夏目漱石「それから」本文と評論12-1
◇本文
代助は嫂の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた。避暑にはまだ間があつた。凡ての娯楽には興味を失つた。読書をしても、自己の影を黒い文字の上に認める事が出来なくなつた。落付いて考へれば、考へは蓮の糸を引く如くに出るが、出たものを纏めて見ると、人の恐ろしがるもの許であつた。仕舞には、斯様に考へなければならない自分が怖くなつた。代助は蒼白く見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる為に、しばらく旅行しやうと決心した。始めは父の別荘に行く積りであつた。然し、是は東京から襲はれる点に於て、牛込に居ると大した変りはないと思つた。代助は旅行案内を買つて来て、自分の行くべき先を調べて見た。が、自分の行くべき先は天下中何処にも無い様な気がした。しかし、代助は無理にも何処かへ行かうとした。それには、支度を調へるに若くはないと極めた。代助は電車に乗つて、銀座迄来た。朗らかに風の往来を渡る午後であつた。新橋の勧工場を一回りして、広い通りをぶら/\と京橋の方へ下つた。其時代助の眼には、向ふ側の家が、芝居の書割の様に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられてゐた。
代助は二三の唐物屋を冷やかして、入用の品を調へた。其中に、比較的高い香水があつた。資生堂で練歯磨を買はうとしたら、若いものが、欲しくないと云ふのに自製のものを出して、頻りに勧めた。代助は顔をしかめて店を出た。紙包みを腋の下に抱(かゝ)へた儘、銀座の外れ迄 遣つて来て、其所から大根河岸を回つて、鍛冶橋を丸の内へ志(こゝろざ)した。当てもなく西の方へ歩きながら、是も簡便な旅行と云へるかも知れないと考へた揚句、草臥れて車をと思つたが、何処にも見当たらなかつたので又電車へ乗つて帰つた。
家の門を這入ると、玄関に誠太郎のらしい履が叮嚀に并べてあつた。門野に聞いたら、へえ左様です、先方から待つて御出でですといふ答へであつた。代助はすぐ書斎へ来て見た。誠太郎は、代助の坐る大きな椅子に腰を掛けて、洋卓の前で、アラスカ探検記を読んでゐた。洋卓の上には、蕎麦饅頭と茶盆が一所に乗つてゐた。
「誠太郎、何だい、人のゐない留守に来て、御馳走だね」と云ふと、誠太郎は、笑ひながら、先づアラスカ探検記をポツケツトへ押し込んで、席を立つた。
「其所に居るなら、ゐても構はないよ」と云つても、聞かなかつた。
代助は誠太郎を捕まえて、例の様に調戯ひ出した。誠太郎は此間代助が歌舞伎座でした欠伸の数を知つてゐた。さうして、
「叔父さんは何時奥さんを貰ふの」と、又先達と同じ様な質問を掛けた。
此日誠太郎は、父の使ひに来たのであつた。其口上は、明日の十一時迄に一寸来て呉れと云ふのであつた。代助はさう/\父や兄に呼び付つけられるが面倒であつた。誠太郎に向つて、半分怒つた様に、
「何だい、苛いぢやないか。用も云はないで、無暗に人を呼びつけるなんて」と云つた。誠太郎は矢っ張りにや/\してゐた。代助はそれぎり話を外へそらして仕舞つた。新聞に出てゐる相撲の勝負が、二人の題目の重なるものであつた。
晩食を食つて行けと云ふのを学校の下調があると云つて辞退して誠太郎は帰つた。帰る前に、
「それぢや、叔父さん、明日は来ないんですか」と聞いた。代助は已を得ず、
「うむ。何うだか分らない。叔父さんは旅行するかも知れないからつて、帰つてさう云つて呉れ」と云つた。
「何時」と誠太郎が聞き返したとき、代助は今日明日のうちと答へた。誠太郎はそれで納得して、玄関迄出て行つたが、沓脱へ下りながら振り返つて、突然
「何処へ入らつしやるの」と代助を見上げた。代助は、
「何処つて、まだ分かるもんか。ぐる/\回るんだ」と云つたので、誠太郎は又にや/\しながら、格子を出た。 (青空文庫より)
◇評論
「代助は嫂の肉薄を恐れた」
…嫂は代助の結婚を願っている。
「代助は嫂の肉薄を恐れた。又三千代の引力を恐れた」
…結婚を企図する嫂と、愛する三千代の引力に挟まれた状態の代助。
「凡ての娯楽には興味を失つた。読書をしても、自己の影を黒い文字の上に認める事が出来なくなつた。落付いて考へれば、考へは蓮の糸を引く如くに出るが、出たものを纏めて見ると、人の恐ろしがるもの許であつた」
…「嫂の肉薄」と「三千代の引力」の両者への「恐れ」は、「娯楽」、「読書」という、普段であれば「興味」深く感じるものへの関心も失わせる。「考へ」ることはできる。それに伴い様々なイメージはとりとめもなく次々に出てくる。しかしそれらは「人の恐ろしがるもの許」だった。この、「人の恐ろしがるもの」は具体的に何かがはっきりしないが、肉薄と引力という相反する力によって代助の思考が混乱し、同時にそれは彼を動けなくしているため、とりとめもないイメージが次々に彼の心に浮かんでいる様子を表すのだろう。
「代助は蒼白く見える自分の脳髄を、ミルクセークの如く廻転させる為に、しばらく旅行しやうと決心した」
…何をどう判断し実行すべきがか見えなくなってしまった代助は、思考を正常に働かせるために旅行が必要だと考える。しかしその行先として「父の別荘」をまず思い浮かべる。どこまでも親がかりである様子。当然そこは、「東京から襲はれる点に於て、牛込に居ると大した変りはない」場所だ。「旅行案内を買つて来て、自分の行くべき先を調べて見」ても、「自分の行くべき先は天下中何処にも無い様な気がした」。
「無理にも何処かへ行かうとした」代助は、「支度を調へる」ために「電車に乗つて、銀座迄来た」。午後の外出は、風の「朗らか」さを感じさせる。
「新橋の勧工場を一回りして、広い通りをぶら/\と京橋の方へ下つた。其時代助の眼には、向ふ側の家が、芝居の書割の様に平たく見えた。青い空は、屋根の上にすぐ塗り付けられてゐた」
…心が整っていないので、視覚の先にあるものの現実味がない様子。また、何においても絵画美をイメージする代助の心象も表す。
「資生堂で練歯磨を買はうとしたら、若いものが、欲しくないと云ふのに自製のものを出して、頻りに勧めた。代助は顔をしかめて店を出た」
…本物に価値を置く代助の様子。代替品では、彼は満足できない。
「紙包みを腋の下に抱(かゝ)へた儘、銀座の外れ迄 遣つて来て」
…30歳ぐらいの男の銀座の街歩きの様としてかっこいい。
「其所から大根河岸を回つて、鍛冶橋を丸の内へ志(こゝろざ)した。当てもなく西の方へ歩きながら、是も簡便な旅行と云へるかも知れないと考へた揚句、草臥れて車をと思つたが、何処にも見当たらなかつたので又電車へ乗つて帰つた」
…精神の鬱屈と疲労を感じる代助には、本当の遠出はやはり苦になるのだろう。また、近隣の散策は、多少の気晴らしとなったようだ。
「家の門を這入ると、玄関に誠太郎のらしい履が叮嚀に并べてあつた」
…「丁寧」から甥の育ちの良さがうかがわれる。
「誠太郎は、代助の坐る大きな椅子に腰を掛けて、洋卓の前で、アラスカ探検記を読んでゐた」
…主人の場所である「大きな椅子」に断りもなく座る甥の気兼ねのなさと、代助に対する心理的な近しさや共感がうかがわれる。代助に倣い・真似して、誠太郎は読書に励む。しかしその本は「アラスカ探検記」であり、前にはおいしいお菓子がちゃんとあるところが子供らしい。
「誠太郎、何だい、人のゐない留守に来て、御馳走だね」
…代助の「例の」「調戯ひ」。誠太郎はその意図を理解し、「笑」う。
「先づアラスカ探検記をポツケツトへ押し込んで、席を立つた。「其所に居るなら、ゐても構はないよ」と云つても、聞かなかつた」
…主人が来た以上、その席は主人に譲るべきだというたしなみが、誠太郎にはある。
「「叔父さんは何時奥さんを貰ふの」と、又先達と同じ様な質問を掛けた。
此日誠太郎は、父の使ひに来たのであつた。其口上は、明日の十一時迄に一寸来て呉れと云ふのであつた」
…この誠太郎の質問と伝言の内容はリンクしている。
「父や兄に呼び付つけられるが面倒」な代助は、「誠太郎に向つて、半分怒つた様に、「何だい、苛いぢやないか。用も云はないで、無暗に人を呼びつけるなんて」と云つた」。呼ばれた理由は分かっている。だから戯れに誠太郎を叱ったのだ。「誠太郎は矢っ張りにや/\してゐた」。
「晩食を食つて行けと云ふのを学校の下調があると云つて辞退して誠太郎は帰つた」
…これも良家のお坊ちゃんである誠太郎のたしなみ。
誠太郎の、「何処へ入らつしやるの」という質問に「代助は、「何処つて、まだ分かるもんか。ぐる/\回るんだ」と云つた」。ここはやがて代助が実際に「ぐる/\回る」人生を送ることになることの暗示になっている。




