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夏目漱石「それから」本文と評論11-5

◇本文

 翌日眼が覚めると、依然として脳の中心から、半径の違つた円が、頭を二重に仕切つてゐる様な心持がした。()う云ふ時に代助は、頭の内側と外側が、質の異なつた切り組み細工で出来上つてゐるとしか感じ得られない癖になつてゐた。夫れで能く自分で自分の頭を振つてみて、二つのものを混ぜやうと(つと)めたものである。彼は今枕の上へ髪を()けたなり、右の手を(かた)めて、耳の上を二三度敲(たゝ)いた。

 代助は斯(かゝ)る脳髄(のうずい)の異状を以て、かつて酒の(とが)に帰した事はなかつた。彼は小供の時から酒に量を得た男であつた。いくら飲んでも、左程平常を離れなかつた。のみならず、一度熟睡さへすれば、あとは身体に何の故障も認める事が出来なかつた。(かつ)て何かのはづみに、兄と()り飲みをやつて、三合入りの徳利を十三本倒した事がある。其 翌日(あくるひ)代助は平気な顔をして学校へ出た。兄は二日も頭が痛いと云つて(にが)り切つてゐた。さうして、これを年齢(とし)の違ひだと云つた。

 昨夕(ゆふべ)飲んだ麦酒(ビール)は是れに比べると愚かなものだと、代助は頭を敲(たゝ)きながら考へた。幸ひに、代助はいくら頭が二重になつても、脳の活動に狂ひを受けた事がなかつた。時としては、たゞ頭を使ふのが臆劫になつた。けれども努力さへすれば、充分複雑な仕事に堪えるといふ自信があつた。だから、()んな異状を感じても、脳の組織の変化から、精神に悪い影響を与へるものとしては、悲観する余地がなかつた。始めて、こんな感覚があつた時は驚ろいた。二遍目は寧ろ新奇な経験として喜んだ。この頃は、此経験が、多くの場合に、精神気力の低落(ていらく)に伴ふ様になつた。内容の充実しない行為を敢てして、生活する時の徴候になつた。代助にはそこが不愉快だつた。

 床の上に起き上がつて、彼は又頭を振つた。朝食の時、門野は今朝の新聞に出てゐた蛇と鷲の戦ひの事を話し掛けたが、代助は応じなかつた。門野は又始つたなと思つて、茶の間を出た。勝手の方で、

小母(をば)さん、さう働いちや悪いだらう。先生の膳は僕が洗つて置くから、彼方(あつち)へ行つて休んで御出で」と婆さんを(いたは)つてゐた。代助は始めて婆さんの病気の事を思ひ出した。何か優しい言葉でも掛ける所であつたが、面倒だと思つて()めにした。

 食刀(ナイフ)を置くや否や、代助はすぐ紅茶々碗を持つて書斎へ這入(はい)つた。時計を見るともう九時過すぎであつた。しばらく、庭を眺めながら、茶を啜(すゝ)り()ばしてゐると、門野が来て、

「御宅から御迎ひが参りました」と云つた。代助は(うち)から(むか)ひを受ける覚えがなかつた。聞き返して見ても、門野は車夫がとか何とか要領を得ない事を云ふので、代助は頭を振り/\玄関へ出て見た。すると、そこに兄の車を引く(かつ)と云ふのがゐた。ちやんと、護謨(ごむ)輪の車を玄関へ横付けにして、叮嚀に御辞義をした。

「勝、御迎へつて何だい」と聞くと、勝は恐縮の態度で、

「奥様が車を持つて、迎ひに行つて来いつて、御仰(おつしや)いました」

「何か急用でも出来たのかい」

 勝は(もと)より何事も知らなかつた。

「御出でになれば分るからつて――」と簡潔に答へて、言葉の尻を結ばなかつた。

 代助は奥へ這入つた。婆さんを呼んで着物を出させやうと思つたが、腹の痛むものを使ふのが厭なので、自分で簟笥の抽出(ひきだし)を掻き回して、急いで身支度をして、勝の車に乗つて出た。

 其日は風が強く吹いた。勝は苦しさうに、前の方に曲(こゞ)んで()けた。乗つてゐた代助は、二重の頭がぐる/\回転するほど、風に吹かれた。けれども、音も響きもない車輪が美くしく動いて、意識に乏しい自分を、半睡の状態で(ちう)に運んで行く有様が愉快であつた。青山の家へ着く時分には、起きた頃とは違つて、気色が余程晴々して来た。 (青空文庫より)


◇評論

「翌日眼が覚めると、依然として脳の中心から、半径の違つた円が、頭を二重に仕切つてゐる様な心持がした。()う云ふ時に代助は、頭の内側と外側が、質の異なつた切り組み細工で出来上つてゐるとしか感じ得られない癖になつてゐた。夫れで能く自分で自分の頭を振つてみて、二つのものを混ぜやうと(つと)めたものである。彼は今枕の上へ髪を()けたなり、右の手を(かた)めて、耳の上を二三度敲(たゝ)いた」

…前日に代助は、ビールをしたたかに飲んでおり、二日酔いの症状の表れ。またこれには、自分と平岡夫婦との関係の「二重」性も反映しているだろう。平岡と代助が、三千代に重なり合っている。さらに、代助自身の判断が二つに割れていることも表す。このままの状態を続けるのか、それとも世の道義を無視して三千代へと進むのか。そうして物理的に自分の頭をたたいてみても、その判断はなかなかつかないし、すべての二重性は融合しない。


「代助は斯(かゝ)る脳髄(のうずい)の異状を以て、かつて酒の(とが)に帰した事はなかつた。彼は小供の時から酒に量を得た男であつた。いくら飲んでも、左程平常を離れなかつた。のみならず、一度熟睡さへすれば、あとは身体に何の故障も認める事が出来なかつた。(かつ)て何かのはづみに、兄と()り飲みをやつて、三合入りの徳利を十三本倒した事がある。其 翌日(あくるひ)代助は平気な顔をして学校へ出た。兄は二日も頭が痛いと云つて(にが)り切つてゐた。さうして、これを年齢(とし)の違ひだと云つた」

…当時の成年も20才であったが、飲酒する未成年も結構いたようだが、「小供の時から酒に量を得た男であつた」とはずいぶん物騒な話だ。


「大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』でビートたけしさんと森山未來さんによって演じられた5代目古今亭志ん生(1890~1973(明治23~昭和48)年)の自伝『なめくじ艦隊 志ん生半生記』には、現代の感覚からするとなんだか奇妙なことが書かれています。

「13、4の頃から酒屋の前へ突ったって、ひや酒をガブガブと飲んだんですから、末おそろしい子供だったんですよ。エエ、その頃は酒屋でも平気で酒をのませてくれたんですよ。子供にだって…」

どうやら明治時代には、子供の飲酒は特に禁止されていなかったようです。

では日本で未成年の飲酒が禁止されたのはいつからで、そこにはどのような事情があったのでしょうか?

未成年の飲酒が法律で取り締まられるようになったのは、1922(大正11)年4月1日に、現在の「未成年者飲酒禁止法」にあたる「二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律」が施行されて以降のこと。それ以前は未成年者飲酒への取り締まりは特になく、大人のお酒の席で子供がお酒を口にすることは珍しくはありませんでした。」(酒豪な子供もいた?未成年の飲酒が禁止されたのは大正11年…でもそれ以前はどうなってたの? | ライフスタイル - Japaaan)


それにしても、「三合入りの徳利を十三本倒した」ということは、兄と二人で一升瓶でほぼ4本分を飲んだことになり、よく急性アルコール中毒にならなかったものだ。命の危険に迫る酒量。


「勝手の方で、「小母(をば)さん、さう働いちや悪いだらう。先生の膳は僕が洗つて置くから、彼方(あつち)へ行つて休んで御出で」と婆さんを(いたは)つてゐた。」

…門野のこの発言には、主人の代助を批判する気持ちが含まれている。同居する「小母(をば)さん」の体調不良を全く気にもかけず、自分は二日酔いという状態の主人。おまけに朝食の世話までさせている。気の利かぬ主人と気の利く自分という構図を露わにしたいのだ。従ってこの言葉は当然、代助に聞こえるように言っている。門野は自分の方が代助よりも上の存在だと考えている。


朝食後、代助は自宅に呼び出される。しかもその方法は、有無を言わせぬ強制的移動だ。

「代助は(うち)から(むか)ひを受ける覚えがなかつた。聞き返して見ても、門野は車夫がとか何とか要領を得ない事を云ふ」。「兄の車を引く(かつ)」も、「奥様が車を持つて、迎ひに行つて来いつて、御仰(おつしや)いました」と答えるばかりで、「(もと)より何事も知らなかつた」。「「御出でになれば分るからつて――」と簡潔に答へて、言葉の尻を結ばなかつた」。

兄の車による理由を言わぬ呼び出しに、暗雲が漂う。代助にとっては朝駆けによる敵の襲来だ。

代助は「急いで身支度をして、勝の車に乗つて出た」。


「其日は風が強く吹いた。勝は苦しさうに、前の方に曲(こゞ)んで()けた。乗つてゐた代助は、二重の頭がぐる/\回転するほど、風に吹かれた。けれども、音も響きもない車輪が美くしく動いて、意識に乏しい自分を、半睡の状態で(ちう)に運んで行く有様が愉快であつた。青山の家へ着く時分には、起きた頃とは違つて、気色が余程晴々して来た」

…この初めの部分は、代助が実家に行くことへの忌避感を表す。

また、この勝の様子は、やがて代助もそれと同じようになることを暗示している。三千代との生活を成立させるためには、代助も何でもしなければならない。身体を使った労働は、悪天候に左右されない。

二日酔いも軽快しつつあるためか、代助の「気色」は次第に晴れていく。

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