夏目漱石「それから」本文と評論11-4「三千代は次の間で、こつそり仕事をしてゐた」
◇本文
晩食の時、丸善から小包が届いた。箸を措いて開けて見ると、余程前に外国へ注文した二三の新刊書であつた。代助はそれを腋の下に抱へ込んで、書斎へ帰つた。一冊づゝ順々に取り上げて、暗いながら二三頁、捲る様に眼を通したが何処も彼の注意を惹く様な所はなかつた。最後の一冊に至つては、其名前さへ既に忘れてゐた。何れ其中読む事にしやうと云ふ考で、一所に纏めた儘、立つて、本棚の上に重ねて置いた。椽側から外を窺(うかゞ)うと、奇麗な空が、高い色を失ひかけて、隣の梧桐の一際濃く見える上に、薄い月が出てゐた。
そこへ門野が大きな洋燈を持つて這入つて来た。それには絹縮(きぬちゞみ)の様に、竪に溝の入つた青い笠が掛けてあつた。門野はそれを洋卓の上に置いて、又椽側へ出たが、出掛けに、
「もう、そろ/\蛍が出る時分ですな」と云つた。代助は可笑しな顔をして、
「まだ出やしまい」と答へた。すると門野は例の如く、
「左様でしやうか」と云ふ返事をしたが、すぐ真面目な調子で、「蛍てえものは、昔は大分 流行たもんだが、近来は余り文士 方が騒がない様になりましたな。何う云ふもんでせう。蛍だの烏だのつて、此頃ぢやついぞ見た事がない位なもんだ」と云つた。
「左様さ。何う云ふ訳だらう」と代助も空つとぼけて、真面目な挨拶をした。すると門野は、
「矢っ張り、電気燈に圧倒されて、段々退却するんでせう」と云ひ終つて、自ら、えへゝゝと、洒落の結末をつけて、書生部屋へ帰つて行つた。代助もつゞいて玄関迄出でた。門野は振返つた。
「また御出掛けですか。よござんす。洋燈は私が気を付けますから。――小母さんが先刻から腹が痛いつて寝たんですが、何大した事はないでせう。御緩くり」
代助は門を出た。江戸川迄来ると、河の水がもう暗くなつてゐた。彼は固より平岡を訪ねる気であつた。から何時の様に川辺を伝はないで、すぐ橋を渡つて、金剛寺坂を上つた。
実を云ふと、代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢つてゐた。一遍は平岡から比較的長い手紙を受取つた時であつた。それには、第一に着京以来御世話になつて難有いと云ふ礼が述べてあつた。それから、――其後色々朋友や先輩の尽力を辱うしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた。自分も遣つて見たい様な気がする。然し着京の当時君に御依頼をした事もあるから、無断では宜しくあるまいと思つて、一応御相談をすると云ふ意味が後に書いてあつた。代助は、其当時平岡から、兄の会社に周旋してくれと依頼されたのを、其儘にして、断わりもせず今日迄放つて置いた。ので、其返事を促されたのだと受取つた。一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡過ぎると云ふ考もあつたので、翌日出向いて行つて、色々兄の方の事情を話して当分、此方は断念して呉れる様に頼んだ。平岡は其時、僕も大方左様だらうと思つてゐたと云つて、妙な眼をして三千代の方を見た。
いま一遍は、愈新聞の方が極つたから、一晩 緩くり君と飲みたい。何日に来て呉れといふ平岡の端書が着いた時、折悪く差支が出来たからと云つて散歩の序に断わりに寄つたのである。其時平岡は座敷の真中に引繰り返つて寐てゐた。昨夕どこかの会へ出て、飲み過ごした結果だと云つて、赤い眼をしきりに摩つた。代助を見て、突然、人間は何うしても君の様に独身でなけりや仕事は出来ない。僕も一人なら満洲へでも亜米利加へでも行くんだがと大いに妻帯の不便を鳴らした。三千代は次の間で、こつそり仕事をしてゐた。
三遍目には、平岡の社へ出た留守を訪ねた。其時は用事も何もなかつた。約三十分許り椽へ腰を掛けて話した。
夫れから以後は可成小石川の方面へ立ち回らない事にして今夜に至たのである。代助は竹早町へ上つて、それを向ふへ突き抜けて、二三町行くと、平岡と云ふ軒燈のすぐ前へ来た。格子の外から声を掛けると、洋燈を持つて下女が出た。が平岡は夫婦とも留守であつた。代助は出先も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乗つて、本郷迄来て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入つて、麦酒をぐい/\飲んだ。
(青空文庫より)
◇評論
「晩食の時、丸善から小包が届いた。箸を措いて開けて見ると、余程前に外国へ注文した二三の新刊書であつた」
…代助は、働かずとも、高額な洋書を購入する資金とそれを読みこなす語学力がある。
「梧桐」…「アオギリ」の漢語的表現。
「青桐」…庭木、街路樹に用いる落葉高木。葉はキリに似て、幹は緑色。(三省堂「新明解国語辞典」)
なお、アオギリ(青桐) - 庭木図鑑 植木ペディア (uekipedia.jp) に詳しい。
「絹縮」…縦糸に生糸、横糸に強撚糸を使って織り上げ、精練して縦しぼを出した絹織物。(デジタル大辞泉)
「もう、そろ/\蛍が出る時分ですな」と、似もつかぬセリフを吐く門野に、「代助は可笑しな顔を」する。この後のやり取りも、全く「洒落の結末」とはなっていないところが、門野の愚な様子を表す。
「また御出掛けですか。よござんす。洋燈は私が気を付けますから。――小母さんが先刻から腹が痛いつて寝たんですが、何大した事はないでせう。御緩くり」
…「御出掛けですか」に、「また」は不要だし、「よござんす。洋燈は私が気を付けますから」というのも、それは養ってもらっている書生の役目だ。さらに、「小母さんが先刻から腹が痛いつて寝たんですが、何大した事はないでせう。御緩くり」というのも、恩着せがましい。まるで代助が下女の異変に気づかぬ様を批判しているようであり、また、体調不良の下女を置き去りにして外出しようとしている代助を批判しているようでもある。下女の様子がおかしければ、主人の代わりに門野が看病すればよい。それを必ず代助がしなければならないこともない。従ってこのセリフも恩着せがましいものだ。以前にもあったが、門野は、代助が気付かぬことを自分は気付いているという賢さがあるそぶりをし、またそれを代助の代わりに自分がやっておきますという態度をとる。愚者が、他者を蔑視し批判をするという愚の上塗りの様子。
だから代助は、何も言わず「門を出た」のだ。
「実を云ふと」以下の部分は、読者にとっては急に後付けされた気が若干する。
「代助はそれから三千代にも平岡にも二三遍逢つてゐた」。
〇「一遍」…「平岡から比較的長い手紙を受取つた時」
手紙の内容…
・「着京以来御世話になつて難有いと云ふ礼」
・「其後色々朋友や先輩の尽力を辱うしたが、近頃ある知人の周旋で、某新聞の経済部の主任記者にならぬかとの勧誘を受けた」
・「自分も遣つて見たい様な気がする。然し着京の当時君に御依頼をした事もあるから、無断では宜しくあるまいと思つて、一応御相談をする」
代助の感想…
・「其当時平岡から、兄の会社に周旋してくれと依頼されたのを、其儘にして、断わりもせず今日迄放つて置いた。ので、其返事を促されたのだと受取つた」
代助の対応…
・「一通の手紙で謝絶するのも、あまり冷淡過ぎると云ふ考もあつたので、翌日出向いて行つて、色々兄の方の事情を話して当分、此方は断念して呉れる様に頼んだ」
平岡の反応…
・「僕も大方左様だらうと思つてゐたと云つて、妙な眼をして三千代の方を見た」
この、「妙な眼をして三千代の方を見た」から、平岡の就職斡旋のために代助が積極的に動いてくれているはずだと、三千代が平岡に話していたことが推察される。それによって平岡も、代助の返事を、望みを持ちながら待っていたのだろう。
〇「いま一遍」…「愈新聞の方が極つたから、一晩 緩くり君と飲みたい。何日に来て呉れといふ平岡の端書が着いた時、折悪く差支が出来たからと云つて散歩の序に断わりに寄つた」
・「其時平岡は座敷の真中に引繰り返つて寐てゐた。昨夕どこかの会へ出て、飲み過ごした結果だと云つて、赤い眼をしきりに摩つた」。
・「代助を見て、突然、人間は何うしても君の様に独身でなけりや仕事は出来ない。僕も一人なら満洲へでも亜米利加へでも行くんだがと大いに妻帯の不便を鳴らした」。
・「三千代は次の間で、こつそり仕事をしてゐた」。
平岡が出席した昨夕の会は、後の伏線になるだろう。「飲み過ごした」からには、そこでの交流が熱を帯びたものであったろう。新聞社の歓迎会かもしれない。
そうしてその興奮を得たつながりで、仕事をするには独身でなければならないという考えに至っている。
その時隣には三千代が控えている。彼女に聞かれるのもかまわずこのようなことを言い、さらに他者の代助を前に発言されていることは、三千代への愛は失われていることを表す。こんなセリフを隣で聞かされる三千代がかわいそうだ。彼女は夫にそんなことを言われる理由も罪も無い。それを思うと、代助もいたたまれなかっただろう。
〇「三遍目」…「平岡の社へ出た留守を訪ねた。其時は用事も何もなかつた。約三十分許り椽へ腰を掛けて話した」。
平岡が出社していることから、代助は三千代と二人きりで「約三十分許り椽へ腰を掛けて話した」ことになる。その描かれない内容が気になる。
「夫れから以後は可成小石川の方面へ立ち回らない事にして今夜に至たのである」
…「夫れから以後は可成小石川の方面へ立ち回らない事にし」理由が述べられない。これにはやはり、「三遍目」の出来事や会話が関係しているだろう。
今話は代助がいよいよ三千代のもとに向かおうと決心した場面だった。
「代助は竹早町へ上つて、それを向ふへ突き抜けて、二三町行くと、平岡と云ふ軒燈のすぐ前へ来た。格子の外から声を掛けると、洋燈を持つて下女が出た。が平岡は夫婦とも留守であつた。代助は出先も尋ねずに、すぐ引返して、電車へ乗つて、本郷迄来て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入つて、麦酒ビールをぐい/\飲んだ」
…平岡の家は伝通院付近と述べられていたが、ここで比較的詳しく述べられる。竹早町は、伝通院の西側にあり、現在、都立竹早高校がある。
「竹早町へ上つて、それを向ふへ突き抜けて、二三町行くと」という動線は、現在の神田川を渡り、金剛寺坂を上り、千川通を越え、小石川植物園のある北東方向への移動となる。1町は109mだから、2・3町は2・300m。平岡の家は、白山通りのあたりか。
決心した上でのせっかくの訪れだったが、三千代はおらず、肩透かしの状態。代助は仕方なく「すぐ引返」す。「電車へ乗つて、本郷迄来て、本郷から又神田へ乗り換えて、そこで降りて、あるビヤー、ホールへ這入つて、麦酒をぐい/\飲んだ」というようにぶつぶつ切られた語が矢継ぎ早に表現されることは、代助の行動の写実であり、そのやるせない心情を表している。会いたい人に会えない鬱屈が、彼の身体を勝手に動かし、気晴らしのビールを「ぐいぐい」飲ませる。
「ビヤー、ホール」…神田でビヤ・ホールといえば、神田小川町にあった「東京ビール」をさす。東京で最初にできたビヤ・ホールとして有名であった。(角川文庫注釈)
これに対し、「1899(明治32)年8月4日、東京・新橋に日本初のビアホール、「恵比寿ビール Beer Hall」が開店した」(1899年日本初のビアホール「恵比寿ビヤホール」が開店|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム (kirinholdings.com))とあり、どちらが正しいのだろうか。




