夢の続きを安眠の内に見た後、代助は目覚める。日は既に高い。門野が何時(いつ)来たも分からない。「長い()びを一つして起き上がつた」代助ののんびりとした様子に反し、「門野が少し狼狽(うろた)へた容子で()つて来」て、兄の急な来訪を告げる。「代助は今直(いますぐ)行く旨を答へ」ただけで、しかしその実は「奇麗に身体を拭き取」り、「急ぎもせずに、いつもの通り、髪を分けて()りを()てて、悠々と茶の間へ帰つた」。「立ちながら紅茶を一杯 啜(すゝ)つて、タヱルで一寸(ちよつと)口髭(くちひげ)(こす)つて、それを、其所(そこ)へ放り出すと、すぐ客間へ出て、「やあ(にい)さん」と挨拶をした」。

これに対し兄の方も「例の如く」「平然と」待っている。そうしてその第一声も、いきなり本題に入ることはせず、「此室(このへや)は大変好い(にほひ)がする様だが、御前の頭かい」という内容だった。部屋に香水を振ったという代助の答えを、「兄は、落ち付いて」聞き、「はゝあ、大分洒落た事をやるな」と言う。代助の様子や話題に合わせてあげ、彼を肯定する姿勢で本題に入る。世の交渉術に()けた兄は、弟にもそれを用いる。


次回、兄はいよいよ本題に入る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ