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夏目漱石「それから」本文と評論11-3

◇本文

 彼は足の進まない方角へ散歩に出たのを悔いた。もう一遍出直して、平岡の(もと)迄行かうかと思つてゐる所へ、森川町から寺尾が来た。新らしい麦藁帽を(かぶ)つて、閑静な薄い羽織を着て、暑い/\と云つて赤い顔を()いた。

「何だつて、今時分来たんだ」と代助は愛想もなく云ひ放つた。彼と寺尾とは平生でも、この位な言葉で交際してゐたのである。

「今時分が丁度訪問に好い刻限だらう。君、又昼寐をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱で不可(いか)ん。君は一体何の為に生まれて来たのだつたかね」と云つて、寺尾は麦藁帽で、しきりに胸のあたりへ風を送つた。時候はまだ夫程暑くないのだから、此所作は頗る愛嬌を添へた。

「何の為に生まれて来やうと、余計な御世話だ。夫れより君こそ何しに来たんだ。又「此所(こゝ)十日許(とほかばかり)の間」ぢやないか、金の相談ならもう御免だよ」と代助は遠慮なく先へ断つた。

「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は已を得ず答へた。けれども別段感情を害した様子も見えなかつた。実を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無礼とは思へなかつたのである。代助は黙つて、寺尾の顔を見てゐた。それは、(むな)しい壁を見てゐるより以上の何等の感動をも、代助に与へなかつた。

 寺尾は(ふところ)から汚ない仮綴(かりとぢ)の書物を出した。

「是を訳さなけりやならないんだ」と云つた。代助は依然として黙つてゐた。

「食ふに困らないと思つて、さう無精な顔をしなくつて好からう。もう少し判然として()れ。此方(こつち)は生死の戦ひだ」と云つて、寺尾は小形(こがた)の本をとん/\と椅子の角で二返 敲(たゝ)いた。

何時(いつ)迄に」

 寺尾は、書物の(ページ)をさら/\と()つて見せたが、断然たる調子で、

「二週間」と答へた後で、「()うでも()うでも、夫迄に片付けなけりや、食へないんだから仕方がない」と説明した。

「偉い勢ひだね」と代助は冷やかした。

「だから、本郷からわざ/\遣つて来たんだ。なに、金は借りなくても好い。――貸せば猶好いが――夫れより少し分らない所があるから、相談しやうと思つて」

「面倒だな。僕は今日は頭が悪くつて、そんな事は()つてゐられないよ。好い加減に訳して置けば構はないぢやないか。どうせ原稿料は(ページ)で呉れるんだらう」

「なんぼ、僕だつて、さう無責任な翻訳は出来ないだらうぢやないか。誤訳でも指摘されると後から面倒だあね」

「仕様がないな」と云つて、代助は矢っ張り横着な態度を維持してゐた。すると、寺尾は、

「おい」と云つた。「冗談ぢやない、君の様に、のらくら遊んでる人は、たまには其位な事でも、しなくつちや退屈で仕方がないだらう。なに、僕だつて、本の善く読める人の所へ行く気なら、わざ/\君の所迄来やしない。けれども、()んな人は君と違つて、みんな忙しいんだからな」と少しも辟易した様子を見せなかつた。代助は喧嘩をするか、相談に応ずるか何方(どつち)かだと覚悟を()めた。彼の性質として、()う云ふ相手を軽蔑する事は出来るが、怒り付ける気は出せなかつた。

「ぢや成るべく少しに仕様ぢやないか」と断つて置いて、符号(マーク)()けてある所丈を見た。代助は其書物の梗概さへ聞く勇気がなかつた。相談を受けた部分にも曖昧な所は沢山あつた。寺尾は、やがて、

「やあ、難有う」と云つて本を伏せた。

「分からない所は何うする」と代助が聞いた。

「なに何うかする。――誰に聞いたつて、さう善く分かりやしまい。第一時間がないから已を得ない」と、寺尾は、誤訳よりも生活費の方が大事件である如く(てん)から極めてゐた。

 相談が済むと、寺尾は例によつて、文学談を持ち出だした。不思議な事に、さうなると、自己の翻訳とは違つて、いつもの通り非常に熱心になつた。代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものが沢山あるだらうと考へて、寺尾の矛盾を可笑(おか)しく思つた。けれども面倒だから、口へは出さなかつた。

 寺尾の御蔭で、代助は其日とう/\平岡へ行きはぐれて仕舞つた。 (青空文庫より)


◇評論

前話で「自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へ」、「矢つ張り、三千代さんに()はなくちや不可(いか)ん」とつぶやいた代助だったが、そのすぐ後の実際の行動は、「足の進まない方角へ散歩に出た」のだった。弱い決意ということになる。自分の気持ちに素直に従おうとしても、制約の大きさを感じる代助。平岡と世の道義の存在、三千代の気持ち。迷いが、「もう一遍出直して、平岡の(もと)迄行かうかと思つてゐる所へ」からもうかがわれる。初めの方角も違い、やはり三千代のもとに向かおうとしても、一度家に帰り、出直してからでないと気持ちが悪いという精神状態。


「平岡の(もと)迄行かうかと思つてゐる所へ、森川町から寺尾が来た」

…代助は以前、アンニュイの気晴らしに、森川町に住む寺尾のもとを訪ねている。(角川文庫P112・8-2) 同窓の彼は現在、文学という「危険な商売」をやっている。

「森川町」…本郷森川町。東京大学正門前付近。現在の文京区西片。(角川文庫注釈)

森川町は、平岡が住む伝通院の東側に当たる。三千代へと意識が向かっていた代助のもとに、その同じ方角から寺尾は現れたことになる。


「新らしい麦藁帽を(かぶ)つて、閑静な薄い羽織を着て、暑い/\と云つて赤い顔を()いた」

…以前あった寺尾の説明では、彼は、「窮々言って原稿生活を持続している」とあり、決して金に余裕があるとは思えない。その彼が、「新らしい麦藁帽を(かぶ)つて、閑静な薄い羽織を着て」という洒落た格好をしているのはやや不審だ。平岡もそうだが、金が無いと言いつつ季節や世間体を意識した服装(が可能)である様子が描かれる。その金の出どころはどこなのだろう。


「今時分が丁度訪問に好い刻限だらう。君、又昼寐をしたな。どうも職業のない人間は、惰弱で不可(いか)ん。君は一体何の為に生まれて来たのだつたかね」

…前話で代助自身が生まれた意味を自問していた。その同じことが、他者から問いかけられた形。人に言われないでも、ちゃんと自分で考えていると、代助は思ったろう。まさに、「何の為に生まれて来やうと、余計な御世話」ということだ。また、「職業のない人間」に類する言葉は、代助の周囲のほぼすべての人からかけられている。その頻度も多いので、その意味でも代助は慣れっこになっているだろう。

もっとも寺尾は軽口をよくたたくので、代助はさらに聞き流している。


「寺尾は麦藁帽で、しきりに胸のあたりへ風を送つた。時候はまだ夫程暑くないのだから、此所作は頗る愛嬌を添へた。」

…寺尾に滑稽を感じる代助。互いに好きなことを言い合う関係だ。


「「君も随分礼義を知らない男だね」と寺尾は已を得ず答へた。けれども別段感情を害した様子も見えなかつた。実を云ふと、此位な言葉は寺尾に取つて、少しも無礼とは思へなかつたのである。代助は黙つて、寺尾の顔を見てゐた。それは、(むな)しい壁を見てゐるより以上の何等の感動をも、代助に与へなかつた」

…代助にとって寺尾の存在は、あまり価値が無いことがわかる。


どうやら寺尾は、「汚ない仮綴(かりとぢ)の書物」の翻訳の依頼のため、代助を訪れたようだ。「少し分らない所があるから、相談しやうと思つて」と言う寺尾に、「面倒だな。僕は今日は頭が悪くつて、そんな事は()つてゐられないよ」と取り合わない代助。代助は、少なくとも寺尾よりかは語学力があるようだ。ただこの本が、英語なのかロシア語やフランス語なのかが不明ではある。


1、君の様に、のらくら遊んでる人は、たまには其位な事でも、しなくつちや退屈で仕方がないだらう。

2、僕だつて、本の善く読める人の所へ行く気なら、わざ/\君の所迄来やしない。

3、けれども、()んな人は君と違つて、みんな忙しい

これらはすべて代助には無関係の事情・理由だ。寺尾は手前勝手な理由で代助に翻訳を任せようとするのに対し、「代助は喧嘩をするか、相談に応ずるか何方(どつち)かだと覚悟を()めた」。しかし「彼の性質として、()う云ふ相手を軽蔑する事は出来るが、怒り付ける気は出せなかつた」。無用なトラブルを回避する代助。


「代助は現今の文学者の公けにする創作のうちにも、寺尾の翻訳と同じ意味のものが沢山あるだらうと考へて」

…「生活費」のために文章をものし、「誤訳」・誤りを看過する「文学者」たちへの文明批判。


「寺尾の御蔭で、代助は其日とう/\平岡へ行きはぐれて仕舞つた」

…アンニュイを解消し、自己の欲動に従うためには、三千代に会わねばならないとした代助の決断は、無価値な寺尾の登場により叶わずに終わる。

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