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夏目漱石「それから」2-1

◇本文

 着物でも着換(きか)へて、此方(こつち)から平岡の宿を訪ね様かと思つてゐる所へ、折よく先方(むかふ)から()つて来た。車をがら/\と門前迄乗り付けて、此所(こゝ)だ/\と(かぢ)棒を下ろさした声は(たし)かに三年前分かれた時そつくりである。玄関で、取次(とりつぎ)の婆さんを(つら)まへて、宿へ蟇口(がまぐち)を忘れて来たから、一寸(ちよつと)二十銭借してくれと云つた所などは、どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない。代助は玄関迄 ()け出して行つて、手を()らぬ許りに旧友を座敷へ上げた。

()うした。まあ(ゆつく)りするが()い」

「おや、椅子だね」と云ひながら平岡は安楽椅子へ、どさりと身体(からだ)を投げ掛けた。十五貫目以上もあらうと云ふわが肉に、三文の価値(ねうち)を置いてゐない様な扱ひ方に見えた。それから椅子の()に坊主頭を(もた)して、一寸(ちよつと)部屋の中(うち(を見廻しながら、

「中々(なか/\)、()(うち)だね。思つたより好い」と()めた。代助は黙つて巻莨入(まきたばこいれ)(ふた)を開けた。

「それから、以後何()うだい」

「何うの、()うのつて、――まあ色々話すがね」

「もとは、よく手紙が来たから、様子が分かつたが、近頃ぢや(ちつ)とも()こさないもんだから」

「いや何所(どこ)彼所(かしこ)も御無沙汰で」と平岡は突然眼鏡を外して、脊広の胸から皺だらけの手帛(ハンケチ)を出して、()をぱち/\させながら()き始めた。学校時代からの近眼である。代助は(じつ)と其様子を眺めてゐた。

「僕より君はどうだい」と云ひながら、細い(つる)を耳の後ろへ絡みつけに、両手で持つて行つた。

「僕は相変らずだよ」

「相変らずが一番 ()いな。あんまり相変るものだから」

 そこで平岡は八の字を寄せて、庭の模様を眺め出したが、不意に語調を()へて、

「やあ、桜がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか(もと)の様にしんみりしない。代助も少し気の抜けた風に、

「向ふは大分 (あつた)かいだらう」と(つい)で同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法外に(ねつ)した具合で、

「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。平岡は巻莨(まきたばこ)に火を()けた。其時婆さんが漸く急須(きうす)に茶を()れて持つて出た。今しがた鉄瓶に水を射して仕舞つたので、煮立るのに暇が入つて、つい遅くなつて済みませんと言訳をしながら、洋卓(テーブル)の上へ盆を載せた。二人は婆さんの喋舌(しやべ)つてる(あひだ)、紫檀の盆を見て黙つてゐた。婆さんは相手にされないので、(ひと)りで愛想笑ひをして座敷を出た。

「ありや何なんだい」

「婆さんさ。雇つたんだ。飯を食はなくつちやならないから」

「御世辞が好いね」

 代助は赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へ()げて(さげす)む様に笑つた。

「今迄斯んな所へ奉公した事がないんだから仕方がない」

「君の家から誰か連れて呉れば好いのに。大勢ゐるだらう」

「みんな若いの許りでね」と代助は真面目に答へた。平岡は此時始めて声を出して笑つた。

「若けりや猶結構ぢやないか」

「兎に角 (うち)の奴は好くないよ」

「あの婆さんの外に誰かゐるのかい」

「書生が一人ゐる」

 門野は何時(いつ)の間にか帰つて、台所の方で婆さんと話をしてゐた。

「それ(ぎり)かい」

「それ限だ。何故(なぜ)

「細君はまだ貰はないのかい」

 代助は心持赤い顔をしたが、すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた。

(さい)を貰つたら、君の所へ通知位する筈ぢやないか。(それ)よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。 (青空文庫より)


◇評論

 「着物でも着換へて、此方(こつち)から平岡の宿を訪ね様かと思つてゐる所へ、折よく先方(むかふ)から()つて来た」

 平岡は、代助が来るのを待っていられない男なのだ。よほどの急用と見える。


 「車をがら/\と門前迄乗り付けて、此所(こゝ)だ/\と(かぢ)棒を下ろさした声は(たし)かに三年前分かれた時そつくりである」

 粗雑でせわしない平岡の様子。また、ふたりは「三年前分かれた」ことがわかる。「学生」は大学だろうから、それから3年経過しており、ふたりの年齢は25歳ぐらいになる。また、門野の兄は26歳とあったから、門野は代助より年下の可能性が高い。


 「玄関で、取次(とりつぎ)の婆さんを(つら)まへて、宿へ蟇口(がまぐち)を忘れて来たから、一寸(ちよつと)二十銭借してくれと云つた所などは、どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない」

 いくら急いでいたとはいえ、車代の立て替えを代助ではなく婆さんに依頼する平岡の無遠慮さ・無頼な様。ここでは代助はその様子を、「どうしても学校時代の平岡を思ひ出さずにはゐられない」と、好感を持って受け取り・受け入れている。「学校時代」から三年ぶりの再会に心が躍る代助は、「玄関迄 ()け出して行つて、手を()らぬ許りに旧友を座敷へ上げた」。ふたりはおそらく親友だったのだろう。それまでの代助の落ち着いた様子とは一変する、平岡の迎え方だ。


「「()うした。まあ(ゆつく)りするが()い」

「おや、椅子だね」と云ひながら平岡は安楽椅子へ、どさりと身体(からだ)を投げ掛けた」。

 気兼ねのない平岡。気の置けないふたりの様子。代助の「座敷」(畳敷きか)には、「安楽椅子」が置かれている。


「十五貫目以上もあらうと云ふわが肉に、三文の価値(ねうち)を置いてゐない様な扱ひ方に見えた。それから椅子の()に坊主頭を(もた)して」

 平岡は、15貫目、坊主頭。1貫目は3.75㎏なので、15貫目は56.25㎏。明治期の成人男性の平均身長は160㎝程度、平均体重は50㎏程度なので、平岡の身長は示されていないが体重は平均を上回っており、大柄だったことがわかる。体調に敏感な代助に対し、自分の体に「価値(ねうち)を置いてゐない様な扱ひ方」。


 「一寸(ちよつと)部屋の中(うち(を見廻しながら、「中々(なか/\)、()(うち)だね。思つたより好い」と()めた」。

 友人とはいえ、あからさまな普請の批評は無遠慮な行為であり、「思ったより好い」は不要だ。それが平岡なのだろうが、だから「代助は黙つて巻莨入(まきたばこいれ)(ふた)を開けた」のだ。何とも返事のしようのない様子。


 「「それから、以後何()うだい」

「何うの、()うのつて、――まあ色々話すがね」」

 再会すれば遠慮のいらない仲だが、ふたりの交流はしばらく途絶えていたことがわかる。そうであれば、突然の来訪は代助を驚かせただろうし、またその理由が気になるところだ。しかし平岡は「――まあ色々話すがね」と留保する。


 「もとは、よく手紙が来たから、様子が分かつたが、近頃ぢや(ちつ)とも()こさないもんだから」

 代助の聞きたい内容は、他にある。三千代のその後が知りたいのだ。それに対し平岡は、「いや何所(どこ)彼所(かしこ)も御無沙汰で」と、急に来たにしては相変わらずはぐらかす。そうして、「突然眼鏡を外して、脊広の胸から皺だらけの手帛(ハンケチ)を出して、()をぱち/\させながら()き始めた」。何か大切なことを話し出す前の、ルーティンのようなしぐさだ。

 平岡は、眼鏡をかけ(「学生時代からの近眼」)、ハンカチがしわだらけ。彼はそれを気にしないタイプ。また、妻の三千代はしわを伸ばす処置をしないのか。


 「代助は(じつ)と其様子を眺めてゐた。」

 代助は、平岡の口から何が飛び出すか、その様子をうかがっている。また、以前の平岡との違いを探ろうとしている。


 「「僕より君はどうだい」と云ひながら、細い(つる)を耳の後ろへ絡みつけに、両手で持つて行つた。」

 平岡は、なかなか本題に入ろうとしない。

 この、「と云ひながら、細い(つる)を耳の後ろへ絡みつけに、両手で持つて行つた」という描写が巧みだ。平岡の様子やしぐさが、まるで映像を見るように把握・理解することができる。これは、平岡像が次第に明瞭になっていく効果を持つ。


「僕は相変らずだよ」

「相変らずが一番 ()いな。あんまり相変るものだから」

 平岡は、波乱の人生を歩んできたようだ。


 「そこで平岡は八の字を寄せて、庭の模様を眺め出したが、不意に語調を()へて、

「やあ、桜がある。今漸やく咲き掛けた所だね。余程気候が違ふ」と云つた。話の具合が何だか(もと)の様にしんみりしない。」

 なかなか本題に入らない平岡。また、互いの意思の疎通が図れない。よほど話しにくい内容なのだろうか。


「代助も少し気の抜けた風に、

「向ふは大分 (あつた)かいだらう」と(つい)で同然の挨拶をした。すると、今度は寧ろ法外に(ねつ)した具合で、

「うん、大分暖かい」と力の這入つた返事があつた。恰も自己の存在を急に意識して、はつと思つた調子である。代助は又平岡の顔を眺めた。」

 用があって自分のもとを訪ねてきたのに、その内容を話そうとしない平岡に、代助はどう対処していいかわからず気が抜けてしまう。平岡は代助に用がある一方で、何かを考えている様子だ。


「平岡は巻莨(まきたばこ)に火を()けた。」

一時、会話が保留となった。そこに婆さんが登場する。


「其時婆さんが漸く急須(きうす)に茶を()れて持つて出た。今しがた鉄瓶に水を射して仕舞つたので、煮立るのに暇が入つて、つい遅くなつて済みませんと言訳をしながら、洋卓(テーブル)の上へ盆を載せた。二人は婆さんの喋舌(しやべ)つてる(あひだ)、紫檀の盆を見て黙つてゐた。婆さんは相手にされないので、(ひと)りで愛想笑ひをして座敷を出でた。」

 ふたりの前に現れた婆さんは、客をもてなす役割を果たすために登場したのだが、会話が停滞しているその場の雰囲気を察したこともあり、茶の提供が遅れた言い訳をする。言い訳、部外者の自分の位置を確保するため、その場を和ませる、などの理由による、婆さんの言葉だ。無言は気まずいからだ。婆さんの気遣いに反し、「二人は婆さんの喋舌(しやべ)つてる(あひだ)、紫檀の盆を見て黙つてゐた」。婆さんにしてみれば、自分の居場所がなく、気まずいことこの上ない。だから、「相手にされない」婆さんは、「(ひと)りで愛想笑ひをして座敷を出た」。


「「ありや何なんだい」

「婆さんさ。雇つたんだ。飯を食はなくつちやならないから」

「御世辞が好いね」

 代助は赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へ()げて(さげす)む様に笑つた。」

 婆さんにしてみれば、自分の勤めを果たしただけだ。それなのに平岡に「ありゃ何なんだい」と言われる筋合いはない。平岡は、婆さんの対応の不自然さと、そもそも代助の家に婆さんがいることへの不審を、「ありゃ何なんだい」と言ったのだろう。代助が「赤い唇の両端を、少し弓なりに下の方へ()げて(さげす)む様に笑つた」のは、婆さんの人間性の低さへの蔑視を平岡と共有する様子。

 家政婦として婆さんは雇われている。


 家政婦なら、「君の家から誰か連れて呉れば好いのに。大勢ゐるだらう」と言う平岡に対して、「みんな若いの許りでね」と代助は真面目に答える。代助の実家は、たくさんの家政婦がいる裕福な家なのだろう。代助はそこから独立して家を構えていることになる。働かない代助の家計が気になるところだ。


 「平岡は此時始めて声を出して笑つた。

「若けりや猶結構ぢやないか」」

 昔の友人の気兼ねのなさが現れた場面。軽口をたたく平岡。


 「兎に角 (うち)の奴は好くないよ」

 代助が「家」を嫌う理由・背景がありそうだ。彼が実家を出ていることも関係しているだろう。


「「あの婆さんの外に誰かゐるのかい」

「書生が一人ゐる」

 門野は何時(いつ)の間にか帰つて、台所の方で婆さんと話をしてゐた。」

 「何時(いつ)の間にか帰つて、台所の方で婆さんと話をして」いる門野の声が座敷まで聞こえてきたから、平岡はこう言ったのだ。話の流れがとてもスムーズだ。漱石の巧みさ。


 「それ(ぎり)かい」となおも追及する平岡に対し、「それ限だ。何故(なぜ)」と返す代助。平岡が聞きたいのは、次の、「細君はまだ貰はないのかい」ということだ。

 「代助は心持赤い顔を」する。話題が自身の恋愛事情に移ったことへの恥じらいだが、彼は「すぐ尋常一般の極めて平凡な調子になつた」。照れ隠しである。そうして、「(さい)を貰つたら、君の所へ通知位する筈ぢやないか」と、当たり前の答えをする。恋愛にうぶな代助の様子。


 「「(それ)よりか君の」と云ひかけて、ぴたりと已めた。」

 ここで突然今話を「ぴたりと已めた」漱石さん、意地悪です。

 相変わらず平岡の用事は明かされておらず、平岡の妻についてどうやら代助も何か因縁がありそうな気配を漂わせる。次回が気になって仕方がなくなる語り口だ。

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