夏目漱石「それから」本文と評論11-6
◇本文
何か事が起つたのかと思つて、上り掛けに、書生部屋を覗いて見たら、直木と誠太郎がたつた二人で、白砂糖を振り掛けた苺を食つてゐた。
「やあ、御馳走だな」と云ふと、直木は、すぐ居ずまひを直して、挨拶をした。誠太郎は唇の縁を濡らした儘(まゝ)、突然、
「叔父さん、奥さんは何時貰ふんですか」と聞いた。直木はにや/\してゐる。代助は一寸返答に窮した。已を得ず、
「今日は何故学校へ行かないんだ。さうして朝つ腹から苺なんぞを食つて」と調戯ふ様に、叱る様に云つた。
「だつて今日は日曜ぢやありませんか」と誠太郎は真面目になつた。
「おや、日曜か」と代助は驚ろいた。
直木は代助の顔を見てとう/\笑ひ出した。代助も笑つて、座敷へ来た。そこには誰も居なかつた。替え立ての畳の上に、丸い紫檀の刳抜盆が一つ出てゐて、中に置いた湯呑には、京都の浅井黙語の模様画が染め付けてあつた。からんとした広い座敷へ朝の緑が庭から射し込んで、凡てが静かに見えた。戸外の風は急に落ちた様に思はれた。
座敷を通り抜けて、兄の部屋の方へ来たら、人の影がした。
「あら、だつて、夫ぢや余まりだわ」と云ふ嫂の声が聞えた。代助は中へ這入つた。中には兄と嫂と縫子がゐた。兄は角帯に金鎖を巻き付けて、近頃流行る妙な絽の羽織を着て、此方を向いて立つてゐた。代助の姿を見て、
「そら来た。ね。だから一所に連れて行つて御貰ひよ」と梅子に話しかけた。代助には何の意味だか固より分らなかつた。すると、梅子が代助の方に向き直つた。
「代さん、今日貴方、無論暇でせう」と云つた。
「えゝ、まあ暇です」と代助は答へた。
「ぢや、一所に歌舞伎座へ行つて頂戴」
代助は嫂の此言葉を聞いて、頭の中に、忽ち一種の滑稽を感じた。けれども今日は平常の様に、嫂に調戯ふ勇気がなかつた。面倒だから、平気な顔をして、
「えゝ宜しい、行きませう」と機嫌よく答へた。すると梅子は、
「だつて、貴方は、最早、一遍観たつて云ふんぢやありませんか」と聞き返した。
「一遍だらうが、二遍だらうが、些とも構はない。行きませう」と代助は梅子を見て微笑した。
「貴方も余っ程道楽ものね」と梅子が評した。代助は益滑稽を感じた。
兄は用があると云つて、すぐ出て行つた。四時頃用が済んだら芝居の方へ回る約束なんださうである。それ迄自分と縫子丈で見てゐたら好ささうなものだが、梅子は夫れが厭だと云つた。そんなら直木を連れて行けと兄から注意された時、直木は紺絣を着て、袴を穿いて、六づかしく坐つてゐて不可ないと答へた。夫れで仕方がないから代助を迎ひに遣つたのだ、と、是は兄が出掛けの説明であつた。代助は少々理窟に合はないと思つたが、たゞ、左様ですかと答へた。さうして、嫂は幕の相間に話し相手が欲しいのと、夫れからいざと云ふ時に、色々用を云ひ付けたいものだから、わざ/\自分を呼び寄せたに違ないと解釈した。
梅子と縫子は長い時間を御化粧に費やした。代助は懇よく御化粧の監督者になつて、両人の傍に附いてゐた。さうして時々は、面白半分の冷やかしも云つた。縫子からは叔父さん随分だわを二三度繰り返へされた。
父は今朝早くから出て、家にゐなかつた。何処へ行つたのだか、嫂は知らないと云つた。代助は別に知りたい気もなかつた。たゞ父のゐないのが難有かつた。此間の会見以後、代助は父とはたつた二度程しか顔を合せなかつた。それも、ほんの十分か十五分に過ぎなかつた。話が込み入りさうになると、急に叮嚀な御辞義をして立つのを例にしてゐた。父は座敷の方へ出て来て、どうも代助は近頃少しも尻が落ち付かなくなつた。おれの顔さへ見れば逃げ支度をすると云つて怒つた。と嫂は鏡の前で夏帯の尻を撫でながら代助に話した。
「ひどく、信用を落としたもんだな」
代助は斯う云つて、嫂と縫子の蝙蝠傘を抱げて一足先へ玄関へ出た。車はそこに三挺并んでゐた。 (青空文庫より)
◇評論
〇白砂糖について
「開国によって、江戸時代に苦労して増やした国産砂糖は一気に駆逐され、砂糖はすっかり輸入に頼るようになっていました。しかし、そこから明治時代の国をあげての殖産興業により、砂糖を取りまく情勢も大きく変わります。
西洋に追いつき追い越せ ~寒い北海道でも砂糖生産~
明治時代は、日本の近代的な砂糖作り、製糖の創成期でもありました。日本では、砂糖はそれまで暖かい地方で栽培されるサトウキビから作られていましたが、明治になり外国を知るようになって変わります。1880年、北海道の紋別に官営の製糖工場が設立されます。この工場は、当時の松方正義内相がヨーロッパ視察でテンサイから多くの砂糖が作られているのを知り、創業したものでした。残念ながらこのときは、凶作などで製糖の実績は大きくないままに一度断絶を迎えますが、その後の北海道の農業や産業においてテンサイによる製糖は大きな意義がありました。北海道でのテンサイからの砂糖生産は、幾度かの失敗の後、昭和に入って軌道にのります。その結果、北海道でのテンサイからの砂糖生産は、現在、国産サトウキビからの砂糖生産に比べ、じつに4倍にもなっています。また、原料のテンサイは農家にとって、同じ農地でジャガイモ、小麦、テンサイ、豆と年ごとに変えて栽培し、連作障害を防ぐ「輪作」の中の一作物として重要な地位を占めています。
一方、サトウキビからの製糖はというと、サトウキビの栽培に向く土地が限られた日本では、製糖工場を設立しても原料の面から価格で外国産にかなわず、明治時代初期の国内糖業は苦難の時期でした。
台湾での糖業を追い風に
この苦難の時期から脱するきっかけになったのが、1895年に終結した日清戦争です。この戦争に勝利した日本は台湾を領有しますが、新渡戸稲造による「糖業改良意見書」に基づき、現地に多くの製糖会社が設立されました。1900年の台湾製糖を皮切りに、塩水港製糖など製糖工場が次々と創業。日露戦争後の好景気も後押しし、台湾は世界的な糖業地として知られるようになります。台湾の工場で作られる砂糖は主に、サトウキビの搾り汁を簡易的に製糖して糖分を固形化した原料糖で、消費地近くの精製糖工場へ運ばれるものでした。そのため、時を同じくして、日本国内でも近代的な精製糖工場が稼働し始めます。日清戦争終結と同じ1895年に東京で設立された日本精製糖株式会社に続き、神奈川の横濱製糖、神戸の湯浅製糖所、福岡県門司の大里製糖所など、近代的で大規模な製糖工場がこの時期に次々と創業していったのでした。
こうして日本の砂糖生産体制は整備され、明治35年の1902年には3万トンだった生産量は、1909年には27万トン、昭和4年の1929年には79万トンと飛躍的に伸びていきました。」(砂糖の歴史 日本編 ⑦ 精製糖工場の勃興(明治時代 ~ 昭和時代1)|株式会社パールエース (pearlace.co.jp))
「明治維新の開国により、安い海外の白砂糖が多量に流入し、国内の砂糖産業は壊滅的な打撃を受けた。国内の製糖業者は、西洋の進んだ装置、例えば真空結晶缶や遠心分離機等を導入し、洋式の製糖工場を建設し、対抗しようとしたが、かつての隆盛を取り戻すことはできなかった。この状況に変化を与えたのが、日清戦争であった。日清戦争の勝利を境に、清国より割譲された台湾に近代的な製糖業を興すことが国策となった。1902年に最初の近代化 された分蜜糖(製糖)工場(処理能力;300ト ン/日一甘蔗)が稼働し、やがて日露戦争の勝利で力を付けた日本資本は、相次いで台湾に分蜜糖工場を建設した。本土には台湾産原料糖を用いる精糖工場が設立された。1910年には日本の砂糖生産量は339千トンに達し、1938年の台湾の産糖量は1374千トンとなり、砂糖は完全に自給できるようになった」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jag1999/50/Special/50_Special_45/_pdf/-char/en)
〇苺について
「日本で食べられるようになったのはいつから?
江戸時代末期の1830年代といわれています。いちごはオランダ船によって持ち込まれたので、当時はオランダイチゴと呼ばれていたのだとか。その後、明治時代に農業が近代化されるにつれ、欧米からさまざまな種苗が導入されるようになり、1900年ごろには外国品種を使った営利栽培が始まっています」(いちごのあれこれ豆知識:農林水産省 (maff.go.jp))
「日本で本格的にいちごの栽培がはじめられたのは明治5年からで、その品種は『福羽』といういちごでした。フランスから取り寄せた早生種を育てたのがはじまりです。当初は庶民の口に入るような手頃なものではなく、皇室用とされて、『御苑いちご』『御料いちご』などと呼ばれていました」
「明治5年に日本で本格的に栽培が始められたいちごですが、大正時代を経て昭和になって、ようやく庶民も食べられるようになりました。昭和30年代にはビニール栽培が確立したために、飛躍的に生産量が増え、価格も下がってきて、庶民の口にも入るようになりました」(【苺の歴史】栽培の歴史から近年の苺まで (seo-sem.co.jp))
以上の資料から、書生の「直木と誠太郎がたつた二人で」誰気兼ねなく「白砂糖を振り掛けた苺を食つてゐた」ことは、やはり代助の実家の財力を感じさせる「御馳走」ということになる。
今話は、実家からの急な呼び出しに応じた代助の様子が描かれる。
実家では代助の結婚が話題になっているため、それを耳にした誠太郎は、「奥さんは何時貰ふんですか」と聞くことになる。それを聞いて「にや/\してゐる」直木の様子は、代助への気安さと若干の侮蔑を感じさせる。
甥にまで結婚の話が通じており、またそのことをあからさまに問われた代助は、「一寸返答に窮」する。どう返事したものかいい案が浮かばなかった彼は、「已を得ず、「今日は何故学校へ行かないんだ。さうして朝つ腹から苺なんぞを食つて」と調戯ふ様に、叱る様に云つた」。話題を変えたのだ。
「今日は日曜ぢやありませんか」と誠太郎に真面目に言われて、「おや、日曜か」と代助は驚ろく。毎日が日曜日の代助には、曜日の感覚が無い。自分で稼ぎもせず、ずいぶんのんきなものだ。
「丸い紫檀の刳抜盆」をヤフーで検索したら、12000円ほどだった。
浅井黙語の模様画が描かれた湯呑は、独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索 (artmuseums.go.jp)参照。青と焦げ茶色の鹿の絵がかわいい。
何の用かも知らずに呼び出された代助の心には、一抹の不安があっただろう。また結婚について父親の講釈の相手をせねばならぬかもしれない。「からんとした広い座敷へ朝の緑が庭から射し込んで、凡てが静かに見えた。戸外の風は急に落ちた様に思はれた」には、心がざわめく代助と外界との対比が描かれる。「朝の緑」は漱石の比喩表現としてはやや珍しい。
「代さん、今日貴方、無論暇でせう」という嫂のセリフは痛快だ。彼女の性格と、代助との関係を明確に表している。
ざっくばらんで短簡な嫂の言葉に代助は、思わず「えゝ、まあ暇です」と正直・素直に答える。
「ぢや、一所に歌舞伎座へ行つて頂戴」というセリフはふつう押しつけがましく響くものだが、彼女が言うと悪気なく聞こえるから不思議だ。素直でけれんみのない人。自分に心を許した嫂の様子から、「代助は嫂の此言葉を聞いて、頭の中に、忽ち一種の滑稽を感じた」。「けれども今日は平常の様に、嫂に調戯ふ勇気がなかつた」。結婚話が頭をかすめるのだ。だから「平気な顔をして、「えゝ宜しい、行きませう」と機嫌よく答へた」。
これに続いて梅子が、「だつて、貴方は、最早、一遍観たつて云ふんぢやありませんか」と聞き返したのは、「夫ぢや余まりだわ」の答えだろう。梅子と縫子の相手として、既に鑑賞済みの代助を呼び出すことに異を唱えたのだろう。
代助は、「一遍だらうが、二遍だらうが、些とも構はない。行きませう」と、気安く引き受ける。「貴方も余っ程道楽ものね」との梅子の言葉は、先に代助を気遣ったのに、今は貶すところが面白い。だから「代助は益滑稽を感じた」のだ。
「用があると云つて、すぐ出て行つた」兄の、「仕方がないから代助を迎ひに遣つたのだ」という「出掛けの説明」は、代助にとって「少々理窟に合はない」ものだった。彼は、「嫂は幕の相間に話し相手が欲しいのと、夫れからいざと云ふ時に、色々用を云ひ付けたいものだから、わざ/\自分を呼び寄せたに違ないと解釈した」。しかしこの解釈は間違いであることが後に判明する。
梅子と縫子が「長い時間を御化粧に費やした」場面は、家族間の確執が描かれるこの物語において清涼剤となっている。心が和む相手なので、代助も「懇よく御化粧の監督者になつて、両人の傍に附いて」いるし、「さうして時々は、面白半分の冷やかしも云」うのだ。縫子の「叔父さん随分だわ」という批判は、彼に心地よいものだったろう。この三人は互いにじゃれあっているのだ。
従ってその後には、懸案の父の話題となる。心身の隔絶が生じている親子は、互いに相手の所在を知らず、心も交わらない。「急に叮嚀な御辞義をして立つ」という他人行儀な態度。「おれの顔さへ見れば逃げ支度をすると云つて怒」る父に対し、代助は、「ひどく、信用を落としたもんだな」とつぶやくが、そのことをさほど気にしてはいない。
「鏡の前で夏帯の尻を撫でながら代助に話」す嫂の様子は、義弟に完全に心を許している。ふたりは男女の仲を越えている。
代助は「嫂と縫子の蝙蝠傘を抱げて一足先へ玄関へ出」、荷物持ちの役目を果たす。三人が乗る「車はそこに」「并んでゐた」。この車によってこの後代助は、予期せぬ運命に連れ去られる。




