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夏目漱石「それから」本文と評論11-8

◇本文

 五六分して、代助は兄と(とも)に自分の席に(かへ)つた。佐川の娘を紹介される迄は、兄の見え次第逃る気であつたが、今では左様(さう)不可(いかな)くなつた。余り現金に見えては、却つて()くない結果を引き起こしさうな気がしたので、苦しいのを我慢して坐つてゐた。兄も芝居に就ては全たく興味がなささうだつたけれども、例の如く鷹揚に構えて、黒い頭を(いぶ)す程、葉巻をゆらした。時々評をすると、縫子あの幕は綺麗だらう位の所であつた。梅子は平生の好奇心にも似ず、高木に就ても、佐川の娘に就ても、何等の質問も掛けず、一言の批評も加へなかつた。代助には其澄ました様子が却つて滑稽に思はれた。彼は今日迄嫂の策略にかゝつた事が時々あつた。けれども、只(たゞ)の一返も腹を立てた事はなかつた。今度の狂言も、平生ならば、退屈 (まぎ)らしの遊戯程度に解釈して、笑つて仕舞たかも知れない。夫許(そればか)りではない。もし自分が結婚する気なら、却つて、此狂言を利用して、(みづか)ら人巧的に、御目出度い喜劇を作り上げて、生涯自分を(あざけ)つて満足する事も出来た。然し此姉迄が、今の自分を、父や兄と共謀して、漸々(ぜん/\)窮地に(いざな)つて行くかと思ふと、流石(さすが)に此所作をたゞの滑稽として、観察する訳には行かなかつた。代助は此先(このさき)、嫂が此事件を()う発展させる気だらうと考へて、少々弱つた。家のものゝ中で、嫂が一番 ()んな計画に興味をもつてゐたからである。もし嫂が此方面に向つて代助に肉薄すればする程、代助は漸々家族のものと疎遠にならなければならないと云ふ恐れが、代助の頭の何処(どこ)かに潜んでゐた。

 芝居の仕舞になつたのは十一時近くであつた。外へ出て見ると、風は全く()んだが、月も星も見えない静かな晩を、電燈が少し許り照らしてゐた。時間が遅いので茶屋では話をする暇もなかつた。三人の迎ひは来てゐたが、代助はつい車を(あつら)へて置くのを忘れた。面倒だと思つて、嫂の(すす)めを斥けて、茶屋の前から電車に乗つた。数寄屋橋で乗り()え様と思つて、黒い路の中に、待ち合はしてゐると、小供を(おぶ)つた(かみ)さんが、退儀さうに向ふから近寄つて来た。電車は向ふ側を二三度通つた。代助と軌道(レール)の間には、土か石の積んだものが、高い土手の様に(はさま)つてゐた。代助は始めて間違つた所に立つてゐる事を悟つた。

「御神さん、電車へ乗るなら、此所(こゝ)ぢや不可(いけ)ない。向側だ」と教へながら歩き出した。神さんは礼を云つて()いて来た。代助は手探りでもする様に、暗い所を好加減(いゝかげん)に歩いた。十四五間左の方へ濠際(ほりぎは)目標(めあて)に出たら、漸く停留所の柱が見付かつた。神さんは其所(そこ)で、神田橋の方へ向いて乗つた。代助はたつた一人反対の赤坂行きへ這入つた。

 車の中では、眠くて寐られない様な気がした。揺られながらも今夜の睡眠が苦になつた。彼は大いに疲労して、白昼の凡てに、惰気(だき)を催うすにも拘はらず、知られざる何物かの興奮の為に、静かな夜を恣(ほしいまゝ)にする事が出来ない事がよくあつた。彼の脳裏には、今日の日中に、()はる/″\痕(あと)を残した色彩が、時の前後と形の差別を忘れて、一度に散らついてゐた。さうして、それが何の色彩であるか、何の運動であるか(たしか)に解らなかつた。彼は眼を眠つて、家へ帰つたら、又またウヰスキーの力を借りやうと覚悟した。

 彼は()の取り留めのない花やかな色調の反照として、三千代の事を思ひ出さざるを得なかつた。さうして其所(そこ)にわが安住の地を見出だした様な気がした。けれども其安住の地は、明らかには、彼の眼に映じて出なかつた。たゞ、かれの心の調子全体で、それを認めた丈であつた。従つて彼は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分を一纏(ひとまとめ)にしたものを、わが情調にしつくり合ふ対象として、発見したに過ぎなかつた。

(青空文庫より)


◇評論

「佐川の娘を紹介される迄は、兄の見え次第逃る気であつたが、今では左様(さう)不可(いかな)くなつた。余り現金に見えては、却つて()くない結果を引き起こしさうな気がしたので、苦しいのを我慢して坐つてゐた」

…父のお談義をかしこまって聞く時も、この場面でも、代助は一応の社会的常識をもってその場に合わせた対応をすることが分かる。彼は、父や兄夫婦への気遣いの気持ちと行動をとる。


「然し此姉迄が、今の自分を、父や兄と共謀して、漸々(ぜん/\)窮地に(いざな)つて行くかと思ふと、流石(さすが)に此所作をたゞの滑稽として、観察する訳には行かなかつた。代助は此先(このさき)、嫂が此事件を()う発展させる気だらうと考へて、少々弱つた。家のものゝ中で、嫂が一番 ()んな計画に興味をもつてゐたからである。もし嫂が此方面に向つて代助に肉薄すればする程、代助は漸々家族のものと疎遠にならなければならないと云ふ恐れが、代助の頭の何処(どこ)かに潜んでゐた」

…嫂は実家と代助をつなぐ唯一の存在であり、彼女もいわば敵側に回ると、代助と実家との縁は完全に断たれてしまう。それが惜しい気持ちが代助にはある。


「外へ出て見ると、風は全く()んだが、月も星も見えない静かな晩を、電燈が少し許り照らしてゐた」

「代助は始めて間違つた所に立つてゐる事を悟つた」

「代助は手探りでもする様に、暗い所を好加減(いゝかげん)に歩いた。」

…代助の前途もかすかな明かりの中を、間違いながら手探りで進んでいくことの比喩。


「彼の脳裏には、今日の日中に、()はる/″\痕(あと)を残した色彩が、時の前後と形の差別を忘れて、一度に散らついてゐた」

…代助の脳裏には、今日の出来事が繰り返される。特に佐川の娘との対面は、彼に強い印象を残す。それにまつわる他の登場人物たちの思惑も含め、様々な色彩となって代助の頭を(めぐ)る。


「彼は()の取り留めのない花やかな色調の反照として、三千代の事を思ひ出さざるを得なかつた。さうして其所(そこ)にわが安住の地を見出だした様な気がした。けれども其安住の地は、明らかには、彼の眼に映じて出なかつた。たゞ、かれの心の調子全体で、それを認めた丈であつた。従つて彼は三千代の顔や、容子や、言葉や、夫婦の関係や、病気や、身分を一纏(ひとまとめ)にしたものを、わが情調にしつくり合ふ対象として、発見したに過ぎなかつた」

…三千代は落ち着いた印象の人物として描かれている。代助はそこに愛と「安住の地」をイメージする。「けれども其安住の地は、明らかには、彼の眼に映じて出なかつた」以降の部分は、彼女との愛をまだしっかりとは確認していないことを表す。

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