夏目漱石「それから」本文と評論11-2「代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた」
◇本文
代助が黙然として、自己は何の為に此世の中に生まれて来たかを考へるのは斯う云ふ時であつた。彼は今迄何遍も此大問題を捕へて、彼の眼前に据ゑ付けて見た。其動機は、単に哲学上の好奇心から来た事もあるし、又世間の現象が、余りに複雑な色彩を以て、彼の頭を染め付けやうと焦るから来る事もあるし、又最後には今日の如くアンニユイの結果として来る事もあるが、其都度彼は同じ結論に到着した。然し其結論は、此問題の解決ではなくつて、寧ろ其否定と異ならなかつた。彼の考によると、人間はある目的を以て、生れたものではなかつた。之と反対に、生まれた人間に、始めてある目的が出来て来るのであつた。最初から客観的にある目的を拵えて、それを人間に附着するのは、其人間の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる。だから人間の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない。けれども、如何な本人でも、之を随意に作る事は出来ない。自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向つて発表したと同様だからである。
此根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた。歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考へたいから考へる。すると考へるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩いたり、考へたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てゝ、活動するのは活動の堕落になる。従つて自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自ら自己存在の目的を破壊したも同然である。
だから、代助は今日迄、自分の脳裏に願望、嗜欲が起るたび毎に、是等の願望嗜欲を遂行するのを自己の目的として存在してゐた。二個の相容れざる願望嗜欲が胸に闘ふ場合も同じ事であつた。たゞ矛盾から出る一目的の消耗と解釈してゐた。これを煎じ詰めると、彼は普通に所謂無目的な行為を目的として活動してゐたのである。さうして、他を偽らざる点に於てそれを尤も道徳的なものと心得てゐた。
此主義を出来る丈遂行する彼は、其遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲はれて、自分は今何の為に、こんな事をしてゐるのかと考へ出す事がある。彼が番町を散歩しながら、何故散歩しつゝあるかと疑つたのは正に是である。
其時彼は自分ながら、自分の活力の充実してゐない事に気がつく。餓えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自ら其行動の意義を中途で疑ふ様になる。彼はこれをアンニユイとなづけてゐた。アンニユイに罹(かゝ)ると、彼は論理の迷乱を引き起すものと信じてゐた。彼の行為の中途に於て、何の為と云ふ、冠履顛倒の疑を起させるのは、アンニユイに外ならなかつたからである。
彼は立て切つた室の中で、一二度頭を抑えて振り動かして見た。彼は昔から今日迄の思索家の、屡繰り返した無意義な疑義を、又脳裏に拈定するに堪えなかつた。その姿のちらりと眼前に起つた時、またかと云ふ具合に、すぐ切り棄てゝ仕舞つた。同時に彼は自己の生活力の不足を劇しく感じた。従つて行為其物を目的として、円満に遂行する興味も有たなかつた。彼はたゞ一人荒野の中に立つた。茫然としてゐた。
彼は高尚な生活欲の満足を冀ふ男であつた。又ある意味に於て道義欲の満足を買はうとする男であつた。さうして、ある点へ来ると、此二つのものが火花を散らして切り結ぶ関門があると予想してゐた。それで生活欲を低い程度に留めて我慢してゐた。彼の室は普通の日本間であつた。是と云ふ程の大した装飾もなかつた。彼に云はせると、額さへ気の利いたものは掛けてなかつた。色彩として眼を惹く程に美しいのは、本棚に並べてある洋書に集められたと云ふ位であつた。彼は今此書物の中に、茫然として坐つた。やゝあつて、これほど寐入つた自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物を何うかしなければならぬと、思ひながら、室の中をぐる/\見廻はした。それから、又ぽかんとして壁を眺めた。が、最後に、自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へた。さうして口の内で云つた。
「矢つ張り、三千代さんに逢はなくちや不可ん」 (青空文庫より)
◇評論
今話は、最後の「矢つ張り、三千代さんに逢はなくちや不可ん」という結論・「自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法」に至る思考過程が説明される。今話も代助と語り手が一体となっている。代助自身が語っているのに、自身を無理やり「彼」と第三者化しているかのようだ。融合というか形式の借用というか。
今回、これを特に強く感じる理由は、三千代に会うことが必然であるという結論に至る過程の説明に、やや無理があるからだ。結論が先にあり、何とかそこにたどり着きたいと足掻く語り手の様子がうかがわれる。
健康な肉体、確かな精神と思考。それらを所有しているにもかかわらず、「論理に苦しめられ」る。(前話) そうして思考のピントがうまく合わなくなる。自分を取り巻くあらゆる外界物との折衝の場面でそれを強く感じる代助。
自分は三千代を愛している。三千代も同じく感じているだろう。ふたりの愛は真実のものだ。それなのにふたりの愛は交わらない。どうしてこんなことになってしまったのだろうという苦悩と後悔が代助の頭を巡る。これも「生存競争の因果」(前話)なのか。
以降、代助の論理・思考を追っていく。
「代助が黙然として、自己は何の為に此世の中に生まれて来たかを考へるのは斯う云ふ時であつた」。自己の存在理由への問。
代助がこのようなことを考える「動機は、単に哲学上の好奇心から来た事もあるし、又世間の現象が、余りに複雑な色彩を以て、彼の頭を染め付けやうと焦るから来る事もあるし、又最後には今日の如くアンニユイの結果として来る事もある」。
「アンニュイ」…(仏)たいくつ。倦怠。(三省堂「新明解国語辞典」)
そうして「其都度彼は同じ結論に到着した」。「然し其結論は、此問題の解決ではなくつて、寧ろ其否定」だ。
代助は考える。「人間はある目的を以て、生れたものではな」い。「之と反対に、生まれた人間に、始めてある目的が出来て来る」。だから、「最初から客観的にある目的を拵えて、それを人間に附着するのは、其人間の自由な活動を、既に生れる時に奪つたと同じ事になる」。
従って、「人間の目的は、生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない」。しかし「之を随意に作る事は出来ない」。
その理由を代助は、「自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向つて発表したと同様だからである」と説明する。「自己」が「存在」し続ける「経過」そのものが、「自己存在の目的」となると言いたいのだろう。あらかじめ「随意」に「目的」を作ることはできない。生きていることそのものから自然と目的は生じなければならないと、代助は考える。
「自己存在の目的」は、「生れた本人が、本人自身に作つたものでなければならない」が、それは不随意であり、「経過」とともに自然にでき上るものだという「根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としてゐた」。
意識の「活動」化自体を「目的」と考える代助。あらかじめ目的を設定し、それに向かって活動することは、活動と「思考の堕落」だ。
「従つて自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自ら自己存在の目的を破壊したも同然である」とは、何かの「方便」・「目的」のために「活動」することは、本来の「自己存在の目的を破壊」することになるということ。
「だから、代助は今日迄、自分の脳裏に願望、嗜欲が起るたび毎に、是等の願望嗜欲を遂行するのを自己の目的として存在してゐた」
…代助の「活動」の「目的」・源は、「願望嗜欲」の「遂行」だ。あらかじめ何かの目的のためにするのではない。ただ「願望嗜欲」の「遂行」のために「活動」するのであり、それがそのまま「自己の目的」となる。
これは言いかえれば、「願望嗜欲」の「遂行」のために「活動」するということになる。つまり「活動」の「目的」は、「願望嗜欲」の「遂行」ということだ。「彼は普通に所謂無目的な行為を目的として活動してゐたのである」がそれにあたる。「願望嗜欲」の「遂行」を、代助は「道徳的」と規定する。
「此主義を出来る丈遂行する彼は、其遂行の途中で、われ知らず、自分のとうに棄却した問題に襲はれて、自分は今何の為に、こんな事をしてゐるのかと考へ出す事がある。彼が番町を散歩しながら、何故散歩しつゝあるかと疑つたのは正に是である」。
…ここに代助の自家撞着が表れる。彼は、無目的での活動を述べていたのに、これでは何かの目的のために散歩していたことになってしまう。散歩自体が目的だったはずなのに、散歩が何かの目的であり、その目的の忘却への疑念が述べられる。
自己矛盾に陥った理由を、「自分の活力」が「充実してゐない」からだとする代助。「餓えたる行動は、一気に遂行する勇気と、興味に乏しいから、自ら其行動の意義を中途で疑ふ様にな」り、「彼はこれをアンニユイとなづけてゐた」。アンニユイは、「論理の迷乱を引き起す」。「行為の中途に於て、何の為と云ふ、冠履顛倒の疑を起させるのは、アンニユイに外ならなかつたからである」。
「冠履顛倒」(かんりてんとう)…冠を足に履き、履を頭に被る意。二つの物事の重要度や価値、また目的と手段の関係などを、全く正反対に取り違えること。(三省堂「新明解国語辞典」)
「彼は立て切つた室の中で、一二度頭を抑えて振り動かして見た」。なぜなら、「昔から今日迄の思索家の、屡繰り返した無意義な疑義を、又脳裏に拈定するに堪えなかつた」からだ。代助自身、アンニュイから自己存在への問いに陥ることを、「無意義」と感じている。だから「その姿のちらりと眼前に起つた時、またかと云ふ具合に、すぐ切り棄てゝ仕舞つた」。「同時に彼は自己の生活力の不足を劇しく感じ」、「行為其物を目的として、円満に遂行する興味も有たなかつた」。「彼はたゞ一人荒野の中に立つた。茫然としてゐた」。
「生活力の不足」は「行為其物を目的」とすることを妨げ、何をする「興味」も持てなくなる。この時の代助は、そのような状態にあった。
代助は、「高尚な生活欲の満足を冀ふ」一方で、「道義欲の満足を買はうとする男」でもあった。「此二つのものが火花を散らして切り結ぶ関門があると予想」し、「それで生活欲を低い程度に留めて我慢してゐた」。
自己のエゴと社会の道義を守ろうとする気持ちの両立。しかしこの二つは時に「火花を散ら」し鋭く対立する場面があり、エゴは控えていた。
「普通の日本間」。「是と云ふ程の大した装飾もなかつた」。「額さへ気の利いたものは掛けてなかつた」。「色彩として眼を惹く程に美しいのは、本棚に並べてある洋書」ぐらい。代助はこのように「生活欲」をセーブして生きている。
しかし、「これほど寐入つた自分の意識を強烈にするには、もう少し周囲の物を何うかしなければならぬと、思ひながら、室の中をぐる/\見廻はした。それから、又ぽかんとして壁を眺めた。が、最後に、自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法は、たゞ一つあると考へた。さうして口の内で云つた。
「矢つ張り、三千代さんに逢はなくちや不可ん」」と。
この最後の結論に至る過程が、何とも無理に感じる。三千代に会う理由は何なのかというと、普段は抑えていた・薄弱な生活欲・エゴ・「自分の意識」から解放される・強烈にするためということだ。「自分の意識を強烈にする」・エゴの尊重のためには、道義を無視し、その結果として三千代に会う、ということになる。
代助は結局、三千代に会うというエゴの遂行のためには不徳義も鑑みないということを言いたいがために、長々と一話をかけて説明したことになる。これは、自分の気持ちにすら素直になっていない代助の様子を表したかったのか、それとも三千代に会いたいという自己のエゴの、代助なりの正当化・「論理」化をしたかったのか。
「これほど寐入つた自分の意識を強烈にする」、「自分を此薄弱な生活から救ひ得る方法」は、「もう少し周囲の物を何うかしなければならぬ」・「最後に、たゞ一つある」と考える代助。それは、「矢つ張り、三千代さんに逢はなくちや不可ん」」という方法・結論だった。ここで代助は、「道義」を否定し、自己のエゴを貫くことを肯定する。
それにしても、「愛する三千代に会いたい」という、ただそれだけの気持ちの説明・理由付けに、このような「論理」を展開し正当化することで、いわば自分で自分を納得させようとするのは、迂遠な論法であり、まだるっこしいことこの上ない。
また、その正当化も成立してはおらず、結局は世の「道義」によって彼は裁かれることになる。




